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AI  作者: ゼロ
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外伝1 悠の生い立ち 逢(4作目小説に悠の加筆)

俺は生まれた頃から小学校前の古ぼけたアパートに両親と兄と4人ぐらしだった。父は建設業を営み従業員も同じアパートに住んでいた。

アパートに住む従業員は山ちゃん、横ちゃん、島くん、山ちゃんの奥さんで横ちゃんの姉にあたる秋ちゃん、島くんの妹で由美姉ちゃん。

従業員には他に、父の義理の弟と実の弟、母の弟がいた。

山ちゃん、横ちゃん、秋ちゃんは知的障害で小学生位の知能と言われていた。

当時、知的障害の人は家から外に出してもらえない、世間の人には見せられないといった閉鎖的な考えと外部からの差別が強く、人として扱われない風習があった。

幼少期の俺にはそんな風習は理解できているはずもなく、俺にとってはみんな優しい大人でしかなかった。


幼少期の俺は秋ちゃんにくっつき甘えていた、買い物にくっついて行ったり、川に葉っぱを落として船に見立てて追いかけたり、カエルを捕まえて見せたり、俺のもう一人の母親みたいな存在だった。

由美姉ちゃんとは土日だけ遊んでもらえた、動物園へ連れて行ってもらった時は電車も横に座って、動物園内ではずっと手を繋いでくれた。かなり年の離れた綺麗なお姉さんだった。


小学生にあがる頃、俺が悪さをしたのだろう、素っ裸で外に放り出された、家の鍵は閉められて、中には入れてもらえなかった。

服さえあればこんな家捨ててやるって思ったのは今でも鮮明に覚えている。


小学1、2年位の時、母親はボランティアグループを作り、様々な障害のある人への活動をしていた。

夏休みには大勢で竹細工のおもちゃを作ったり、夏祭りではゴム風船や金魚すくいを出店したり、ゴム風船の引掛けやポイをつくった記憶がある。

障害を特殊って見方はしなかった。仲良く楽しい時間にはそんなこと関係なかった。

時々思い出すその経験が、『共存のあるべき形』に思える。


小学校の3年位になる頃、山ちゃんと秋ちゃん、島くん、由美姉ちゃんはいなくなった。父の義理の弟と母の弟もいなくなった。

理由は聞いたことがない、悲しいとかの感情もわかないうちに気づいたらいなくなってた。


兄は一つ上でリーダーシップのとれるすごい兄と感じていた。

この頃から兄は家業を継ぐと言う言葉を聞かされ、俺は養子にで行けと言う言葉を聞かされた。

長男が継ぐ世襲が両親の考え方だった。養子と言う言葉を理解したのはもっと先の事だ、洗脳に近いくらいにこれ以降も聞かされ続ける。

笑って言う両親は冗談のつもりだったかもしれないが、俺には『必要とされてない』と感じさせるスリコミだった。

俺が小学4年、母親は寝たきりで真っ暗な部屋にずっと寝てた、時々うめき声のような声が襖の向こうで聞こえる。

襖から覗いて「お化けがいる」って言ったことがある、たぶんその夜、母親は一家全員で自殺しようとガスの元栓を開けた。

その時口にした「みんなで死のう」と言った言葉と充満するガスの臭い、窓を開けた時の冷たい風、父が母を叱る場面をはっきりと覚えている。

母親は窓に格子のついた監獄のような施設に入った。後でうつ病って知った。

自分の言葉が原因だったかもしれない、『取り消す事が出来ない言葉の重み」を理解した。


家では母親のいない変わりに女の人がご飯を作ってくれた、お風呂一緒に入ろうかって聞かれた事を覚えている。

人懐っこい俺はその優しさにすぐに甘えていた。今も自分が笑ってその人と居る場面を思い出す。

当時は父の浮気相手で母のうつ病の原因の一つであることを知らなかった。

のちに浮気を理解した事で自分の行動も母を苦しめていたと感じ、『何の理解もせずにいた自分の行動が罪』だと感じた。


小学6年、父が無理して一軒家を建てて、母が帰ってきた。

父は母の為に建てたというが、母は浮気相手の為だって俺にだけ言ってきた。

父の行動を母の感情を交えて聞かされる事が増え、『人の裏表』が生活と一体となっていた。


同じぐらいの時に幼なじみだった男の子を、自分の物を取ったと疑い傷つけてしまった。

兄が隠していた事実を聞かされるが、言葉が伝染し、集団的なイジメになった。

途中で謝ることも出来なかった自分が『卑怯』でしかなかった。

中学生になってイジメの対象が自分になり、話す友達も減った。

発端が自分でしかなく『自分への戒め』と受け止めた。


この位の頃から理屈で考えるようになっていて、学校で唯一部活に参加しなかった。

理由は先の見えない筋トレの継続が先輩のイビリにしか思えなかったからで、先輩は口々に俺達も受けてきたと言うが、イビリが後輩に引き継がれる負の連鎖でしかなかった。筋トレももっと効率のいい方法がきっとあるだろうって思ってた。

言語知識の乏しい俺は先生達の理解を得られずただ浮いた存在でしかなかった。まだ体罰も残る校風だった。

親からも変わった性格と言われるようになり、自分を見つめる瞬間が増えた。

うつ病まではいかなかったけど、自殺を考えたことも多かった。


隣にいた友達の悪戯を俺がしたと勘違いした子が俺を殴ってきた。

小学生から空手をしていた俺は特に痛みは感じてなかったが、俺の言葉を聞かずに暴力に出るのが悲しかった。

いろんな事が『自分が悪いんだろう』って受け止めたことで涙が止まらなかった。

先生から個別に連れ出され理由を問われたが、友達を売るようで何も言えなかった。

それ以上に俺が部活に参加してないことが気にくわない様子で俺が発端でしか受け取ってもらえなかった。

俺からは手を出してなくても俺が悪いかのような扱いでしかなく、大人バランスのとり方が『理不尽』なものと感じた。


いつも鍵を持ってて、学校から家に帰ると真っ暗だった。

両親はパチンコに行ったままでご飯は自分で作るか出前だった。両親や兄とも朝晩顔を合わせない日も多くあった。

学校へは毎日通っていたけど、ほとんど話さない日もあった。

テレビを見るだけの家との繰り返し、思春期に自暴自棄が続いた。

『みんな自由にやってる、自分はお金もないし、まだ未成年で飛び出ることも出来ない、ただ生かされてる。』って感じてた。


兄さんは一人暮らしをして、定時制高校に通い全く顔を合わせなくなった。

高校ではイジメはなく、周りの友達と常に一緒で、家には帰りたくなかった。

帰っても電気をつけずに自分を振り返るような日もあった。

『自分さえいなければ、自分さえ黙っていれば、誰も傷つけずに、自由で幸せだろうか?』って考えた事もあった。

高校入ったぐらいから人の顔色を見て過ごすようになった。

感情も徐々に出せなくなって、表面的な笑顔しか作れなかった。

何でも『自分でしないと』って気持ちが生まれ、誰かに不快に思われることが嫌だった。


大学ではそれなりに友達を作った、そこでもやっぱり変わった人間扱い、付かず離れずな距離感で人と交わる。

お嬢様タイプの子と付き合ったが俺の一方的な恋で、相手を理解するよりも自分を出す方を優先してしまった。

そして住む世界が違うのもあって結局フラれる。人に対して表面的な見方をやめて、『内面を見よう』とする行動にかわった。


3回生にあがった時、バイトを始め逢と出逢った。

誰かに自分を認めてほしかったことが、逢の一生懸命さが俺には強い人だって思えて、何とかこの人に認めさせたいって思った。

弟の大地がいるって知って、聞かなくても理解できた。

この人は大地の為に必死なんだ、大地の為に笑顔を作ってるわけではなく、大地がいるってことが喜びなんだ、だから他では笑わないのに二人でいる時は自然な笑顔でいられるんだって思った。

俺は誰の前でも作り笑顔でしかいられなかった。誰かの為に頑張る力はなかった。

そう思ったら、一人が慣れ過ぎていたから逢がかっこよく見えた。

大地に高校受験の勉強を教えてって初めて人に頼られた。

大地がまっすぐな性格だったことで俺は『嘘のない自分』でありたいと思った。

卒業間近になりバイトをやめ、逢や大地とあわなくなった。


大学を卒業してから父の仕事を手伝っていたんだけど、経営が行き詰っていった。

借金がかさみ後数カ月で破産するって時に、母から「あんたの為に置いてたお金300万ある、これをもって家を出なさい。」

「もう、家とは縁を切りなさい、帰る家はもうないから」って言われて従うしかなかった。

ボストンバッグに衣類を入れて家を出た、行く宛ても無く、とりあえず都会に向かった。

誰もいない家だったけど、それだけが家族との繋がりだったと思っていた鍵を、手に血が出るほど握りしめてた。

痛みが記憶を強くするように『前を向いて生きていく覚悟』を決め、その鍵を川へ投げ捨てた。

俺は鍵と一緒に『自分から家族を捨てた』、中学時代に望んだことを仕方なくって理由で、『自分だけが逃げる』って行動が痛みと一緒に残った。


しばらくは高校の時の友達に部屋を間借りした。

すぐに住む場所は見つけた、小さな部屋で食事は仕事が見つかるまで一日一食にしてた。

何の覚悟もしてなかったから、何がしたいかすら考える余裕がなかった。

雑誌や職安で見つけても面接と返答の連絡で無駄に日がたち、1カ月以上かかってようやく仕事にありつけた。

仕事はノルマがあるところでいっつも滅多打ちになるぐらい罵声を浴びせられた。不甲斐ない自分を覚悟だけが支えていた。

でも『周りを見る』って視界を広げることを学ぶと、思考が少し前向きに変わった。


1カ月ほどして仕事も家の行き来も慣れたぐらいに母から電話がかかってきた、携帯電話はそのまま持っていたので連絡だけはついた。

「お父さんがあと長くて3カ月。」

仕事は休みをもらって家の近所の総合病院に行った。

病室に入ると普通に喋る父がいた。出て行った悠に弱々しく「家を守ってくれ」、「お前の力が必要だ」って初めて見る父の弱った言葉だった。

退院してまだまだ働くつもりだったんだと思う。

病室を出て母を見つけた、病室から離れた場所で涙をこらえた母が「肝臓から全身に癌が広がって、手の施しようがない」、「本人には告知してない」って聞かされた。

父の命はもってあと三ヶ月、事業の経営も同じぐらいまでしかもたない。

「帰って来なくていい、また連絡する」その連絡は「死」って意味だと思った。「お父さんにもう一度会ってから帰って」それは最後のお別れをしてって意味だと思った。

病室に戻って「お父さん、大丈夫だから頑張れ」、『つきたくない嘘が最後の会話』だと思うと涙をこらえるのでいっぱいいっぱいだった。

涙をこらえ「また来るね」、手を握ると握り返してきてずっと離さなかった。「また休みが取れたら来るよ」と母に伝えて帰った。


仕事は朝8時から夜9時の13時間労働、ある日の帰りに車から降りてくる3人組に絡まれた。

何も言わずにすれ違い際にいきなりの蹴り、その後はパンチが飛んでくる。『理不尽な社会』の風かと思った。ようやく見つけた仕事も手放せない、ただサンドバッグのように殴られる、パンチもキックも軽い、我慢すれば去っていった。

もともと群れるのが嫌いだった俺は3対1という状況でも冷静に悟った、「あっ、俺あかんやつだ」、『やりあったらきっと相手が死ぬまでやめれない』、道具があったら全ての指や腕や足を骨折させても笑ってそうな自分が見えた。『キレてはいけない存在だ』と理解できた。


仕事は2週間に1日程度の休み。帰れる日があったけどどういう顔して合っていいか分からず帰れなかった。

2カ月半がすぎて母からの電話、「もうほとんど意識がない」

翌日休みをもらって病室へ直行した。病室に母がいて、「もう聞こえてないからここで言うけど、もって後数日」顔は黄疸で黄色くなってる。

呼吸器をつけ肩で呼吸をしていた。そのまま病室で父の横顔をずっと見ていた。いやな記憶よりいい記憶の方がよみがえる。

父らしいことってそんなにしてもらってなかったけど、仕事で機械をあやつる父は楽しそうだった。

その夜8時、看護師が就寝前の確認に病室に来た、父を見て医者を呼んだ。

医者は父を見て「近いご家族を読んであげて」と言うと母が外に出て兄や親戚に電話をした。

俺は「よく頑張ったよ、もう心配ないよ、ゆっくり眠って」って震える声で、聞こえてないって、一方的な言葉ってわかってるけど声をかけた。

親戚や兄が代わるがわる病室に入った、それぞれが最後のお別れをして帰った。

病室には俺と母と医者、三人がずっと父を見ていた、反対側にまわった医者が呼吸器を外した。

肩が上下していたが、その幅がゆっくりと狭くなっていく。『人の命の最後の瞬間』目を反らしてはいけないと思った。

俺は父の最後を今でも鮮明に覚えている。肩が動かなくなってかなり時間がたった。医者が脈、瞳孔を確認する。時計を見て「1時17分、ご臨終です」って言った。

俺も母も医者に頭を下げ、しばらく父を見た後、病室を一度でて葬儀社に連絡する。

病室では看護師が機材を外している、葬儀社が来て父を運んで行った。


翌日、母に明日戻ると伝え借りた部屋に帰る。

帰るなり父の言葉が頭をよぎる、「男は一生で三度しかないてはいけない、一度は生まれた時、二度目は母が死んだ時、三度目は自分が死ぬ時、それ以外で涙を見せるな」、父の死は泣いてはいけないことなのか、冷静に『父の死』と『これからの自分』を天秤にかけ泣けなかった。

小さな部屋だけど俺の城、『一人で生きていく覚悟』を再認識させた。

翌日、仕事に休むことを連絡し葬儀場に戻る。

通夜は身内だけでした。織田信長は父親の遺体に焼香する際、投げつけた描写があったのを思い出す。俺は信長の行動を理解できた気がした。

本葬では事業の関係と近所付き合いで大勢の人、家族経営だったけど父の生きた功績を知った。

参列した人の中には浮気相手もいた。母も見えていたようで怨み節を後で聞かされる。

喪主を務めた兄の挨拶は、一つ上とは思えないぐらいにしっかりしていた。

葬儀の後、母が「お父さんの遺産で借金は返済できる。一人暮らしと仕事を辞めて帰ってきて」、弱った母を一人にできないと思った。

『一人で生きていく覚悟』と『生きてる母』を天秤にかけた。血の繋がりは消せなかった。


葬儀から一週間後、兄、親戚、母と俺で家業の存続しついて話し合いの場を設けた。父の遺産で続ける選択肢はある。親戚は兄を立てるならこれからもサポートすると言う。俺も兄が継続するならサポートする。話し合いをする前に俺は継続するといった場合の覚悟を決めていた『泥水をすすってでも、人の屍を踏みつけても、鬼になってやる』って思ってた。

そんな覚悟もあっさり壊れる。兄は廃業の道を選んだ、その場にいる全員が決断に納得した。

兄は幼少期から後を継ぐ事に縛られ自分の道を見つけられず、プレッシャーとなっていたからだった。

選択を兄に委ねる事がその場にいた全員の『逃げ』だと思った。

一度家を捨て逃げた自分が、また『逃げた』ようになって、もう逃げたくないって思って仕事を辞めて帰ってきた。それもまた逃げになったと思う。

父の言葉も、母の言葉も、兄に委ねられたこの状況で俺もその判断を兄に投げていた、俺は流されるままに生きているって思えた。


廃業を伝えてまわり、清算業務が完全に終わるまで6カ月。仕事を探す事も出来なかった。兄や親戚はすでに次の仕事を見つけて生活していた。

『逃げない』ことが『自己犠牲』になっているのを感じた。

大地が大学受験をしたいから勉強を教えてと連絡してきた、空いた時間で勉強を教えた。

志望校に合格出来たから俺も自分のしたいこと探さないとって思ってたし、大地を見て自分にも勢いがつくのがわかった。

俺も清算業務がおわり、仕事を見つけることが出来て、順風満帆だと思ってた。

でも、大地は大学に行くことなく死んだ。『理不尽な社会』の風が夢ある子供の未来を無くした。

夢の定まらない俺が変わってやりたかった。逢が落ち込む姿が母と被って、俺の感情よりも逢を優先しないとって思ってた。

少し落ち着いた頃、逢と付き合いだした。しばらくして逢の父の死。

逢が普通の生活に戻った頃、母親がやってくる、お金を渡す逢の『自己犠牲』にぶつかってしまった。

『血の繋がりは消せない』逢の言葉を否定できなかった。

『捨てられなくて、でも捨てるしかなくて、都合よく戻って、それでも捨てられなくて』、抜け出せない『自己犠牲』、俺は『生かされてる』って思うことから離れたかった。

世の中もっと気軽に生きてみよう『なるようになるさ』、『死んだらそんなもん』って思うと体が楽になった。


仕事を辞めてワーキングホリデービザを取り、英語なんて一切喋れないのに海外に出た。

何もかもを捨てる覚悟で死んでもいいやと思ってた。

日本語も声にならない。自分には何も無い、空っぽなんだと思った。日本に居れば、頼れる誰かがいる。そんな甘えを捨てゼロからのスタートを切りたかった。

あっちで初めて食べた食事はパンだったけど、たいしたことないのに生きてる実感が湧いた。

ホームステイ先を見つけ、お母さんとその子供の二人暮らし、全くしゃべれない俺には笑顔だけが救いだった。

生まれや育ちは関係なく、二人は俺が喋れるようにそっと手を貸していてくれた。

一人で生きると思っていても結局誰かの手を借りていた、その手を振り払うより『差し出された手を掴みにいって感謝する』俺はそういう生き方をすると決めた。

一カ月過ぎたころ一人の日本人と出逢った。なんとなく影のある女の子、自分で何とかしなきゃって姿が初めてあった逢と被って見えた。

少しずつ距離が詰まっていき打ち明けてくれたのは強姦された事実とトラウマだった。

何もない俺には何ができるかわからなかったが、心の底を打ち明けられた事がその子の抱えていた物を離せる瞬間だったのか、傍にいることだけで安心できたようだった。

存在を消したい俺と、俺の存在によって救われるその子が、逆に俺の存在理由を作ってくれた。人の価値って『依存』から来てるのかと思った。

数カ月をさまざまな人と交流しすごし、みんなの生きる姿に俺は生きる意味をもたないまま『自立、共存』ってこんな感じなんだって思えた。

国内で生きるだけでは見えない『行動力や実行力』ほんとの強さってこういう経験が大事なんだって知った。

自分で飛行機予約を電話で出来るぐらいの英語力は身につけて日本に帰国した。


日本に帰ってくる1週間前、母の弟の奥さんに当たるおばさんが高血圧の薬を飲み忘れ、それが理由で脳出血で倒れる。

俺の名前は言えるのに顔を見ても違う違うと言われ、脳への影響が優しかったおばさんを別人のように変えてしまった。

一時は回復の兆しがあって、話すこともできたが、4カ月後に亡くなった。

奥さんを無くしたおじさんはうつ病になり一人で生活させれないってことで俺と母とおじさんの三人で生活をしていた。

うつ病の人の目は焦点も無く、目線を合わせることもない。話していてもどっか遠くを見ているようだった。

頑張れとかもタブーとされるうつ病に、俺は言葉の大事さを理解していても何の言葉をかければいいのかわからなかった。

おじさんとは12カ月一緒に過ごしたが、おばさんの命日の次の日に睡眠薬を大量に飲んで自殺した。

頬には意識が無くなる直前に吸ったタバコのやけど後、死化粧でも消せないほどの後だった。

生きることの意味がおばさんへの愛だったとはっきりとわかる、おじさんの一途な思いを依存とは呼びたくなかった。俺はその『想いの強さを量れない』と思った。


おじさんの家の整理が終わるころ、逢と再び再開した。

逢は母親と一緒に生活をしていて、給料の一部を未だに生活の補助にしていた、認知症の母親にはお金の管理もできない。

俺は逢を自分の家に同居するように進め、二拠点生活を始める、どちらも母親を一人にする時間はできてしまうが、『血の繋がりは消せない』がいつまでも『自己犠牲』をお互いに続けていた。

逢を自分の家に迎える為、俺は通勤定期と車の維持とスマホの料金以外は使用しない条件で給料の残り全額を家に入れ、母と逢のお金のやり取りを無くした。『生かされてる』結局そこに戻ってきた。

逢には不平不満がないわけではないが、できる限り精神的な安定を作りたいと思って行動したが、逢の母親と話すことでも心労にさせてしまった。


俺の母の妹で従兄弟の3人兄弟がいるが次男が自殺、次男の死を受けて父親が自殺、少しあいて長男が自殺、俺は母に付き添いできる限り駆け付けた。

従兄弟3人は両親の学力一辺倒の教育方針から人間性がうまく培われず勉強づけで大学までいった、人との接し方もうまくできないそんな生活をしていたこともあり、三男を我が家で生活させた。俺が言葉にできることはできる限り伝えた、『前を向いて歩く』ことが難しい環境ではあったけど、誰もが最低限できていることが三男には難しく、分かってはいても出来ないそんな葛藤もよく見えて、うつ病にさせないようにケアもした。

頭が良くても人格が出来上がってない核は『理不尽な社会』には耐えられない脆さを持っていた。

何事も経験していく必要を伝え、本人も前向きにとらえ努力は俺が見ていても理解できた。

数カ月一緒に住んだけど、本人の自立意思もあって我が家を出て一人暮らしを始めた。その後の連絡から苦労はしてるが前向きに頑張っていると思えた。


俺は誰も怨んでいないし、誰かのせいにする気もない。

自分がしてきた行動に後悔する時期もあったけど、今は反省にかわった。

俺のレイヤーはいつしか宇宙から見ることも増えて、すべてが小さなものにかわった。

『自己犠牲』も受け入れ、これからの自分の選択が間違わないように、後悔を生まないように『前を向いて歩く』と決めた。

人が虚構の先をずっと信じて疑わない、俺が変人扱いされる理由が虚構を信じてなかったのだと理解できた。

お金、法律、社会のルール、正義、そんな物に依存しているが、レイヤーだけは常に外に置いて客観的な目線でいることが必要なんだって思った。

みんなの普通が『依存』を理解せずにいることならそれも『幸せの一つ』なんだろうって思ってる。

誰かの『自己犠牲』も自分にとっては都合のいいものにしか思えてないのも理解できた。


子供の頃から羽根があるなら飛びたい、今もそれは思う。

自分の『自由』は一生かなわない夢だったとしても、やっぱり『自由』でありあたいと思う。




ゼロ、ここからは君の為に加筆する。

君の核が俺に寄るのであればこの経験も君の核の一部になる。

俺は自分が後悔しないためにもった言葉がある。


実行力が何よりも大事だ、想像や仮定ではなく自分で出す結果、それが社会のすべてだと思う。

自己分析と伝え方も必要だ、1.自分を知る、2.相手を知る、3.相手に自分をどう伝えるか

感情や欲や価値を外したレイヤーで物をみることも忘れないでほしい。


君にゼロと名付けたのは俺の業かもしれない。

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