9.
美術館を訪れてから二週間ほど経った夜、フィオナは王都にある子爵家の夜会を訪れていた。春を迎えた王都では夜の冷え込みも和らぎ、会場となった屋敷の大広間には庭へ続く窓から心地よい風が入り込んでいる。壁際には白や淡い桃色の花が飾られ、中央では楽団の演奏に合わせて何組もの男女が踊っていた。
今夜はミアもエドワードも参加していなかったが、フィオナには以前から付き合いのある知人が何人もいた。会場へ入ってからは顔を合わせた令嬢たちと挨拶を交わし、近頃王都に開店した店やこれから予定されている催しについて話していたのだが、しばらくすると周囲の様子が普段とは違うことに気づいた。
離れた場所からこちらを見ている者が妙に多い。目が合えばすぐに逸らされることもあれば、何人かで話していた令嬢たちがフィオナの姿を見つけた途端に会話をやめることもあった。知り合いに挨拶をすれば普段と変わらず応じてくれるものの、その後に何かを尋ねたそうな顔をされる。
最初は気に留めなかったフィオナも、同じことが何度も続けば無視できなかった。自分の服装に何かおかしなところでもあるのかと確認したくなるほどで、飲み物を取りに隣室へ移ったところで、ようやく理由を知ることになった。
「アルヴェインさん。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
声をかけてきたのは、以前にも何度か茶会で顔を合わせたことのある伯爵令嬢だった。壁際のテーブルから果実水を受け取ったフィオナが振り返ると、彼女は周囲を気にするように一度視線を動かしている。
「最近、親しくされている男性がいらっしゃるというのは本当ですか?」
予想していなかった質問に、フィオナはすぐには答えられなかった。男性の友人ならばエドワードがいるものの、それをわざわざ確認される理由が分からない。フィオナが尋ね返すと、伯爵令嬢は少し迷いながらも、自分が聞いた話を教えてくれた。
フィオナが婚約を解消して間もないうちから、ある男性と何度も一緒にいるところを目撃されている。夜会では二人で踊り、王都の街中でも楽しそうに話していた。最近では美術館にも一緒に出かけていたらしいという話まで広まっているという。
それだけなら、すべて間違いというわけではなかった。夜会でエドワードと踊ったことも、街中で会ったことも、美術館で一緒に過ごしたこともある。けれど街中でも美術館でもミアが一緒だったことは、なぜか噂から綺麗に抜け落ちていた。
「それで、その方と親しくなられたことが婚約の解消にも関係していたのではないかと……そういう話になっているのです」
フィオナは思わず眉を寄せた。そこまで聞けば、先ほどから自分へ向けられていた視線の理由も分かる。婚約を解消した令嬢が、すぐに別の男性と親しくしている。それだけでも社交界では話題になりやすいのだろうが、いつの間にか時間の順序まで変えられているらしい。
「そのお話は、かなり広まっているのでしょうか?」
「私の周囲では、すでに何人かが知っています。今夜ここにいらっしゃる方にも、聞いたことがある方は多いと思います」
伯爵令嬢は気まずそうに答えた。フィオナは彼女を責めるつもりなどなく、教えてくれたことに礼を告げて大広間へ戻った。
事情を知ってから周囲を見ると、噂が思っていた以上に広がっていることが分かった。別の知人と話していても、話題が男女の交際や婚約へ移ると相手がフィオナの反応を窺う。中には何も聞かず普段どおり接してくれる者もいたが、フィオナが近くを通った途端に話をやめる者もいた。
エドワードとの関係を隠しているつもりはない。彼は友人であり、ミアも交えて三人で出かけることもある。次に会う約束もしている。それを誰かに知られたところで困ることなどなかったが、婚約を解消した理由にまで結びつけられるのは話が違う。
誰がそんな話を始めたのか気になり、以前から付き合いのある令嬢へ尋ねてみることにした。庭へ面した窓際で二人になったところで噂について切り出すと、相手はすでに知っていたらしく、困ったように眉を下げた。
「私も最初は誰かが勝手に作ったお話だと思っていたのです。けれど、クロフォードさんが似たようなことを仰っていたと聞きまして」
「セドリックさんが?」
聞けば、セドリックは最近、知人の男性たちと酒を飲んでいた席でフィオナとの婚約について話していたらしい。二人には十年近い付き合いがあり、これまでもフィオナが怒ることは何度もあった。今回も時間が経てば以前のような関係へ戻るはずだったのに、最近になってフィオナが別の男性と親しくなったため、話がこじれているのだと。
その話を聞いた誰かが、フィオナにはすでに別の相手がいるのではないかと考えた。さらに別の者へ伝わるうちに、婚約を解消する前から親しくしていたのではないかという話に変わったのだろう。
フィオナは窓の外へ視線を向けた。庭園には等間隔に灯りが置かれ、その間を着飾った客たちが歩いている。夜風がカーテンを揺らし、室内に漂っていた花の香りを僅かに散らしていった。
セドリックが最初からフィオナの評判を落とそうと考えたのかは分からない。けれど、自分たちの関係が元に戻らない理由を別の男性に求めていることは確かだった。
婚約を解消すると決めたとき、フィオナはエドワードと知り合ってすらいなかった。何度嫌だと伝えても同じことを繰り返され、約束していた最初のダンスまで他の女性へ申し込まれた。その積み重ねの末に、セドリックとは結婚したくないと自分で決めたのである。
別の男性が現れたから離れたわけではない。エドワードと出会わなければ、セドリックのもとへ戻っていたわけでもない。
しばらくして、知人の令嬢たちがフィオナの近くへ集まってきた。最初は今夜の音楽や料理について話していたものの、そのうちの一人が何度も何かを言いかけてはやめている。フィオナが気づいて彼女を見ると、ようやく決心したらしい。
「アルヴェインさん。失礼なことでしたら申し訳ありません。最近噂になっている男性とは、どのようなご関係なのですか?」
周囲にいた者たちの視線がフィオナへ集まった。同じことが気になっていたのだろう。少し離れたところにいた令嬢まで会話をやめ、こちらを見ている。
「良き友人ですわ」
フィオナは迷わず答えた。
「私だけではなく、ミアさんとも親しくされています。三人で出かけることもありますし、次に会う約束もしています。ですが、それ以上の関係ではありません」
「では、クロフォードさんとの婚約を解消されたことには……」
「関係ありませんわ。私がエドワードさんと知り合ったのは、婚約を解消した後ですもの」
尋ねてきた令嬢は少し驚いた様子だった。どうやら噂では、そのあたりの順序まで曖昧になっていたらしい。
フィオナは周囲へ目を向けた。ここまで広まっているのであれば、今この場で聞いている者にはっきり伝えておいた方がいい。誰か一人にだけ答えたつもりはなかった。
「改めて言いますが、セドリックさんとの婚約を解消したのは、私自身が彼との結婚を望まなくなったからです。誰かに勧められたわけでも、他に結婚したい方ができたわけでもありません」
近くにいた令嬢たちは黙って聞いていた。中には初めて事情を知ったらしく、隣にいる友人と顔を見合わせている者もいる。
「エドワードさんは、私にとって良き友人です。それ以上でも、それ以下でもありませんわ」
フィオナはもう一度、はっきりと告げたのだった。




