24. カレーライス
「そんな、突然いらしたので、特に何にも用意してなくて、本当に申し訳ございません」
8年の歳月を経て、年頃の娘へと成長した碧は晴明好みの細身で髪の長い色白の女性となっていた。
騰蛇はニコリと微笑み「いえ、気にしないでください。勝手にきたのはこちらですから」そう返答する。
晴明ならば必ず絡んでくるような美人なのだが、騰蛇は、碧の容姿よりも碧の家を訪れた時、漂う香りが気になった。
(これはまさか……)
「特訓ですか」
碧がカレーライスを口に運びながらそう言った。
碧の家に入ったのは実に8年ぶりだった。調度品のほとんどは代わっておらず、電化製品とソファが変わったくらいだった。
テーブルの上にはカレーライスが3つ置かれており、それぞれ、碧、ハル、ハクが食べていた。
騰蛇はごくっと生唾を飲み込む。
「あー、透様はまだ帰ってこないのですか?」
「え? パパ? あ、はい。今日は泊まりです。それで、突然きた理由が特訓とは?」
(何故だろう。会話が噛み合っていない)
碧は会話を力技で元に戻すが、違和感を感じて眉を寄せて、カレーライスを掬うと、そのまま口に運ぶ。
暫くぶりに現代へと姿を現したら、面前の美女よりも尚、カレーライスは魅惑的で官能的な香りを漂わせていた。
間が悪かったのだろう。カレーライスは人数分しかないらしく、騰蛇の元に運ばれることはなかい。切なさと恋しさで、目が釘付けとなる。
なんなら好物を食べられないと言う拷問を受けている気分にすらなる。
騰蛇はただじっと、口に運ばれていくカレーライスを見つめるだけで、碧の言葉を聞いていない。
騰蛇から返信がないので、碧は「ねぇ、聞いてます?」と聞き返す。
騰蛇はカレーライスの誘惑を消し去るように首を左右に振る。
「すみません。あまりにも魅力的で」
「は?」
騰蛇の言葉にハルは眉を寄せて睨みつけ、ハクは真っ青な顔をした。
碧は言いにくいのか、俯いたまま何にも言わない。
空気が凍りついたことにきがついたのか、騰蛇が顔の前で手を振って否定をする。
「違います! 僕はその、カレーライスのことを言ったまでで……」
碧は自身の食べかけのカレーライスを見ると、8年前に燈のつくったカレーライスをおかわりするほど気にいっていた騰蛇のことを思い出した。
「あ、そう言えば、好物でしたね」
暫く、誰も何も話さない時が流れたが、碧が、ニコリと微笑んだ。
碧は「明日にでも新しいのを用意しますね」と言った。
(すみません………)
騰蛇はそんなことを思った。
♢♦︎♢
青空が広がり、風がそよぐ中、晴明は緑豊かな野原の上に立っていた。
流れゆく白い雲を見ながら、溜め息を吐いた。
(まったく、私も甘くなったものだ)
晴明は自身の背後から、葉を踏みつけるような音がして振り返る。
そこには藤原道真がいた。
道真は碧色の玉を腰につけ手で弄びながらニコリと微笑むと、自然と晴明の隣に立った。
「なんの御用で?」
「晴明くん、キナリを倒すことにしたんでしょ?」
晴明の問いに道真が問い返し、晴明は眉を寄せて、こともなげに笑った。
「はい。下の子たちが頑張るようなので、それならば、私が手を貸さないわけにはいきませんからね」
「そっか。僕は手を貸した方がいいのかな?」
道真の眼光は鋭く晴明を捉えていた。
晴明は芝生に膝をつき、両手を組むと頭の上まで上げる。
「ありがとうございます」
道真はうっとりとするように、満足気に晴明の姿を見たあと、碧の玉がついている紐をクルクルと回す。
「僕はただ、碧色が大好きなんだ。だから、あの子がこれ以上不憫なことになるのを避けたい、それだけだよ」
晴明は何度か目を閉じたり、開いたりしたあと、声を出して、愉快そうに笑う。
「なんですか、その理由」
「いいだろう。長く生きていると、そう言うものだよ。お気に入りを作るのは大切だよ。きみだってそうだろう?」
道真の含みをこめた言葉に晴明は瞼を閉じる。確かにそうだ。
暗闇の中から日を出す朝焼けの太陽のような名前を持ち、艶やかな黒髪に飄々とした態度で、焦った姿を晴明に一度も見せない彼女のことを思い返す。
燈は兄を殺された。そして、娘の命と引き換えに自分の
愛していた。誰よりも。
その気持ちが一方通行で、叶わないものだった。それでも、心から愛していた。
「それもそうですね」
燈はもういないけれど、せめて彼女が慈しみ、命と引き換えに助けたあの子だけでも守りたい、そう思っている。
「君って、素直じゃないよね」
道真は楽しそうにクスクス笑った。
晴明はジトリと道真を見る。
「そんなもの随分と昔にこの手からこぼれ落ちました。今はただ健やかな未来を願うだけですよ」
空は青く、そこに一筋の雲が線を描くように続いていた。




