10.
セドリック視点です。
フィオナが夜会で噂を否定したという話がセドリックの耳に入ったのは、その数日後だった。婚約を解消してから親しくしている男がいる。その男とは婚約中から関係があり、それが婚約解消の理由になったのではないか。いつの間にか社交界では、そんな話が広まっていたらしい。
セドリックにも思い当たるところはあった。知人たちと酒を飲んでいた際、最近のフィオナについて話したことがある。長い付き合いなのだからいずれ元へ戻ると思っていたのに、別の男と親しくなってから余計に話が拗れている。そう愚痴をこぼした覚えはあった。
フィオナは噂を尋ねられ、エドワードとは良き友人だとはっきり答えたという。ミアも含めて三人で出かける仲ではあるものの、それ以上の関係ではない。婚約を解消した理由についても、他に結婚したい男ができたからではないと否定したらしい。
その話を聞いた瞬間、セドリックは胸の奥が軽くなるのを感じた。王都の通りでフィオナと楽しそうに話していたエドワードの姿は、あの日からずっと頭に残っていた。二人が並んでいるところを思い出すたび、知らないうちに自分が別の男へ取って代わられたようで腹立たしかった。
ところが、安堵は長く続かなかった。エドワードを好きになったから婚約を解消したのではない。それなら、なぜフィオナは今も自分のところへ戻ってこないのかという疑問が、以前よりはっきりと残ったからだ。
婚約を解消すると言われた当初、セドリックは時間が経てば元へ戻れると思っていた。今までにも何度もフィオナを怒らせ、それでも関係が終わったことなどなかった。今回も怒りが収まれば話ができ、話をすれば以前の二人へ戻れる。その考えは今も完全には消えていない。
それなのにフィオナは戻らず、ミアと出かけ、エドワードとも会い、自分の知らないところで新しい付き合いを増やしている。十年近く隣にいた自分がいなくなっても、彼女の生活は何も止まっていないらしい。
自分なら違う、とセドリックは思った。十年も一緒にいた相手を、これほど簡単に自分の生活から切り離すことなどできない。実際、今もフィオナのことを考えているのだから、彼女にも同じだけの年月が残っているはずだった。
数日後、王都の伯爵家で開かれた夜会で、セドリックはエドワードを見つけた。大広間では楽団の演奏に合わせて数組の男女が踊り、壁際では飲み物を手にした客たちが談笑している。フィオナもミアも来ておらず、エドワードは同年代の青年たちと話していた。
しばらくして一人になったエドワードが回廊へ出たところで、セドリックはあとを追った。庭園に面した窓から春の夜風が入り込み、遠くから大広間の音楽が聞こえている。
「少し話せますか」
「構いませんよ」
エドワードが振り返ったところで、セドリックは以前から考えていたことを口にした。
「フィオナとは、しばらく会わないでもらえませんか」
「どうしてです?」
「あなたと親しくなってから、あいつは以前と変わった。恋人ではないそうですが、あなたが近くにいることが関係していると思っています」
エドワードはすぐには答えず、セドリックを見ていた。その表情には怒りよりも困惑が浮かんでおり、やがて確認するように口を開く。
「フィオナさんが私との関係を否定したと聞いて、安心されたのでしょう?」
「それが何ですか」
「恋人だから戻ってこないと思っていたのに、恋人ではないと分かったら、今度は友人としての私が原因になったと。それは少し不思議だと思いまして」
セドリックは眉を寄せた。恋人でなくとも、頻繁に会っていれば考え方に影響を与えることはある。エドワードと知り合ってからフィオナが以前より強く自分を拒むようになったことも、無関係とは思えなかった。
「あなたが何を話しているのか、俺には分からない。少なくとも、あなたがいなくなれば今よりフィオナと話しやすくなる」
「それで、フィオナさんがもう一度あなたと婚約したいと言うのですか?」
セドリックは答えに詰まった。エドワードがいなくなれば状況は変わると思っていたが、その先を具体的に考えたことはなかった。
「俺なら、十年も一緒にいた相手をこんな簡単に切り捨てたりしない。フィオナだって同じはずなんです。今は周りに人が増えて、意地になっているだけで――」
「もうちょっと考えたらどうです?フィオナさんは貴方と同性ではないのですよ?異性は異性なりの接し方があるでしょう?」
思いがけない言葉に、セドリックは眉間に皺を寄せた。エドワードは呆れたような顔をしていたが、冗談を言っている様子はない。
「貴方なら十年を捨てられない。だからフィオナさんも同じはずだ。貴方なら時間が経てば元に戻りたいと思う。だからフィオナさんもいずれ戻りたくなる。先ほどから、ご自分の考えばかりをフィオナさんにも当てはめていませんか?」
「十年一緒にいたんです。何も知らないわけじゃない」
「それは否定していません。貴方の方が私よりフィオナさんについて知っていることは多いでしょう。ですが、知っていることが多いからといって、考えていることまで同じになるわけではありませんよ」
セドリックは言い返そうとして、口を閉じた。フィオナが自分とは違う人間であることくらい分かっている。それでも、自分なら十年を捨てられないのだから、フィオナにも同じ重さがあるはずだと考えていた。
「だったら、あなたは何が原因だと思っているんです?フィオナと親しいなら、何か聞いているでしょう」
「私から原因を聞けば、今度はそれをどうにかすれば元に戻れると考えるのではありませんか?」
エドワードの返答に、セドリックは言葉を失った。原因が分かれば取り除けばいい。それの何がおかしいのかと思ったものの、エドワードは続けた。
「最初は私が恋人だからだと思った。違うと分かったら、今度は私が何か影響を与えたからだと思った。もし私がいなくなっても状況が変わらなければ、次は誰を原因にするのです?」
「誰かのせいにしているわけじゃない」
「では、ご自分に原因がある可能性は考えました?」
セドリックは答えられなかった。フィオナを怒らせたことも、自分が悪かったことも認めている。だから謝った。それでも戻ってこないのだから、他にも理由があるのだと思っていた。
「俺だって悪かったとは思っています。だから謝った。それでもフィオナは戻らなかった」
「謝ったから戻る。戻らないなら他に原因がある。貴方の中では、最初からフィオナさんが戻ってくることだけは決まっているのですね」
その言葉に、セドリックは何も返せなかった。エドワードがいるから、誰かに何かを言われたから、まだ怒っているから。考えてきた理由はどれも、解決すればフィオナが戻ってくるものばかりだった。
「私をフィオナさんの恋人だと思っていた頃の方が、貴方にとって都合が良かったのではありませんか? 」
胸の奥に強い苛立ちが込み上げたものの、セドリックは反論できなかった。エドワードがいなくなったあと、フィオナが自分のところへ戻ってくる保証などどこにもないことには、すでに気づいていた。
エドワードはそれ以上追及せず、大広間へ戻っていった。セドリックは一人で回廊に残り、窓から入り込む夜風を受けながら、遠ざかっていく背中を見送った。
エドワードが恋人なら、そのせいにできた。友人として余計な影響を与えているのなら、遠ざければいい。それでもフィオナが戻らなかったら、次は何を理由にすればいいのか。
誰を遠ざけても、何を取り除いても、それでもフィオナが自分を選ばなかったとしたら。そこまで考えたところで、セドリックは思考を止めた。
そんなはずはない。十年も一緒にいたのだから、いつかは戻るはずだ。
そう考えなければ、今まで信じてきたものがすべて崩れてしまいそうだった。




