挿話 信念の果てに(西村正樹視点)
ヒデの義弟の息子 正樹視点です
二万五千字と長いです
どうぞお付き合いくださいませ
自分が見えている世界を周囲も同じように見ていると、どうして思えるのだろう
自分が見えていないものは他のひとも見えていないと、どうして思えるのだろう
他のひとが見えているものが自分の見えているものと同じだと、どうして思えるのだろう
「『みえる』ってどういうことだと思う?」
あればまだ幼稚園の頃。普段はアメリカに住んでいるおじさんが法事で帰国したとき。
「物理学の研究者」と聞いて「なにをするひと?」とたずねた僕に、おじさんはそう聞いてきた。
「きみが目にして認識しているものを認識できない人間がいる」
「逆に他の人間が見えていることをきみが認識できていないこともある」
「探し物をしているときに、ないかい? 散々探して見つからなかったものが目の前にあったとか」
「そんなふうに、『みえる』『みえない』がひとによって違う」
「そんな『違い』が何故起こるのかを知りたくて、調べているんだ」
おじさんの話は幼い僕にも理解できた。
ウチには昔から『ヒトならざるモノ』と呼ばれるモノがたくさんいる。ヒトと同じ姿をしているモノ、動物の姿をしているモノ、刀や茶器などの道具類、他にもよくわからない形のモノ、いろんなモノがいて、僕達の世話をしてくれたり遊んでくれたりしている。
けれどみんながみえないヒトがいる。むしろみえないヒトのほうが多い。
それを知ったときは信じられなかった。
「なんでみえないの?」「わざとみえないフリしてるの?」問いかけた僕に相手のほうが不快感を出した。
「なに言ってるの?」「誰もいないじゃないか」「ウソつき」「気持ち悪い」
幸い僕には双子の弟がいた。弟も同じようにウチのみんながみえていた。だからふたりで反論した。けれどほとんどのヒトはウチのみんながみえなくて、僕らは「ウソつき」と呼ばれた。
大人はウチがお寺なこと、おとうさんもおかあさんもおじいちゃんおばあちゃんも「すごいひと」と知っていたから『みえる』僕らを「将来有能」「才能がある」と褒めてくれた。それで僕らを認めてくれるヒトもいたけれど余計に嫌うヒトもいた。
そんなときに、アメリカのおじさんと話をした。
「『みえる』『みえない』がひとによって違う」おじさんはそう言った。
おじさんはとってもとっても頭が良くて、なんでもできるヒトらしい。おとうさんもおかあさんも褒めていたし、近所の大人もみんなおじさんを「すごいひと」と言っていた。
そんな「すごい」おじさんでも『みえる』ということは「わからない」。
「『目にみえること』がすべてではないわ」おばあちゃんは言った。
「特にこの街では、霊力の有無や量によって『みえる』ものが違う」
「そのことでほかのひととわかりあえないことも、トラブルになることもあるわ」
「大事なことは、あなたが『みえる』ものを『みないふり』をしないこと」
「『みえる』ものをしっかりと受け止めて、そのうえでどうしたらいいか考えること」
「そのためにも、しっかりとお勉強しましょうね」
お寺やおばあちゃん家のまわりにはおばあちゃんの結界があるから悪いモノは入れない。けれど、外にはいろんなモノがいる。中には僕らみたいな『能力者』の子供を食べようとするモノや、人間に取り憑いて悪いことをしようとするモノがいる。そういうのから僕らを守るために、お寺の誰かが隠れて一緒に行動してくれていた。
特に一緒にいたのが呉羽。梟の妖という呉羽は、白と黒のまだら模様の髪をした大きな大人で、危ないときには僕と弟を片方ずつの腕で担ぎ上げて走って逃げてくれた。
勉強も訓練も呉羽達が一緒だった。僕と弟は呉羽達に守られ、育てられ、一緒に成長していった。
◇ ◇ ◇
おばあちゃんの家には小学生から高校生くらいの子供が数人暮らしていた。「おじいちゃんおばあちゃんの子供」「おとうさんおかあさんのきょうだい」そう説明された。
僕達がちいさいときにはそんなおにいさんおねえさんにもかわいがってもらったり遊んでもらったこともあった。
小学四年生にあがるときにおばあちゃんの家に来たのは、僕らと同い年の女の子だった。
ミホというその子に初めて会ったとき、その子はおじいちゃんに抱っこされていた。おじいちゃんがしっかりと抱き締めて、その子はおじいちゃんにしがみついて離れなかった。
「正樹くんと直樹くんと同い年なの」「できれは仲良くしてもらえるとうれしいわ」おばあちゃんはそう言ったけれど、その子は全力で僕らを拒絶していた。
「洋一さんと由樹さんの子供よ」「大丈夫よ」おばあちゃんがなにを言っても、おとうさんおかあさんおじいちゃんがなにを言ってもその子はおじいちゃんから離れなかった。
僕らだっておじいちゃんに抱っこしてもらうことなんてもうないのに。
僕らのおじいちゃんなのに。
そんな気持ちが、ジクリと浮かんだ。
ミホは小学校にも行かず、おじいちゃんとおばあちゃんがずっとお世話していた。そのせいで僕らはおじいちゃんからの修行がなくなった。おとうさんに文句を言ったら「もうちょっと待ってあげて」「今みんなでがんばってるから」と言われた。
意味がわからなかったけれど、呉羽達がせっせと構ってくれたからその子のことを忘れたフリで過ごしていた。
その半年後、今度は男の子が来た。
サトルと紹介された男の子はやっぱり同い年で、けれど人形みたいに表情のない子供だった。
ミホとサトルがどうしておばあちゃん家に来たのか、小学校に行かずなにをしているのか、僕らは知らなかった。ただ学校に行って勉強をして、宿題をして修行をして、呉羽達と遊んでいた。
あれはなにがきっかけだっただろう。クリスマスだったか正月だったか。『西村の子供』『西村のきょうだい』と言っているおじさんおばさん達が集まって、僕らきょうだいとミホとサトルにプレゼントをくれていたとき。ミホが爆発した。
「あんた達には『ちゃんとしたおとうさんとおかあさん』がいるじゃない!」
「やさしい大人に囲まれてるじゃない!」
「おとうさんとおかあさんをゆずってくれてもいいじゃない!」
多分「僕らのおじいちゃんなのに」みたいなことを言ったんだと思う。幼い僕がヤキモチを妬くくらいに、ミホはおじいちゃんにべったりだった。
ワンワン泣き出したミホを抱っこして、おじいちゃんは家に帰っていった。僕には「すまないね」と頭を撫でて。
呆然とする僕を、サトルはにらみつけてきた。
「なにも知らないくせに」「おまえは恵まれているくせに」
その言葉と覇気に、目のチカラに、ゾクリとした。どこかをザグリと突き刺された。
そのサトルの目と口を、おばあちゃんが後ろから押さえた。隠すみたいに。
そのままサトルを抱き寄せてよしよしと頭を撫でる。
「まだちょっと早かったみたいね」「ごめんなさいねみんな」
そしておばあちゃんは言った。
「あなたのみえているものがすべてではないの」
「あなたにはみえていないことがたくさんあるの」
「もちろん私達大人が敢えて教えていないことも」
「これから少しずつ、いろんなことを学んでいきましょうね」
ミホを泣かせたこともサトルを怒らせたことも叱ることなく、おばあちゃんはやさしく笑ってそんな話をしてくれた。
それから色々、本当に色々あって、ミホとサトルとは本当のきょうだいのようになった。その過程で何度もぶつかり合った。ときには殴り合いもした。一緒に試練を乗り越えたし死線も乗り越えた。
そんなあれこれを経験した中で、僕は思い知ったことがある。
たとえ僕にはみえなくても、そのひとが『みえる』と言うならばそれはそのひとにとっての事実。
たとえ百人が「嘘だ」と断定することでも、そのひとが「本当だ」と訴えるならばそれがそのひとにとってのホントウ。
ミホは邪神と呼ばれていたモノに『呪い』をかけられていた。ミホが成長したら喰うために。
そのせいで低級妖魔やナリソコナイを呼び寄せる体質になってしまい、本人も周囲もトラブルが絶えなかった。
何度も何度も死にそうな目に遭っていたある日、偶然おじいちゃんとおばあちゃんに助けられた。
サトルは属性特化の高霊力保持者だった。能力者の家に生まれ霊力を搾り取られる生活を続けていたある日、霊力が暴走して一族みんな死んだ。サトルも壊れる寸前でおばあちゃんに助けられた。
どっちの話も信じられない話ばかりで、けれど僕らが一緒に対処したあれこれをふまえると納得できるところもあった。
そんなふたりは大学進学を期におばあちゃん家を出た。「もうひとりでも大丈夫」おばあちゃんが太鼓判を押して、ふたりはそれぞれに巣立っていった。
ふたりのあとにも何人もがおじいちゃんおばあちゃんと暮らした。その子達もそれぞれに事情を抱えた子供だった。
僕にはみえないものにおびえている子供もいた。僕には理解できないことをこわがっている子供もいた。
そんなあれこれを経験して、僕はひとつの信念を持った。
「たとえ誰もが『嘘だ』と言っても、僕は信じよう」
「どれだけ疑わしくても、嘘くさくても、そのひとが『信じて』と言うならば僕は信じよう」
「そのうえで僕にできることをしよう」
僕は『能力者』としては普通レベルでしかない。おばあちゃんみたいな精神系能力者ではない。おじいちゃんやおとうさんみたいな強さには至っていない。おかあさんみたいに術に精通しているわけでもない。姉も弟もそれぞれにすごい『能力者』だけれど、僕はどうにも平凡というか、並レベル以上にはなれなかった。
「成長の度合いはひとによって違う」おじいちゃんは言った。
「毎日研鑽を重ねること」「続けること」「それができているおまえは、十分『すごい能力者』だよ」
「正樹が寺を継ぐべきだ」弟は言った。
「俺は正樹みたいに『信じる』ことはできない」「他人を『信じる』ことができるおまえは僧侶向きだ」「おまえのその『信じる姿勢』に救われるひとは必ずいる」「俺だっておまえの『信じるチカラ』に救われてきた」
「『能力者』か『非能力者』かは別にして」「おまえは僧侶になるべきだと、俺は思うよ」
進路について両親は「好きにしたらいい」と言った。
「自己防衛のために『戦うチカラ』を身に着けさせただけで、退魔師を継いで欲しいわけでも寺を継いで欲しいわけでもない」
「もちろん継いでくれたらうれしいし助かるが」
「けれど、強制ではない」
「数年社会経験を積んでから寺に入るのでも、なにかと兼業するのでも、寺を継がないで別の世界に生きるのでも、いいよ」
色々考えて、しばらくは社会を経験することにした。寺も退魔師も祖父と父がいれば大丈夫だろうし、なによりあちこちから「正樹は世間知らず」と言われていたから。
双子の弟も同じように「世間知らず」と言われていた。僕達は呉羽をはじめとする妖達が守ってくれて遊んでくれていたから、普通の部活や学校の友達というのが少なかった。修行だ討伐依頼だとやることが多くてそっちに時間を割けなかったのもあるけれど、必要性を感じなかったのも一因ではある。
ふたりして「世間知らず」のレッテルを貼られていた僕達は、大学生になってバイトを始めた。「同じバイト先だとこれまでと変わらない」と別々のバイトを選んだ。直樹のバイト先に姉の友達がいて、指導してもらっているうちにお付き合いになったのには驚いた。
僕には残念ながらそんな素敵な出逢いは無く、『彼女いない歴』を更新し続けていた。
そうして相変わらず「世間知らず」と言われたまま一般企業に就職。黙々と図面を引くのは性に合っていた。やりがいもあった。土日祝日は休みだから寺の手伝いもできた。なるべく定時で片付けて夜は退魔師の依頼も受けた。
そんな忙しい毎日を過ごしていたら月日はあっという間に過ぎていった。
◇ ◇ ◇
アメリカのおじさんが「結婚した」「出産のためにお嫁さんと帰ってくる」と両親から聞いたときには「へー」としか思わなかった。
家を出て中学校教師をしている弟に会ったときにその話をしたら「聞いた聞いた」と追加情報を教えてくれた。
お相手は幼い頃から妖魔がらみのトラブルに遭っていたこと。おじさんから依頼を受けて調査をした両親が『妹』認定していること。まだ学生のその女性がおじさんに惚れこんでいて、攻略するのに姉と直樹の奥さんが協力していたこと。
「学生って……何歳離れてんの?」
「聞いて驚け。三十以上だ」
「は!?」「なにそれ!?」
「びっくりだよな」「『ジジ専』てヤツかな」
どんな女性かと笑っていたら。
「マコトです」
挨拶してくれたのは、可愛らしい女性だった。
ショートカットに眼鏡。ボーイッシュで可愛い。キラキラした表情が可愛い。女性にしては高めの背。スラリとしたスタイル。それだけ見れば大人びて見えるはずなのに、屈託のない表情が幼く見せている。パッと見、高校生くらいにしか見えない。童顔なのもあるかもだけど、ふわりと笑うその表情が明るくて、おひさまみたいな女性だと思った。
ドギュンと。
ココロを撃ち抜かれた。
こんなに可愛らしい女性がいるなんて。こんなに清らかな女性がいるなんて。
普段接する人間は誰も彼も多少の『濁り』がある。毎日お勤めをして祓い清めている神社仏閣関係者以外でこんな清らかな人間は初めて出逢った。いや、神社仏閣関係者にもここまで清らかな人間は滅多にいない。そのくらいキラキラして、あたたかで、まぶしい女性だった。
なのに僕より歳下のその女性はおじさんにベタ惚れに惚れているのが一目瞭然。おじさんに向ける目とその他に向ける目が違う。おじさんには甘やかな態度を取る。おじさんはおじさんで彼女をものすごく大切にしているというのがよーくわかる。わかりすぎるほどわかる。『見るな』『寄るな』の威圧がすごい。
こうして僕の遅い初恋は、気付いた瞬間に潰れた。
◇ ◇ ◇
マコトさんは秋に出産し、翌年の春に結婚式を挙げた。僕も父の補助として弟とともに式を執り行った。おじさんもマコトさんもしあわせそうで、「よかったね」と祝福した。
そう。祝福した。
祝福できた。
『もう終わった恋』
気持ちに区切りをつけた。
そう思ってた。
そのはずだったんだ。
そのマコトさんはなんかすごい研究者らしい。で、マコトさん狙いの有象無象があちこちから湧いてきて、祖父母と両親が忙しくしていた。僕も「手伝おうか?」と申し出たけれど「それには及ばない」と断られた。
「ただ、もしかしたらあなたにもちょっかいがかかるかもしれない」「しばらくは警戒していてね」祖母にそう言われた。
実際仕事場や通勤で「おや?」ということが何度かあった。隠形でやり過ごして事なきを得たけれど。
会社にもおかしな問い合わせが何件かあった。取り次がれては罵詈雑言を聞かされたり、社内におかしな話を流されたりしていた。
ある日上司に呼び出された。「このところ君の周りで色々と騒ぎが起きている件について聞かせて欲しい」
ごまかす言い方は教わっていた。『青眼寺に同姓同名のひとがいて同一視されている』
『西村』という姓はよくあるものだし、わざわざ社員名簿を調べて住所を照合したりはしないだろうと。
けれど僕は嘘をつきたくなかった。どこかでバレたときがこわかったのもある。けれどそれ以上に『嘘をつく』という行為が嫌だった。ちいさな頃から他のひとに『みえないもの』が『みえる』ことで「ウソつき」と何度もなじられた。『嘘をつく』と思っただけでその傷がジグリと痛む。
「『嘘も方便』だよ」直樹も母も祖母もそう言う。確かにそうだと思う。そのほうが上手に厄介事を避けられと思う。けれど。
「………僕の父が、鳴滝の青眼寺の住職をしておりまして」
結局僕は、嘘を口にできなかった。
『鳴滝の青眼寺』はそれなりに知られている。入社試験でもそれ以降も『青眼寺の家族』ということは一切口にしなかったのは、おかしな贔屓や忖度を受けたくなかったから。実際大学時代はバイト先でそんなことが何度もあった。
「どうも寺を狙った不埒者が、僕が関係者と知って攻撃してきているようです」「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「ご迷惑をおかけしている立場で申し訳ありませんが、僕が青眼寺の関係者だということはここだけの話にしていただけると助かります」「いざとなれば辞職致します」
真摯に頭を下げれば上司は納得してくれた。
帰宅してすぐに両親に報告した。それまでも報連相はしていたけれど「上司からの呼び出し」はさすがにマズいと判断されたらしい。両親と祖母が会社の社長と上司に菓子折りを持って行った。
表向きは僕とは無関係として、迷惑をかけた寺からの謝罪として訪問した両親と祖母。菓子折りの表書きも『青眼寺』としてあった。けれど話というのはどこからでも漏れるもので、あっという間に僕が「鳴滝青眼寺の住職の息子」という話は社内に広まってしまった。
◇ ◇ ◇
昔から、それこそ物心つく前から「青眼寺の息子」と知られると、やたらとすり寄ってくるひとが増えた。『お寺の子』というだけでなく、それだけ両親と祖父母の名が知られているということ。
昔から言われ続けたことがある。
「西村の、青眼寺の『名』を穢すな」
「西村の、青眼寺の『名』に恥じぬように」
祖母が本来の寺の跡取り娘なことも、祖父母の実の子供はアメリカのおじさんひとりなことも、父はその実力を買われて養子となり跡継ぎとなったことも、幼い頃から耳にタコができるくらいに聞かされていた。
「青眼寺は四百年前から続く『対妖魔の救済所』」
「『困っているひとを助ける』ことが私達の使命」
「そのことで恩義を感じてくださる方が感謝を返してくださるけれど、決しておごってはいけない」
「皆様がくださる評価はご先祖様が重ねてこられたもの」
「決してあなた自身にだけ向けられているものではないと承知しておきなさい」
「そのうえで、あなたが『西村』の、『青眼寺』の『名』を背負っていることを忘れてはいけません」
「あなたの行動ひとつ、発言ひとつが、四百年積み重ねてきた信頼を壊すこともあるのです」
実際幼い頃から「西村のぼっちゃん」「青眼寺の次期くん」などと呼ばれてきた。僕が幸運だったのは双子の弟がいたこと。これが長男ひとりだったら耐えられなかったと思う。双子なことで「どちらが後継者か」が明確でなかった。そのうえ実子がいるにもかかわらず養子の父が後継者となっている前例があったことで「後継者」のプレッシャーはかなり少なかった。
それでも『西村』『青眼寺』のプレッシャーは幼い身にはかなりのもので、双子の弟と互いに支え合うようにして日々を乗り越えてきた。
そんな『西村』と『青眼寺』の『名』が、ここに来て再び重く伸し掛かってきた。
僕の勤務する会社でも青眼寺の『名』はそれなりに知られていた。そして祖母の『名』はさらに広く知られていた。
精神系能力者でもあり茶道家でもある祖母は、あちこちに信奉者がいる。信奉者には有力者や有名人がいる。それもあってか『鳴滝青眼寺』『西村智子』にお近付きになりたい人間はそれなりに多い。
だからだろう。これまで接点のなかった社員から何度も声をかけられることが増えた。あんまりな態度を取ることは『西村』と『青眼寺』の『名』を穢すことにつながるので、なるべく丁寧に、愛想良く対応した。
けれど、欲にまみれた態度をぶつけられると、なんていうのか、すごく、疲れる。『名』を背負っていると気負うからか、ものすごく疲弊する。
「会社辞めたら?」直樹にこぼせば簡単げにそんなことを言う。
「もういいじゃないか」「正樹は僧侶になるべきだって」
直樹は昔からずっとそう言っている。僕が「僧侶になるべきだ」と。
「俺、補佐ならするから」「会社辞めて寺に入れよ」
そんな折に、ずっとそばにいてくれた呉羽と碓水がアメリカに行くことになった。
おじさんの護衛としてついてたひとが行けなくなって「その代わりに行く」と。
「おまえはもう立派な大人だから」「もう俺がいなくても平気だろ?」そう言って楽しそうに笑う呉羽に、なにも言えなかった。
なんで。
疲弊からか、さらされ続けた欲のせいか、ひどく昏くなった。
おじさんが全部持って行く。マコトさんも。呉羽も。碓水も。
おじさんはなんでも持ってるのに。退魔師としての実力も。英語ペラペラでなんか賞を取るくらいの頭脳も。背も高くてハンサムで若々しくて、おじいちゃんおばあちゃんの実の子供で、みんなに愛されてて、お金持ちで。
それなのに、呉羽と碓水まで持って行くの? マコトさんがいるのに。ほかのひとだっているのに。
なんで。
なんで。
おじさんがアメリカに戻ることになり、息子のトモくんをおじいちゃんおばあちゃんが育てることになった。そのために寺を完全引退することを決めた。
そのせいで両親は引き継ぎにてんやわんや。寺にいるみんなも巻き込まれててんやわんや。
「僕が寺に入る」と言えばよかったと後から思ったけれど、そのときは会社でのプレッシャーと呉羽達がいなくなった喪失感でボロボロになっていて、ただ毎日会社に行って仕事をするだけで精一杯だった。
直樹の言うとおり、会社を辞めておけばよかった。
呉羽達に「行かないで」と言えばよかった。
せめて誰かにどれだけ重いのか相談すればよかった。
後になって何度も何度もそう思った。
◇ ◇ ◇
『「魔」が差した』としか言いようがなかった。
普段なら、これまでなら、飲み会なんて行かなかった。
どれだけ誘われても「用事があって」と断っていたし、実際突然討伐依頼が入ることがあったから定時過ぎたらすぐに帰るようにしていた。酒を飲むなんてことも無かった。
けれどその年の忘年会は『西村』と『青眼寺』の『名』を出されて「来い」と引っ張られ連行された。
戦闘経験の無いひと相手に振りほどくこともできず、それでも頑なに断っていたら「それでも『あの青眼寺』の子か」と言われ、しぶしぶとついて行った。
席に座らされビールを渡された。「酒は飲みません」と言ったがやはり『青眼寺』を出され飲まされた。
どうにか帰ろうとしていたのに気が付いたら若い女性が隣にいて、腕をつかみ胸を押し当てていた。「やめてください」と訴えたけれど聞いてはもらえず、仕方なくそのままに、こっそり注文したウーロン茶をチビチビ飲んでいた。
そのうちに不快感で吐きそうになった。最初の酒のせいか、店内に充満している熱気のせいか。
隣の女性がなにか言っていたけれど聞き取れなかった。誰かに支えられてどこかに運ばれているのをボンヤリと感じたのを最後に意識が途切れた。
気が付いたときには知らない部屋で、知らないベッドで裸の女性と一緒に横になっていた。
僕は服は着ていたもののあちこちゆるんでいて、特に下は前がはだけていた。
なにがあったのかまったくわからない。それでも若い女性が「西村さんが無理矢理…」と言う。
記憶がない以上「絶対にしていない」とは言い切れず、ただ謝罪した。
「これをきっかけにお付き合いしましょう」と言われたら、どれだけ嫌でも反対できなかった。
帰宅してすぐに両親に報告した。土下座して謝った。「西村の『名』を穢す行いをしました」「申し訳ありません」
「あなたはだまされています」母が断言した。
「そんな手に引っかかるなんて」「情けない」
「今すぐに手を切って来い」と言われたけれど「それはできない」と断った。
「たとえ百人が『嘘だ』と言っても、当人が『そうだ』と言うならば、僕はそれを信じたい」
「信じた結果、僕がだまされたとしても」
「それでも僕は、『信じる人間』で在りたい」
僕の言葉に両親は「なら好きにしろ」と匙を投げた。「どうせお相手がすぐに捨てるだろう」と。「痛い目を見ないとわからない」と。
僕も本当は薄々わかっていた。彼女は滅多に見ないレベルで濁っている。そんな彼女の吐く言葉は嘘だろうと。
それでもこれまでの経験から『嘘を吐くことで救済を望んでいることもある』と知っていた。祖父母が育てた子供にそんな子がいた。
彼女が僕になにを求めているのかわからないけれど、嘘をついてまでなにかを求めているならば、手助けするのが僕に与えられた役割なんだろうと思った。
両親も言ったように、きっとすぐに飽きられると思った。彼女は若く華やかで、僕みたいな冴えない男とは話も合わないだろうと。
けれど翌週の月曜日。
彼女は長かった髪をバッサリと切ってきた。
「『マコトさん』に近付けましたか?」無邪気にそう言った。
そんな話をしていた自分に絶望した。
初恋のことは誰にも、直樹にだって言うつもりはなかった。
そんな話をしたことを覚えていないことが、彼女に無体を強いた証拠だと感じた。少なくとも髪を切らせたのは自分が余計なことを口にしたせいだ。
「どんな償いでもする」と申し出れば「バッグが欲しい」と言う。言われるままに店に連れて行かれ言われるままに支払いをした。
それからも彼女は僕を連れ出してはアクセサリーや服を買わせた。幸いというかなんというか、貯金はあった。特に趣味も無く実家住まいで、給料は貯めるだけだった。
そんな僕を周囲は心配してくれた。直樹も姉も、ミホもサトルも、他にもたくさんのひとが忠告してくれた。「おまえがそこまで背負う必要はない」と言ってくれた。
僕も彼女に何度か聞いたことがある。「あの夜僕はなにをしたの」「どうして僕を放っておかなかったの」
「ひどく酔っていて心配だったから」「なにがあったのかは……私の口からは……」
彼女はただ「信じて」としか言わなかった。そう言われたら僕にはなにも言えなかった。
自分も周囲から信じてもらえなくて傷付いた経験があるから。『みえる』ことを理解してもらえなくて苦しんだ経験があるから。『西村の子供達』が苦しんでいたのを見てきたから。
だから僕は「信じて」と言われたら、たとえ自分がだまされていると理解していても、信じる他に道がなかった。
◇ ◇ ◇
「子供ができた」と彼女が言ってきたときも、だから色々飲み込んで「………そう」とだけ答えた。
何も言えないでいる僕に「結婚しましょう」と彼女は言ってきた。「責任を取ってくれ」と。
結婚を了承した僕が「ご両親にご挨拶をしたい」「謝罪したい」と申し出ればその足で連れて行かれた。
彼女のご両親は怒ることなく、むしろ『西村』と『青眼寺』と縁続きになったと喜んでいた。
そのまま彼女と彼女のご両親を引き連れ帰宅し、両親に話をした。
両親はただ残念そうだった。
「おなかの子に対して息子が責任を取る謂れはない」と断言する母に、彼女もご両親も「言い逃れするのか」「無責任だ」となじった。
「もし結婚するならば、息子は除籍する」「今後一切『西村』とも『青眼寺』とも無関係とする」「一切の接触を禁止する」父の言葉に彼女もご両親も怯んだ。
「それでもいいのか」と問われたから「構いません」と頭を下げた。
そうして彼女と結婚し、彼女の名字を名乗ることとなった。
家を出て彼女と生まれてくる子供と三人で暮らそうとアパートを探すつもりでいたら、ご両親が同居を提案してきた。「そのために家をリフォームしたい」「きみの責任でリフォーム代金を支払え」と。
これも自分の贖罪だと、リフォーム代金を支払った。一括はさすがに苦しくて分割払いで。
リフォーム中もリフォーム後も、なんだかんだと用事を押し付けられていた。子供が生まれてからは子供の世話も家事もほとんど僕が担っていた。
幸いというかなんというか、退魔師の厳しい修行のおかげで体力はあった。両親から色々仕込まれていたおかげで家事もできた。一瞬の隙で生命を取られる戦闘に比べれば、こなしていけば片付く家事はまだ楽だった。
時々、やった覚えのない家事が片付いていることがあった。洗濯物が畳んであるとか。洗い物が済んでいるとか。
そんなときは必ずふわりと懐かしい気配がした。寺にいる誰かが姿を隠して手伝いに来てくれていると気が付いていた。
僕はもう『西村』と無関係なのに。
両親からも「接触禁止」と言われているのに。
それでも心配してくれているんだと、気にかけてくれているんだとわかって、涙がにじんだ。
ご両親も彼女も、結婚してから頻繁に『西村』や『青眼寺』と「縁続きになった」とあちこちで言いふらしていた。他はなにを言われてもなにをされても従っていたけれど、それだけは断固として「やめてください」と言い続けた。
「僕はもう『西村』とも『青眼寺』とも無関係な人間です」「関係者のように言いふらすことは、あなた方の信用を失うことになりますよ」
何度もそう言い、言った相手のところにこっそりと訪問し事情を説明して謝罪した。そのうちに相手にしてもらえなくなったのか、僕の前では口にしないだけか、言わなくなった。
ご両親も彼女も生活が派手だった。「僕の給料ではこの生活は続けられない」と伝え、改善してもらおうとしたけれど「西村の人間なら金を持っているだろう」と謎理論を出され納得させられなかった。
まるで召使いのような生活だと自分でも思った。
生まれた子供は女の子で、僕にはどこも似ていなかった。それでも彼女が「自分は嘘は言っていない」「信じてくれ」と言うから、僕は信じるしかなかった。
『西村』とも『青眼寺』とも縁を切られた僕だったけれど、それでも『西村』と『青眼寺』の『名』を穢すことのないよう生きてきた。娘にも正しく生きてもらいたいと精一杯育てた。
けれど、結果的に娘は妄想癖のある困った子供になった。
学区的に僕も通った小学校に通った娘は、どこかでトモくんを見かけたらしい。うわ言のように「トモくんと結婚する」と言うようになった。
幼い子供によくある恋の病だろうと思った。そう言っている娘さんはウチだけでないことも知っていた。
だから僕は何も言わなかった。応援も、相槌すらしなかった。
その頃にはなにを言っても僕の言葉は聞いてもらえなくなっていた。僕は家では家政夫扱いで、家族団欒は僕以外のものだった。
そんな僕の現状を、直樹は知っていた。多分西村の家族はみんな知っていたんだろう。母も姉も優秀な術者だ。調べようとしたらたいていのことは調べることができる。それに何人かはしょっちゅう隠形で来てくれている。「接触禁止」と両親が命じているのに来ていることがバレたら叱られるのが目に見えているからお互い知らんぷりしているけれど。
「もう十分だろう」直樹は言った。
「おまえは十分尽くしたよ」「あんな連中『家族』なんて呼べない」「離婚しろよ」
「そんな無責任なこと、できない」
「そもそも、その『責任』すら必要ないんだよ」「あの女が嘘ついておまえを縛ってるだけだ」
ミホにもサトルにも何度も言われた。「あんな連中、捨てろ」「逃げて来い」
けど、おまえ達ならわかるだろう? 自分がみえているものを理解してもらえない辛さを。自分の言葉を信じてもらえないかなしさを。
僕もわかるんだ。「ウソつき」となじられる痛みも。最初から拒絶されているかなしさも。
だから僕は、僕だけは、「信じてくれ」と言われたら『信じたい』って、思うんだ。
どれだけ信用ならないことでも。どれだけ荒唐無稽なことでも。嘘だとわかりきっていることでも。
僕は、僕だけは、信じたいって、思うんだ。
信じてもらえることで救われることがあるって知ってるから。
信じてもらえるだけで立ち上がれるって知ってるから。
そのせいで僕が傷付いても。たとえ死んでも。
それはそれで『信じる』って決めた僕の責任だ。
だから誰も悪くない。悪いのは僕。
『信じる』って決めた僕。
だから、そんな顔するなよ。
「………やっぱりおまえは僧侶になるべきだったよ」直樹は鼻を鳴らしてそう言った。
「あんたは馬鹿よ」ミホはそう言った。
サトルはなにも言わなかった。
◇ ◇ ◇
ほんとは、わかってる。
妻は嘘を吐いていると。
ほんとは、わかってる。
僕は利用されているだけだと。いいように使われているだけだと。
『先見』の能力者のおばあちゃんが言うことが真実だということも。父さん母さんが言うことが正しいということも。
ほんとは、わかってる。
けれど、元をたどればこんな状況を引き寄せたのは僕なんだ。
それも僕は、わかってる。
わかってるから、彼女を、家族を、突き放すことができない。
わかってる。なにもかも理解している。
だから、ただ、従っている。
マコトさんに惹かれて。諦めて。けど本心は諦めきれてなかった。
呉羽と碓水がいなくなって。マコトさんも呉羽達も連れて行くおじさんに嫉妬した。理不尽だと。横暴だと。昏い感情に冒された。
「高霊力を持つモノの感情は周囲に影響を与えることがある」おばあちゃんにも両親にもちいさな頃から言われていた。
「憎しみや怒りや嫉妬は『負』の感情」「それにとらわれてしまうと『魔』に堕ちる」「『ナリソコナイ』や低級妖魔になってしまう」「不幸を呼び寄せることもある」「だからこそ、ココロを強く、清く保たなければならない」「そのための修行」
「そうは言っても人間だから、腹が立つことも不機嫌になることもある」「そんなときは上手に吐き出しなさい」「誰かに相談するも良し。美味しいものを食べたり目一杯遊んだりするのも良し」「ひとりで抱えることだけはしてはいけないよ」
そう言われていたのに。
僕は、誰にもなにも言えなかった。
マコトさんにココロを奪われたことも。恋した瞬間失恋したことも。本当は呉羽達にずっとそばにいて欲しかったことも。おじさんにムカついたことも。
職場で『西村』と『青眼寺』を出されて辛いことも。分かりやすく態度を変えて近寄ってくるひとの気配が気持ち悪いことも。
言えばよかった。相談して吐き出したらよかった。
けど僕は言えなかった。
昔からそうだ。僕は『本当に欲しいもの』を口に出せない。
本当はおじいちゃんおばあちゃんをひとり占めしたかった。父さん母さんもひとり占めしたかった。僕のおじいちゃんおばあちゃんなのに。僕の父さん母さんなのに。
心の底ではずっとそう思っていた。
おじいちゃんもおばあちゃんも父さん母さんも僕を大事にしてくれていたと思う。愛情を持って育てられたと思う。けれど、たくさんのひとを同じように大事にして愛情を注いでいた。
両親の、祖父母の愛情は『僕ひとりのもの』ではなかった。
大人が忙しいのはわかっていた。大変なのもわかっていた。だから僕はそのことに対して不満を言うこともワガママを言うこともできなかった。
「僕を構って」なんて言えない。「もっと遊んで」なんて言えない。
大人の邪魔にならないように、邪険にされないように。『西村の子』『青眼寺の子』としてふさわしく在るように。そんなことばかりを気にして『本当の願い』を口にできなかった。
おじいちゃんおばあちゃんを、一度でいいからひとり占めしたい。
父さん母さんと、僕ひとりだけのための時間を持ちたい。
一度でいいから。少しだけでもいいから。
けれど、そんな『願い』、僕は口に出せなかった。
そんなふうに『自分』を出せないまま大人になって、『自分』を出せないままマコトさんに失恋して呉羽達を失って、おじさんに対し『負の感情』を持ってしまった。
だから僕は穢れてしまったんだ。
邪念を抱いたから。
だから『「魔」が差した』んだ。
不運を呼び寄せてしまったんだ。
だから、この状況はすべて僕のせい。
邪念を持ってしまった、うまく吐き出して祓えなかった、穢れてしまった、僕が呼び寄せた事態。
妻も娘も義両親も、僕の穢れに巻き込まれただけ。
だからせめて償いを。
家事をして身の回りの世話をして、彼らのことを信じぬく。
そのくらいしか僕にはできないから。
信じることでナニカが変わると知っているから。
◇ ◇ ◇
風の噂で祖母が亡くなったと聞いた。けれど僕は葬儀に行かなかった。
翌年には祖父が亡くなったと聞いた。やっぱり葬儀に行かなかった。
相変わらず家では家政夫のように働いて、会社では黙々と図面を引いた。
祖父母が亡くなったと聞いてから空を見上げることが増えた。おじいちゃんは、おばあちゃんは、あの空の向こうにいるのかな。あれだけ世話になったのに、かわいがってもらったのに、結局なにひとつ恩返しできなかった。
「せめて」と、毎朝空に向かってお経を唱えている。声には出さず、心の中で。あのふたりなら間違いなく極楽浄土でしあわせに過ごしている。そうに決まっている。だからそんなふたりがしあわせであることを祈って、お経を唱え続けていた。
そんなことが習慣化したある日。
見計らったかのように自宅に全員がいるときに、突然来客があった。
「西村家及び青眼寺の担当弁護士」と名乗った男性がふたり。それぞれがこちらのひとりひとりに名刺を差し出す。弁護士はふたりとも背が高い男性。僕より少し歳上にみえる。黒髪のほうの弁護士からもらった名刺には『安倍 晴臣』と書かれていた。
「もしや安倍家と関係が?」義父が前のめりになる。
「良く聞かれます」と微笑むだけで黒髪の弁護士はそれ以上明言しなかった。
「本日突然お邪魔致しましたのは、青眼寺と西村家の相続についてのお話です」
義父が口を開くより早く弁護士は告げた。意味がわからない僕と違い、義両親も妻も娘までもが色めき立っている。
「僕はもう西村家とは関係のない人間です」はっきりと申し上げれば家族から喧喧囂囂の文句が降ってくる。それでもこれは譲れない。
「相続にあたって、いくつか皆様にご協力いただきたくお邪魔致しました」
僕の話を聞かないのは弁護士達も同じだった。
次から次へと書類を出された。検査の同意書だとか相続のための同意書だとか色々説明された。ちゃんと書類を確認したかったのに義両親はろくに読みもしないで指さされるままにサインしては判を押していった。
そのまま弁護士同伴で病院に行き、頬の内側をぐりぐりされ、採血された。家族全員分の採取検査費用は「すべて西村家が負担」と説明された。
「なにせ西村家は四百年続く名家ですから」「必要な手続きが一般よりも多いんです」「おまけにお寺のほうもありますし」弁護士の説明に僕以外の全員が納得していた。
「正樹さんと奥様、お嬢様には法要にご出席いただきたいのですが、ご都合はいかがでしょうか」
都合はともかく、行くわけにはいかない。断ろうと口を開くより早く弁護士は続けた。
「正樹さんの存在を私共が知ったのがつい先日でして」
「洋一さん――正樹さんのご両親は正樹さんのことについてなにもおっしゃることはなく、私共は『お子様はおふたり』だと判断していたのです」
「ところが三回忌に合わせて開示される遺言状を事前確認しましたら、もうおひとりお子様がいらっしゃるとある」
「『これはいけません』と進言したのですが、ご両親がどうしても首を縦に振られなかったもので、こうして急遽お邪魔した次第です」
「ご連絡が遅くなり申し訳ありません」真摯に頭を下げる弁護士達。家族は納得していたが、僕は納得できなかった。
「僕はもう除籍された身です」「相続権もないはずです」そう伝えれば火のような文句が降ってくる。けれど聞くわけにはいかない。じっと弁護士達を見つめていれば、弁護士はふたりともが困ったように口の端を上げた。
「相続についてはひとまず置いていただいて」「法要にはご出席ください」「これに関してはご両親からも出席許可が出ていますのでご安心を」
なんだかうまく丸め込まれた気がしないでもないけれど、祖母の三回忌と祖父の一周忌に参列することになった。
◇ ◇ ◇
法要のあと、本堂での諸々の説明の中。
娘は信じられない騒ぎを起こした。
「トモくんと結婚するのは自分だ」「トモくんとふたりで青眼寺を継ぐ」と、親戚一同が居並ぶ中で宣言した。トモくんに拒絶され、トモくんが連れていた婚約者に返り討ちにされ、娘は罵詈雑言をまくし立てた。あまりの見苦しさに謝罪するしかできなかった。弁護士に強制退場を命じられ、暴れるのを抱きかかえて本堂を出た。
「なんで止めるの!?」娘に怒鳴られても自分の頭を押さえるしかできない。こんなにも周りが見えていない子だったとは。
「きみには相続権はないよ」「トモくんはきみのことを知らなかっただろう?」「結婚なんてあり得ないことだよ」
「現実を見なさい」そうたしなめても聞く耳を持たない。どうしてこんな子になったのか。
しばらくしたらご参列くださった親戚一同が順に出て来られた。申し訳なさから九十度に腰を折り頭を下げ続ける。そんな僕を誰一人気にかけることはない。まるで見えていないかのように通り過ぎる。
娘が飛び出さないように固く手首をつかまえていた。「離して!」と叫ぶ声も皆様には聞こえないらしい。
「ひとによって『みえる』ものが違う」いつか祖母が話してくれた。ああ。僕はもう皆様にとって『見えない存在』になってしまっていたのか。
普通のひとには『見えない存在』。それは『ナリソコナイ』。妖魔。『悪しきモノ』。僕は、西村と青眼寺の『名』を穢すモノになってしまった。
娘の行動よりも、その事実を突き付けられたことが、恥ずかしく、痛かった。
上げることのできない頭を下げ続けるしかできなかった。
どれほどそうしていたのか。茶髪の青年が声をかけてきた。
「担当弁護士の助手」と名乗った青年にうながされ、娘を連れ再び本堂へと戻る。
「こちらへ」と指示された場所で、座布団からはずれた位置に正座をし、土下座をした。
「申し訳ありませんでした」
他になにも言葉がなかった。ただただ申し訳ない。心底申し訳なくなると自然と頭が下がってしまうということが、嫌というほど染みついてしまった。
弁護士にうながされ、しぶしぶながら姿勢を直す。
「では、皆様お揃いになられましたので、相続についてのお話を始めさせていただきます」
弁護士の言葉を皮切りに話が始まるはずだったのに、何故か妻が十五年前になにをしたのか告白しはじめた。
僕の飲み物に薬を入れ意識を混濁させ、ラブホテルに連れ込んだ。いくつか質問をして弱みを握ったあとは僕の服をゆるめ放置。ベッドのシーツを乱し明け方に裸で隣に横になっただけで、行為には至っていない。
僕が『西村』と『青眼寺』の跡取りだと聞いたからの行動だったこと。目的は西村家と青眼寺の財産だったこと。それが思惑がはずれ「失敗だったと思っている」こと。
あれもこれも自白する妻。いや、戸籍上妻だった女性。
わかっていた。愛情なんかないと。
それでも、信じた。信じることでなにかが変わると信じていた。
結局僕が負けただけ。
彼女にだまされた僕が、彼女を変えられなかった僕が、愚かだっただけのこと。
娘もベラベラと自白した。僕が「父親ではないと知っていた」。「冴えないオジサンよりもお金持ちのパパのほうがいい」と。
直樹が刀を一振り僕に差し出してきた。
つまりは、そういうこと。
「俺がやろうか?」
「………いや。僕がやるよ」
「最期まで、責任は取らないと」
西村の、青眼寺の『名』を穢した。
その責任を取らないと。報復を、後始末をしないと。
ストン。娘の首を落とす。痛みも苦しみもなかったはずだ。
切り口から血飛沫が吹き出す。キョトンとしていた妻だった女性は、すぐに絶叫をあげた。
娘を気遣うことなく逃げようとするけれど、腰が抜けたらしく這いずっている。
「残念だよ」
それだけ伝え、胸を突いた。『西村』と『青眼寺』を陥れた罪を償わせるべく、より苦しむように突く。私怨がこもっていないとは言えない。何度も、何度も突いた。散々苦しみのたうちまわり、ようやく絶命した。
ハンカチで刀をぬぐい、納刀した。正座で座り自分の前に刀を置き、平伏した。
「ご迷惑をおかけ致しました」
「申し訳ありませんでした」
顔を起こし姿勢を正す。誰もが覚悟を決めた顔をしていた。
歯を食いしばっているのがわかる片割れに微笑みを向けた。
「直樹」
「あとは頼む」
返事を待たず抜刀し、刃を首筋に当て、一気に引こうとしたそのとき。
刀が動かなくなった。
なんで、と目を動かす。後ろに誰かが立っていた。
気配がしなかった。現役から十五年離れていたことを除いても察知できない、いや、させないなんて。
後ろに立った人物は、そのままなんてことないように僕の手から刀を取った。それだけでも技量の差がわかる。
「めんどくせぇが」
「母さんの言い付けだ」
「あの世に行ったら俺の代わりに文句言っといてくれ」
どうにか首を回すと、仏頂面のおじさんが立っていた。怒りも憐れみもなにもない、本当にただ面倒くさそうなたたずまいに、なんだかフッと肩の力が抜けた。
「ご迷惑をおかけします」
「よろしくお願いします」
頭を下げ首を差し出せば「おう」と軽ーい返事があった。
痛みもなにもなく、ただ視界が動いた。
頭を抱かれた感覚のあと、目の前でおじさんが笑っていた。
「よくがんばったな」
「おつかれさん」
ぶっきらぼうな態度に、それでもこれまでの全部をねぎらってもらったと感じて、自然と笑顔になった。
《正樹くん》
誰かが呼んでいる。声に意識を向けると、いつの間にか天井がなくなっていた。
空いっぱいに五色の光が満ちている。そこに誰かがいるのがわかった。
《正樹くん》
《正樹》
懐かしい声。やさしい声。
《―――おばあちゃん。おじいちゃん》
ウフフ。ハハハ。昔と同じようにふたりが笑っていた。ああやっぱり。極楽浄土でもふたりは仲良しなんだな。
《よくがんばったわね正樹くん》
すぐ近くまで降りてきたおばあちゃんが手を伸ばしてくれる。
《信念を貫き通し、よくがんばった》《おまえは私達の誇りだ》
おじいちゃんも手を差し出してくれた。
ああ。報われた。
ふたりの言葉に、これまでの人生すべてが報われた。涙が勝手にあふれて落ちる。
《さあ。おいで》
うながされるままに両手を伸ばす。片手をおばあちゃん、片手をおじいちゃんがつかんでくれた。ふわりと身体が浮き上がる。
《あなたの貫き通した信念が、これまでの献身が、前世の業の禊になった》
《もうあなたは赦された》
《一緒に御仏の国へ行きましょう》
おじいちゃんとおばあちゃんをひとり占めするなんて初めてだ。死んでから夢が叶うなんて。うれしいな。
なんだか幼い頃に戻ったよう。《がんばったね》《えらかったね》たくさん褒めてもらって、ただただうれしくて多幸感に満ちている。
未練もかなしみもなにも無く、喜びに包まれて、祖父母に天へと引き上げられた―――
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
―――すうっ。
ふわふわしていた意識が浮き上がる。ああ。気持ち良かったのに。もう一度戻れないかな。
ふわふわしたまま夢の残滓を追おうともう一度沈み込もうとしたとき、ふわりと誰かが頭を撫でてくれている感触がした。
頭を撫でられるなんて子供の頃以来で、あれ僕いま何歳だったっけと考えてしまい、ふわふわしたものがどこかに行ってしまった。
大きな手が僕を撫でる。やさしく、やさしく。
気持ち良さにうっとりしていたら、その手が離れていった。
誰? もっと撫でて。
自分が何歳かわからないまま、幼い感覚のままにその手を求めた。その拍子に瞼が薄く開いた。
まぶしい。ここ、どこだ?
「―――正樹?」
懐かしい声。この声は。
どうにかがんばって瞼をさらに開く。まぶしい。まばたきを繰り返していたらガッと頭をつかまれた。
「正樹!」
あ。やっぱり。呉羽。
あれ? 呉羽はアメリカに行ったんじゃなかったか?
ぼんやりする頭でそんなことをぽわぽわと考えている間にも呉羽は僕の頭やら首やらをペタペタと触る。
「大丈夫か!?」「俺がわかるか!?」「痛いところはないか!?」
あまりの慌てっぷりにおかしくなった。
『大丈夫』と答えようとしたけれど喉が貼り付いて声にならない。「あ゛」とおかしな音が出ただけ。
それだけで呉羽は察してくれて「水! 水!」「いや、ナースコール!」と大騒ぎしてドタバタしていた。
『ナースコール』のワードにぼんやりと周囲を眺める。白い天井。広くない部屋。窓から光が差し込んでいる。視界に点滴が入る。どうにか目を動かすとなにかの機械が見えた。
「西村さーん。お加減いかがですかー?」
看護師とわかる女性が視界に入ってきて、笑顔で声をかけてくれた。その端で呉羽がオロオロしているのがおかしかった。
喋ろうとしたのを察してくれた看護師さんが色々してくれて、どうにか声が出るようになった。
「……ここ、は、……」
「病院ですよー」
テキパキとなにかをしながら看護師さんが答えてくれる。続けて医師とわかる男性が看護師さんを連れてやって来て、やっぱりテキパキとなにかをした。
「ご家族がおられるときに意識が戻ってよかったですねー」「事情はもう説明されましたか?」「じゃあご家族から」なんか呉羽と医師でやり取りをして、僕には「ひとまず大丈夫」「また来ますね」と言って出て行った。
さっき看護師さんが口に含めてくれた水を呉羽が吸い口に入れている。
「由樹には今連絡した」「じきに来るだろう」
「しかし意識が戻ってよかった」「本当に痛いところはないか?」
勝手に喋りながらベッドを少し起こし僕の首を少しだけ持ち上げ、吸い口の先を口に入れる。コクリと飲み込むとそれだけで元気になる気がした。
「ぼく……しんだんじゃ……」
おじさんに首を落とされて死んで、おじいちゃんとおばあちゃんがお迎えに来てくれた。
そうだ。おじいちゃんとおばあちゃんと楽しく散歩してたのに。なんでこんなところにいるんだ?
時間をかけて吸い口の水を全部飲んだ僕を枕に戻し、呉羽が説明してくれた。
僕は討伐に出て致命傷を負った。それでもどうにか討伐は果たしたけれど、精神系の妖魔だったらしく絶命する寸前に僕に幻術を放った。咄嗟のことに防御できずモロに術を受けた僕は、幻術に呑み込まれ意識が戻らない状態になった。母でも祖母でも幻術を突破できず、入院して生命をつないでいたと。
「そのときの傷が胸から腹にかけてと足にある」呉羽が言う。その傷は「完治しているはず」らしい。
どのくらい入院していたのかと聞けば「十五年」だと。びっくりする僕に「驚くよな」と呉羽は頭を撫でてくれた。
「この十五年の間にサトと玄治は死んだ」「ふたりともおまえのことを心配していたよ」「意識が戻ったと知ったらきっと喜ぶだろう」
「おまえが勤めてた会社は、申し訳ないが辞職手続きをした」「寺の後継者は蓮に決まったよ」
そんな近況を教えてくれながら「寒くないか?」「暑くないか?」と聞いてくれる呉羽。こうしていると本当に幼稚園の頃に戻ったようで、そんな扱いがうれしくてくすぐったくてつい笑みが浮かんだ。
「……くれは、は」
「アメリカに、行ったんじゃ……」
まだ滑らかに動かない喉と口でどうにか言葉をつむぎ出せば、呉羽は「ああ」と苦笑した。
「アメリカに行ったよ」「けど、おまえのことを聞いて、飛んで戻って来たんだ」
「入院してる間、ずっとそばにいたんだ」
「そばにいることしかできなかったけどな」
そうしてまた頭を撫でてくれる。
「……………ぼく……………」
討伐に出た? いつ?
結婚してこき使われてたのは? あれは、幻術? それとも現実?
理解が追いつかなくて、記憶がごちゃごちゃになって、瞼をぎゅっと閉じた。
すぐに呉羽が「無理するな」と眉間を撫でてくれる。
「とにかく今は休め」「すまん。俺が色々言い過ぎたな」「意識が戻ったんだ。これからゆっくり説明するよ」
そう言われたらそのとおりかもと思った。もう少し水を飲ませてもらって、呉羽に撫でてもらいながらまた眠りに落ちた。
「正樹ぃぃい!!」
飛んで来たらしい母の叫びに目が覚めた。戸惑っている間にあちこちペタペタ触られ起こされ抱き締められた。おんおん泣く母なんて初めてで、どれだけ心配させたのかと申し訳なくなった。
その後も次から次へとひとが来た。直樹もミホもサトルも抱き着いて泣いて喜んでくれた。静原のおじさん達や『西村の子供』のおじさんおばさん達、姉一家に寺のみんな。みんな僕のことを心配してくれて、目が覚めたことを喜んでくれた。
けれど「これじゃ正樹が休まらない!」って呉羽が怒って、次々やって来ては残っておしゃべりしていたみんなを追い出した。申し訳なかったけれどホッとした。
その日は何度も医師の診察があり、今後についての説明があった。食事のこと、リハビリのこと。呉羽が熱心に聞いてメモしてくれた。
目が覚めてからずっと呉羽が僕についてくれている。母は寺も茶道もあって忙しい。父も姉一家も弟一家もそれぞれに忙しい。だから僕を含めたみんなが呉羽に感謝していた。
呉羽はリハビリにも付き合ってくれた。何年も動かさなかった身体は言うことを聞かなくて、手を握ること、足を動かすことから始めた。
「毎日マッサージをしていたんだが」「効果がなかっただろうか」「足りなかったか」ブツブツ言いながら呉羽がリハビリを手伝ってくれ、マッサージをしてくれる。
そのおかげだろう。思っていたより早く退院できた。
日常生活を送るのは問題ないレベルにまで回復した。けれど縮地を始めとした技は使えなくなっていた。
そもそも霊力がごっそり無くなっていた。全盛期の三分の一以下になっている。『霊力なし』レベルではないけれど一般人レベルに落ちた。
これじゃあどうやっても退魔師は続けられない。がっかりしていたら「生命が助かっただけありがたい」と呉羽に背中を叩かれた。
「それに、まだ俺達がみえるじゃないか」
「それだけでもうれしいよ」
そう言われたらそのとおりだと思えた。
霊力は無くなったし戦えなくなったけれど、身についた僧侶のあれこれは失っていなかった。
退院して実家に戻り、翌朝のお勤めから父について寺の雑用をした。他にやることがなかったからやるだけの、言ってみれば暇つぶし兼リハビリだったんだけど、不思議なくらいしっくりきた。
「だから俺がずっと言ってたじゃないか」「正樹は僧侶になるべきだって」
けど寺の後継者は蓮くんなのに。僕がこうして雑務をすることは迷惑じゃないだろうか。
そう心配していたら、当の蓮くんから「おじさん、このまま寺に残って!」と懇願された。
蓮くんはまだ大学二年生。なのにトモくんから祖父母の家を譲られた両親が引退する気満々になってしまい、あれもこれもと蓮くんに教えようとしている。
「そりゃいつかは覚えなきゃいけないってわかってるけど」「けどボク今忙しいんだよ!」
大学の勉強も課題もバイトもしながら母から術師としての教えを受け、現場にも出ている。彼女とデートもしたいし趣味のゲームもしたい。
「そのうえお寺のことまで今すぐ引き継げとか、無理!」
「『せめて卒業まで待って!』って言ってるけど、全然聞いてくれないの!」
「だからおじさん! 中継ぎで寺に残って!!」
「いつかはボクが継ぐから! 約束するから!」
あまりの嘆きように可哀想になり、寺に残ることを決めた。両親には「蓮くんにあんまりプレッシャーかけちゃ駄目だよ」「押し付けすぎると逃げられるよ」と苦言を呈しておいた。蓮くんに感謝された。
直樹も霊力が半分以下になっていた。なんでそうなったのかは言わず、ただ「俺ももう退魔師は引退だ」と笑いながら言っていた。
じゃあ退魔の依頼はどうするのかと思っていたら、なんと蓮くんの彼女が現役退魔師だという。おじいちゃんの実弟の曾孫だと。
「凛ちゃんが前衛に出て、蓮が術で支援すれば十分戦える」父がそう太鼓判を押す。
「退魔師の仕事も引退したいんだ」そう明かす父に蓮くんが悲鳴をあげていた。気の毒に。ウチの父が申し訳ない。蓮くんの祖父でもあるから気にしなくていいかもだけど、やっぱり申し訳ない。
そうしてなんだかんだと騒々しくしているうちに段々と生活リズムができてきた。お互いの距離感も程良いもので安定し、いつの間にか僕は寺の雑務を全部引き受けていた。
もちろんまだ父が現役でがんばっているし「後継者は蓮くん」と広く周知している。僕はこれまてどおりの「お手伝い」。違うのは兼業か専業かだけ。
けれど専業で長時間寺に関わっていると、それまで見えなかったあれこれが目につくようになった。時間があるもんだからつい手を出してしまい、結果雑務全部が僕の仕事になってしまった。
忙しくなったけれど、今の僕にはそれがありがたい。余計なことを考えることなく、無我夢中に日々を過ごせるから。
呉羽をはじめとした寺のみんながなんだがんだと手伝ってくれる。そのおかげもあって、僕でもどうにか寺を動かすことはできていた。
◇ ◇ ◇
夏が終わり秋になり冬が来て年末年始も節分も終わったある日。ほんのり漂う春の気配に、なんとなく散歩に出かけた。
これまで気にしないようにしていたけれどずっと引っかかっていた『もうひとつの過去』。両親も呉羽も「精神系妖魔にかけられた幻術」「実体験と思わされてただけで現実じゃない」と言っていたけれど、僕にはどうしても幻術とは思えなかった。
記憶にある場所へと行ってみると、記憶と違う家が建っていた。記憶にある隣人にたずねたけれど、そこはかつての僕の家族の痕跡はなかった。
「前住んでいたご夫婦は事故で一緒に亡くなった」「娘さんは家を売却して」「今はどこにいるのかわからない」
そう話す隣人は僕のことを知らないようだった。『前住んでいた家族』も僕の知っている名字ではなかった。
散歩しながら記憶の中の知人に何人もすれ違った。けれど誰一人僕のことを気にかけなかった。ただの通りすがりに対する会釈。通りすがりに対する対話。僕の痕跡はこの地域に残っていなかった。
寺に戻って「どこに行ってたんだ」と詰め寄る呉羽に説明。すっかり過保護になってしまった呉羽は僕の話を笑い飛ばした。
「だから言っただろ?」「『幻術だ』って。『現実じゃない』って」
そのまま他のみんなに、両親に言いふらす呉羽。みんなも両親も笑う。「幻術だよ」「気にしすぎ」「忘れちまいな」
あんまりにも笑わられて、僕もつられて笑った。笑ったら笑っただけ軽くなる気がした。
◇ ◇ ◇
蓮くんと凛ちゃんに大学卒業してすぐに寺を継いでもらうこと、結婚してもらって寺に入ってもらうことは決定事項だった。おばあちゃんが亡くなる前に決めていたと。そのタイミングで隠居して元祖父母の家に引っ込もうと両親は準備をしていた。僕も「一緒に暮らそう」と言ってもらって、元祖父母の家に同居するつもりでいたらあちこちから引き留められた。
寺のみんなはまだわかるんだけど、なんで新婚になる蓮くんと凛ちゃんが引き留めるの?
「無理無理無理! いきなりこれだけの寺と家の管理とか、無理!」
「おじさん、一緒に住んで! 助けて!」
そう言われても新婚さんと同居する度胸は僕にはないよ。毎日通うことでどうにか納得してもらった。
どういうわけか、直樹夫婦もサトル達も姉一家も僕を誘ってくれた。「引く手あまただな」「人気者だな」呉羽がからかってくる。そんなんじゃないと思うけど、求められるのは単純にうれしい。
なんだかんだとすったもんだがあって、最終的に元祖父母の家に引っ越して引き続き両親と同居した。
両親を慕うみんなも一緒に引っ越し。もちろん過保護継続中の呉羽は僕についてきてくれた。
「結局寺にいたときと変わらない」誰かの言葉にみんなで笑った。
毎日寺に通い、雑務をしながら蓮くん凛ちゃんの補佐をしているうちにふたりに子供が授かった。僕も子育てに奮闘した。どういうわけか蓮くんの妹の椿ちゃんとこも姉の子供達のとこも寺に集まるようになり、託児所だか保育園だかみたいになった。
ご縁があって行き場のない子供を再び預かることになり、両親が育てることになった。そのはずなのにどういうわけかこちらも僕に懐いてくれて、気が付いたら僕は子供達に囲まれて過ごしていた。
もちろん呉羽をはじめとしたみんなが手伝ってくれた。年長の子供が成長したら下の子の面倒を見てくれた。
どの子も素直で僕の話をちゃんと聞いてくれた。叱ればちゃんと反省したし、おかしな言い訳をしたり逃げたりすることはなかった。褒めれば全力で喜んでくれた。そんなひとつひとつに「あの子とは違うなあ」と思う。と同時に「『あの子』って誰だっけ?」と引っかかりを覚える。そんな引っかかりも子供達のお世話でてんてこ舞いになっているうちにまた消えてしまった。
大きい子もちいさい子も満面の笑顔で慕ってくれる。修行の真似事みたいな遊びも喜んでついてきてくれる。かわいくて、ただかわいくて、こんないい子達に囲まれてる僕はしあわせ者だと感謝が絶えない。
「こんなにしあわせで、いいのかな」
「いいに決まってるだろ」
ふとこぼれたつぶやきに、呉羽がすぐにツッコんでくる。
「サトがいつも言ってただろ」「『あげた分だけ返ってくる』『もらった分だけお返しする』」「おまえが『しあわせ』なら、おまえの周りも『しあわせ』ってことだ」
「しっかりたっぷり『しあわせ』になりな」ニッと笑う呉羽。
「たしかに」「そうだね」
つられて笑顔が浮かぶ。見上げた空の向こう、おばあちゃんとおじいちゃんが笑っているような気がした。
◇ ◇ ◇
自分が見えている世界を周囲も同じように見ていると、どうして思えるのだろう
自分が見えていないものは他のひとも見えていないと、どうして思えるのだろう
他のひとが見えているものが自分の見えているものと同じだと、どうして思えるのだろう
幼い頃には理解できなかったいろんなことが、今の僕にはほんの少しだけ理解できるようになった。
それは積み重ねてきた学びと経験の成果。なんて偉そうなことを言ってもまだ完全に理解しているとは言えない。
世界はひとによって違う。見えているものもひとによって違う。
幻術だと説明されたあの十五年も、僕にとっては現実だった。その十五年の経験もきっと今の僕の糧になっている。
僕にできることは、信じることだけ。
相手の見えているものを、訴えることを、信じることだけ。
たとえ僕にはみえなくても。客観的に嘘だと思われることでも。
僕は、僕だけは信じる。
信じることがきっと誰かの助けになると思うから。
信じた先で僕も救われると知っているから。
今日も僕は他のひとがみえていない世界で、たくさんの笑顔をもらっている。
見えていても見えていなくても、僕は信じるだけ。
目の前のひとを。
自分自身を。
この手を引いてくれる、たくさんのご縁とお導きを。




