文化祭の翌朝、先輩の甘やかしがさらに進化する
先輩が胸に抱きついたまま、しばらく動かなかった。
細い腕なのに、その抱きしめ方には驚くほどまっすぐな熱があって、俺は息をするのも忘れそうになる。
朝の光がカーテンの隙間からやわらかく差し込み、テーブルの上のミルクの湯気を淡く照らしていた。
昨日の文化祭の熱気とはまるで違う、静かで穏やかな朝。
けれど胸の奥にある高鳴りだけは、昨夜よりもむしろ強くなっている気がした。
「……藤崎くん」
先輩が俺の胸に頬を寄せたまま、小さく名前を呼ぶ。
その声はまだ少し寝起きの甘さを残していて、聞くだけで心臓が落ち着かなくなる。
「はい」
「今日、ほんとに特別な日にしたいの」
そう言って先輩は顔を上げた。
少し赤くなった頬と、まっすぐにこちらを見つめる瞳。
学校で見せる凛とした先輩ではなく、今ここにいるのは、俺にだけやわらかい表情を向けてくれる“澪”だった。
「特別って……もう十分特別ですよ」
そう答えると、先輩は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
その笑みは嬉しそうで、でも少しだけ照れているようにも見える。
「……そういうこと、さらっと言うのずるいわ」
「すみません」
「謝らなくていいの。
むしろ、もっと言ってほしいくらい」
そう言いながら、先輩は俺の手を取って、自分の膝の上にそっと重ねた。
その仕草があまりにも自然で、まるで最初からそうするのが当たり前みたいだった。
指先が触れ合うだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
朝食を食べながらも、先輩は何度も俺のほうを見ていた。
スクランブルエッグを口に運ぶたび、トーストをちぎるたび、その視線を感じる。
最初は気のせいかと思ったけれど、目が合うたびに先輩がやわらかく微笑むから、やっぱり見られているのだとわかる。
「……先輩、そんなに見られると落ち着かないです」
そう言うと、先輩は少しだけ首を傾げた。
「だって、見ていたいんだもの」
あまりにもまっすぐな返事に、思わず言葉を失う。
先輩はそんな俺の反応を楽しむみたいに、くすりと笑った。
「昨日からずっと思ってるの。
文化祭で楽しそうにしてる藤崎くんも好きだったけど、こうして朝ごはんを食べてる藤崎くんも、すごく好き」
「そんなに変わらないと思いますけど……」
「変わるわよ。
昨日はみんなの中にいるあなた。
今は、私の隣にいるあなた」
その言い方があまりにも甘くて、胸が熱くなる。
“私の隣にいるあなた”――その言葉だけで、自分が先輩にとって特別な場所にいるのだと実感させられる。
朝食を食べ終えると、先輩は食器を片づけながら振り返った。
「藤崎くん、今日は予定ある?」
「今日は特にないです」
「よかった」
その一言に、先輩の本音がそのまま滲んでいた。
もっと一緒にいたい。
そう思ってくれているのがわかって、胸の奥がやさしく満たされる。
「じゃあ、今日はゆっくりしよう?
昨日いっぱい歩いたし、今日は何もしないで、のんびりする日」
「のんびり、ですか」
「そう。
本を読んでもいいし、映画を見てもいいし、ただ隣にいてもいい。
私はね、そういう時間も好きなの」
先輩はそう言って、洗い終えた手を拭きながら俺の隣に戻ってきた。
そして当然みたいに、また肩を寄せてくる。
その距離の近さが、もうすっかり自然になっていることに気づいて、少しだけくすぐったい気持ちになった。
「藤崎くん」
「はい」
「昨日の夜から、ずっと思ってるんだけど……」
先輩は少しだけ言葉を切って、俺の顔を覗き込むように見た。
「あなた、私のこと甘やかしすぎじゃない?」
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。
すると先輩は、少しだけ唇を尖らせた。
「文化祭でも、クレープ買ってくれて、お化け屋敷でもずっとそばにいてくれて、帰り道も、家に来てからも、ずっと優しかった。
そんなふうにされたら、私……もっと欲しくなるわ」
その言葉は冗談めいているようで、でも本気だった。
先輩は自分の気持ちを隠さない。
好きだと思ったら好きだと言うし、もっと欲しいと思ったら、ちゃんとそう伝えてくれる。
その素直さが、どうしようもなく愛おしい。
「先輩がそうしてほしいなら、いくらでもします」
そう答えると、先輩は一瞬だけ目を見開いた。
それから、困ったように、でも嬉しそうに笑う。
「……ほんとに、そういうところよ」
先輩はそっと俺の頬に触れた。
指先がやわらかくて、熱い。
「私ね、たぶんこれからもっとわがままになるわ」
「いいですよ」
「即答なの?」
「先輩のわがままなら、たぶん嬉しいので」
その瞬間、先輩は小さく息を呑んだ。
そして次の瞬間には、また俺の肩へ額を預けてくる。
「……だめ。
そんなこと言われたら、ほんとに止まれなくなる」
その声は甘くて、少しだけ困っていて、でも幸せそうだった。
俺はそっと先輩の背中に手を回す。
抱きしめる、というほど強くはない。
ただ、ここにいると伝えるように、やさしく触れる。
すると先輩の肩がわずかに震えて、それから安心したように力を抜いた。
窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっていた。
昨日の文化祭の夜とは違う、穏やかで明るい時間が流れている。
それなのに、先輩とこうして寄り添っていると、まだ夢の続きを見ているみたいだった。
「ねえ、藤崎くん」
「はい」
「今日から、もっと名前で呼んでもいい?」
その問いかけに、胸がどくんと鳴る。
昨夜、ベランダで一度だけ呼ばれた名前。
あのときのやわらかい響きが、すぐに蘇る。
「……はい。嬉しいです」
そう答えると、先輩は少しだけ照れたように笑った。
「じゃあ……恒太くん」
たったそれだけで、胸の奥が熱くなる。
名前を呼ばれるだけで、こんなにも心が満たされるなんて思わなかった。
しかもそれが、澪先輩の声ならなおさらだった。
「はい、先輩」
「ふふ。
返事するの、ちょっと嬉しそう」
「嬉しいですから」
そう言うと、先輩は本当に幸せそうに目を細めた。
その表情を見ているだけで、こっちまで笑ってしまう。
「ねえ、恒太くん」
「はい」
「今日だけじゃなくて、これからもいっぱい甘えてね。
私、あなたを甘やかすの……たぶんすごく好きだから」
その言葉は、朝の光よりもやさしく、温かかった。
文化祭は終わった。
昨日という特別な一日は、もう過ぎてしまった。
でも、その続きをこうして先輩と一緒に過ごしている。
それだけで、昨日の幸せが終わったわけじゃないのだとわかる。
「……じゃあ、遠慮しません」
そう答えると、先輩は嬉しそうに笑って、また俺の肩に寄りかかった。
「うん。
その代わり、私も遠慮しないわ」
その言葉に、胸の奥で小さな予感が灯る。
昨日の文化祭で縮まった距離は、もう元には戻らない。
むしろ今日から、もっと近くなっていくのだろう。
先輩の甘やかしは、たしかにこれからさらに進化する。
でもそれは、ただ甘いだけじゃない。
お互いの気持ちを確かめながら、少しずつ、自然に、深くなっていくものなのだと思う。
静かな朝の部屋で、先輩の体温がすぐ隣にある。
そのぬくもりを感じながら、俺はそっと目を閉じた。
昨日の提灯の光も、夜風も、先輩の「好き」も、全部まだ胸の中に残っている。
そしてその上に、今日のやわらかな朝が静かに重なっていく。
文化祭の翌朝。
それは終わりではなく、俺と澪先輩の新しい時間の始まりだった。
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