第8話:最初の亀裂
「36,000再生……」
光は、薄暗い部屋でスマホの光を頼りに画面を凝視していた。投稿から数日、動画の伸びは、光にとって「喜び」から「恐怖」へと変わりつつあった。
『猫に無理やりピアノ弾かせてない?』
『「最後」って言って注目集めるやり方、透けて見えるわ』
『設定盛りすぎ。どうせ目は見えてるんでしょ』
画面に並ぶ無機質な悪意に、光の指が震える。
「……嘘じゃないのに。本当に、もうすぐ見えなくなるのに……」
光は膝を抱え、スマホを裏返した。収益化の申請は「審査中」のまま。広告収入はまだ1円も発生していない。
そんな光の足元に、キラがトコトコとおぼつかない足取りで寄ってきた。キラは心配そうに「ナァ……」と鳴き、光の膝に頭を預ける。
「ごめんね、キラ。……私がもっとちゃんとしてれば。あんたたちまで、変なこと言われなくて済んだのに」
光の涙がキラの頭に落ちる。キラはそれを嫌がることなく、ただ静かに寄り添い続けた。
(……チッ、どいつもこいつも勝手なことを。だが、光のメンタルが限界だ)
俺は、キラと目を見合わせた。キラの瞳には「私は大丈夫。だから光を助けて」という強い意志が宿っているように見えた。
その夜。光が泣き疲れて眠りについた後、俺は風呂場へ向かった。
俺が喉を震わせ、「オハ……オハ……」と不気味な濁音を繰り返していると、入り口の隙間からキラが顔を出した。
(何してるの? ヒゲ)
(……特訓だ。これでお前たちの飯と、こいつの目を手に入れる)
キラは俺の無茶な試みを察したのか、風呂場の脱衣所にあった子供用のおもちゃのキーボード(未来男がかつて買ってきたものだ)を、前脚で器用に叩き始めた。
キラが鳴らすポーン、という澄んだ音。それに合わせて発声のタイミングを整える。
(キラ、お前……)
(私も手伝う。一緒に音を作ろう)
猫の喉は、普通に鳴けば「ミャー」だ。だが、キラが叩く音のリズムに合わせることで、言葉の「イントネーション」に近づけていく。一人でやるより、伴奏がある方が発音のメリハリがつきやすい。
俺が濁った声で「ヒ、カ……リ……」と鳴らすたび、キラは頷くように鍵盤を叩いた。
深夜、風呂場で繰り広げられる、泥棒ヒゲのボイトレと足の不自由なピアニストの特訓。
翌朝。
光が目を覚まし、窓の方を向いたまま固まった。
「……ヒゲ? キラ? どこ?」
彼女はすぐ横にいる俺たちの姿を探して、空気を掴むように手を伸ばした。
「朝なのに、霧が晴れないよ。……昨日より、ずっと真っ白だ」
光の視力を奪う砂嵐が、ついに世界の色彩を奪い去ろうとしていた。
第9話:予告
急速に失われていく光の視界。
「もう、動画の編集もできない。コメントも読めないよ……」
光の絶望。だが、そんな彼女の耳に届いたのは、聞き慣れた「猫の鳴き声」ではなかった。
キラが奏でる旋律に乗せて、泥棒ヒゲが喉を絞り出す。
「ヒ、カ……リ……」
それは奇跡か、それともマダオの執念か。
一気に跳ね上がる再生数と、加速するアンチの攻撃。
「こいつら、本当に喋ってる……!?」
世界がひっくり返る第9話、「猫、ついに口を開く」。




