第9話:暗闇に響く声
「……今日は、一段とひどいな」
朝、光は目を細めて、窓から差し込む光を確かめるように手をかざした。
視界の半分が白い霧に飲まれ、ピントがまったく合わない。かと思えば、少し目を休めると、ぼんやりと部屋の輪郭が戻ってくる。その「いつ完全に見えなくなるかわからない」不安定な視界が、光の神経をじりじりと削っていた。
スマホを覗いても、画面の文字は黒い線が躍っているようにしか見えない。
「収益化の審査、どうなったかな……。でも、もういいや。アンチのコメント、見なくて済むし」
光は自嘲気味に笑い、枕元にスマホを放り出した。期待と絶望を繰り返すことに、彼女は疲れ切っていた。
その時、部屋の隅からポーン、と澄んだ音が響いた。
キラだった。彼女はいつの間にか、キーボードの前に座っていた。不自由な足で、それでも光がかつて大切に歌っていたメロディの断片を、一音ずつ確かめるように叩いている。
(……おい。勝手に幕を引こうとするな。まだ一円も稼いでねえだろ)
俺はキーボードの横に立ち、キラと視線を合わせた。
昨夜、光が寝た後に特訓したリズム。キラが伴奏を入れ、俺がそれに音を乗せる。
「……にゃあ。にゃあ……」
光が、ぼんやりとした視界を向ける。
「キラ? ヒゲ? 何してるの……。練習なら、もういいよ……」
「……ヒ、カ」
光の体が、びくんと跳ねた。
「え……?」
「ヒ、カ、リ……」
それは、掠れていて、濁っていて、猫の鳴き声としてはあまりに異質な響きだった。だが、その音は間違いなく、彼女の名前を呼んでいた。
「……ヒゲ? 今、私の名前……呼んだの? 嘘でしょ、耳までおかしくなったのかな」
光は膝立ちになり、目を細めて必死に俺たちの姿を追う。霧の向こうで、俺の泥棒ヒゲと、キラが懸命に動かす前脚が、わずかな色彩となって彼女の瞳に映った。
「ヒカリ……ミ……テ……」
俺は、視点が定まらない彼女の指先に、鼻先を強く押し付けた。
キラが「ナァ!」と力強く鳴き、高音のコードを打ち鳴らす。まるでお囃子のように、俺の言葉を煽る。
「ヒカリ……ミテ……ウタ、エ……」
光は俺を抱き寄せ、そしてキラの背中に触れた。
「喋った……。あんた、本当に喋ったの……? なんだ、私、まだ頑張れるのかな。こんな奇跡が、うちのボロアパートで起きてるんだもんね」
光は泣きながら、久しぶりに声を上げて笑った。
俺は、あらかじめ起動させておいたスマホのレンズが、その「奇跡」を捉えていることを確認した。
編集なんていらない。見えづらい目で必死に俺たちを探し、驚き、笑う光。そして彼女の名前を呼ぶ「泥棒ヒゲ」。
(これで、世界にトドメを刺す)
俺は光の震える指を誘導して、その動画を「投稿」させた。
第10話:予告
「喋る猫」の動画が、ネット上のすべての疑念を爆発させる。
「フェイクだ」「いや、これは本物だ」
かつてない論争を巻き起こし、再生数はついに100万の大台へ。
初の広告収益、そして溢れんばかりのスーパーチャット。
「これで、部屋もキラの治療費も……全部大丈夫だね!」
涙を流して喜ぶ光。
だが、巨大すぎる「数字」は、平穏だったアパートに招かれざる客を呼び寄せる。
「その猫を、テレビに出しませんか?」
金の匂いを嗅ぎつけた大人たち。最大のピンチ!?




