第19話:境界線を越える者
翌朝、俺たちは佐伯が営む「佐伯動物総合病院」を訪れていた。
一条医師は、婚約者の成瀬に「荷物は全部持ってね」と指示を飛ばし、自身は光の肩を抱いて手術の受付を済ませる。
「佐伯、準備はいい? 私の婚約者の親友が命を懸けて守った猫よ。しっかり頼むわ」
一条の言葉に、佐伯は「相変わらずだな」と苦笑し、光からキラを預かった。
「光ちゃん、大丈夫だ。30万の価値、この腕で見せてやるよ」
キラが手術室へ運ばれていく。光はその背中が見えなくなるまで、一条の手をギュッと握り締めていた。
手術の待ち時間、俺は成瀬と共に病院のラウンジにいた。成瀬は、持参した一通の封筒を俺の前に差し出した。
「ヒゲ……いや、未来男。お前と光さんが住んでいたあの部屋を整理していた時、一条が棚の奥の二重底からこれを見つけたんだ」
それは、未来男(俺)が生前、**「いつか作家として成功し、光を一生養える自信がついた時に渡そう」**と決めていた手紙だった。
(……ああ、そうだ。あの頃の俺は、自分の才能を信じきれなくて、光に将来の約束一つ言えなかった。……この手紙を書いた時は、まだ、光の目が悪くなっているなんて気づきもしなかったんだ……)
「お前は、自分が作家として大成した暁に、これを彼女に渡すつもりだったんだろう?」
成瀬が静かに問いかける。
「猫になって初めて、彼女の苦しみを知った……。お前の無念は、想像に余りあるよ」
俺は俯いた。一番近くにいたのに、何も見えていなかった。猫になってようやく「見えた」真実に、俺はどれだけ自分を呪っただろうか。
その時だ。
——脳内を掻き乱すような、激しいノイズが走った。
喉の奥の緊張がふっと消え、視界が猫特有の、色の薄い世界に引き戻されていく。
「ニャ……ア、……ウ、ッ……」
(……しまっ……言葉が……抜けていく……!?)
異変に気づいた一条医師が、俺の喉元を触診し、目を見開いた。
「……そんな、喉の変異が消えてる? あんなに異常に発達していた発声用の筋肉が、まるで魔法が解けたみたいに普通の猫の柔らかさに戻っていくわ……。成瀬、医学的には説明がつかないけど、これじゃあもう……」
成瀬は、必死にもがく俺の目を見て、すべてを察したように静かに首を振った。
「……『考えるのは戦略でアイデアは閃き』……。お前は、光さんの安全とキラの手術という『戦略』を完遂してしまった。未練が消えたことで、奇跡が幕を閉じようとしているのか……」
「ヒゲ! どうしたの!? 返事をして、ヒゲ!」
駆け寄ってきた光の声が、遠くの波音のように聞こえる。
俺は必死に声を絞り出そうとしたが、喉から漏れるのは、ただの小さな「ニャア」という鳴き声だけだった。
(……手紙を、読んでやってくれ……。俺は、ずっと……)
その瞬間、手術室のランプが消えた。
「……終わったぞ。光ちゃん、大成功だ!」
佐伯の声が響く。だが、光の腕の中で、俺の意識は深く、静かな「一匹の猫としての眠り」へと沈んでいった。
第20話:予告
キラの足は完治し、リハビリを経てまた三人と二匹の生活が始まる。
光は感謝を込めてYouTubeでの配信を再開するが、そこには大きな誤算があった。
「……喋らなくなったヒゲなんて、ただの猫じゃん」
「合成音声だったの? 騙された」
ヒゲが言葉を失ったことで、心ないコメントが溢れ、再生数はみるみる落ちていく。
焦る成瀬と、自分を責める光。
そんな中、成瀬は預かっていた「あの手紙」を動画で公開するという最後の賭けに出る。
次回、「再起のプロット」。




