7.
セドリックは三人の前まで来ると、フィオナへ声をかけるより先にエドワードを見た。顔を確認したあとには服装や立ち位置まで確かめるように視線を動かしている。春を迎えつつある王都の通りには買い物客が行き交い、店先から客を呼び込む声や馬車の車輪が石畳を鳴らす音が重なっていた。
「久しぶりだな、フィオナ」
「ええ。お久しぶりです」
フィオナが返事をしても、セドリックの視線はすぐにエドワードへ戻った。昔からフィオナが他の男性と話していると機嫌を悪くすることはあったが、婚約を解消した今まで同じ態度を取られるとは思っていなかった。以前なら余計な喧嘩を避けるために相手との距離を取ることもあったものの、今のフィオナにそんな配慮をする理由はなかった。
「それで、こちらは?」
「エドワードと申します。先日の夜会でフィオナさんと知り合いました」
エドワードは向けられている視線を気にした様子もなく名乗った。セドリックは短く挨拶を返したあと、ミアにも目を向ける。自分がフィオナを嫉妬させるために利用した女性と、そのフィオナが並んで買い物をしていることも気になるらしく、二人の持つ店の包みまで眺めていた。
「ミア嬢とは、いつからそんなに仲が良くなったんだ?」
「最近です。今日は街で偶然お会いしたので、ご一緒していました」
答えてから、フィオナはわずかな違和感を覚えた。誰と親しくしているのかをセドリックへ説明する必要などない。それなのに尋ねられれば自然に答えてしまうのは、長く婚約者として過ごしてきた名残なのだろう。次からは答える必要もないと考えている間に、セドリックは再びエドワードへ向き直った。
「先日の夜会というと、フィオナと踊ったのはあなたですか?」
「ええ。一曲、お相手いただきました」
「婚約を解消してから、まだ二か月ほどだろ。それなのに、もう次の相手を探しているのか?」
フィオナは眉を寄せた。エドワードとは夜会で一曲踊り、今日は街で偶然会ったにすぎない。それを次の相手を探していると決めつけられることも不愉快だったが、婚約を解消したあとまで自分の交友関係についてセドリックから咎められることの方が腹立たしかった。
「どうしてそういう話になるのですか。今日は偶然お会いしただけです」
「だったら、あんなに楽しそうに話していたのは何なんだよ」
「知人と楽しくお話しすることの、何がおかしいのです?」
口にしたところで、フィオナは説明を続けるのをやめた。今日の出会いが偶然ではなかったとしても、セドリックには関係がない。誰と会い、誰と踊り、誰と親しくするのかを決めるたびに、元婚約者へ理由を説明するつもりなどなかった。
「心配しているだけだ。お前は昔から、知らない男とすぐに親しくなるような性格じゃなかっただろ。俺は十年近くお前を知っているんだから」
「その十年間で、私が嫌がることを理解してくださらなかった方に心配されても困ります」
セドリックの表情が強張った。以前のフィオナなら、十年という年月を持ち出されれば幼い頃からの思い出まで浮かび、強く言い返すことをためらっていたかもしれない。今は、十年もあったのだと思える。その間に嫌だと伝える機会は何度もあり、セドリックにも態度を改める時間は十分にあった。
「それは俺とフィオナの間の話です。少なくとも、知り合って間もない人よりは俺の方がフィオナを分かっています」
「そうなのですか。でしたら、今フィオナさんが迷惑していることにもお気づきになった方がよろしいのでは?」
「あなたには関係のない話でしょう」
「ええ。お二人の過去については、私には関係ありません。婚約を解消されたあとのフィオナさんが誰と話し、誰と踊るのかについても、クロフォードさんが口を出すことではないと思います」
フィオナは隣に立つエドワードへ目を向けた。彼は二人の間に何があったのかを詳しく知らず、それを隠そうともしていない。自分の方がセドリックよりフィオナを理解していると張り合うのではなく、目の前で本人が嫌がっていることだけを見ている。その態度はフィオナにとって思いのほか新鮮だった。
「十年も一緒にいたんだ。あなたには分からないことがいくらでもある」
「それは当然でしょう。私はフィオナさんと知り合って間もないのですから」
「だったら分かったようなことを言わないでもらいたい。フィオナは昔から意地っ張りなんです。怒れば頑固になるし、俺たちも何度も喧嘩をしてきた。それでも最後には元に戻ってきた」
フィオナの胸に苛立ちが込み上げた。嫌だと言えば照れていると思われ、怒れば自分を好きだから反応していると思われ、婚約を解消しても一時的に腹を立てているだけだと思われる。何を言ってもセドリックの都合のいい意味へ変えられることに、以前はどう伝えれば理解してもらえるのかと悩んでいた。
「私は怒ってあなたを困らせるために婚約を解消したのではありません。あなたと結婚したくないから婚約を解消したのです」
「今はそう思っているんだろ」
「今は、ではありません」
また同じだと感じたところで、フィオナはそれ以上説明するのをやめた。婚約は終わっている。セドリックが納得するまで言葉を尽くす必要も、自分の気持ちを正しく理解できるまで付き合う必要もないのだと思えば、繰り返し同じ話をすることさえ馬鹿らしくなってきた。
「失礼ですが、一つよろしいですか。フィオナさんから、嫌だと言われたことは何度もあったのでしょう?」
「俺たちの間では、あれくらい普通だったんです」
「フィオナさんは、そう思っていなかったようですが」
その一言に、フィオナは僅かに目を見開いた。自分たちは昔からこうだったと、セドリックは何度も言っていた。フィオナも長い間その言葉に納得しようとしていたが、嫌だと思っている本人がいる以上、それを二人にとっての普通として押し通す方がおかしいのだ。
「嫌がっている女性へ何度も同じことをして、やめてほしいと言われても続ける。婚約を解消されたあとには、その女性が別の男性と話していることまで責める。失礼を承知で申し上げますが、男として少し……どうかと思います」
「……何だと?」
「私はお二人の関係を詳しく知りません。ただ、嫌だと言われればやめる。それほど難しいことでしょうか?」
セドリックの眉間に深い皺が刻まれた。エドワードは相手を嘲るような態度を見せず、本当に理解できないという顔で問いかけている。その横でフィオナの胸にも、嫌だと言われればやめるという言葉が残った。自分は長い間、どう伝えればセドリックを傷つけずに理解してもらえるのかと悩んできたが、本来なら嫌だと伝えた時点で終わる話だったのだ。
「俺とフィオナはそんな薄い関係じゃない」
「長い付き合いなら、嫌だという言葉を無視してもいいのですか?」
セドリックは答えなかった。それでも立ち去る気配はなく、再びフィオナへ何かを言おうと身体の向きを変える。エドワードはその動きを見て半歩前へ出たが、フィオナを背後へ隠すほど前には出ず、彼女自身がセドリックと向き合える位置で足を止めた。
「クロフォードさん。フィオナさんは、これ以上お話しするつもりはないと仰っています」
「あなたには関係ないでしょう」
「ええ。ですから、私が代わりに答えるつもりもありません。フィオナさんがすでにご自分で答えていらっしゃいます」
エドワードは通りの先へ軽く目を向けた。近くを歩いていた人々が何事かとこちらを振り返り、向かいの店から出てきた客も足を緩めている。人通りの多い場所で元婚約者を追い回している姿を見られて困るのは、セドリック自身でもあるだろう。
「これ以上ここにいらしても、フィオナさんを困らせるだけでしょう。今日はお帰りになった方がよろしいのでは?」
「あなたに言われる筋合いはありません」
「でしたら、フィオナさんの言葉を聞いてください」
セドリックはフィオナへ目を向けた。何かを期待しているようにも見えたが、フィオナは目を逸らさなかった。引き留めるつもりも、二人で話すつもりもない。
「今日はもう、お帰りください」
フィオナが告げると、セドリックはしばらく動かなかった。やがて周囲から向けられている視線にも気づいたのか、不満を隠さないまま小さく息を吐く。
「……分かったよ。今日は帰る」
セドリックは踵を返し、人の流れへ入っていった。フィオナはその背中が遠ざかるのを見ながら、ようやく肩から力を抜く。昔なら彼が不機嫌なまま帰れば、あとになって自分の言い方が悪かったのではないかと考えていただろう。今はそんな気持ちは浮かばず、離れていく背中を静かに見送ることができた。
セドリックが少し離れたところで、エドワードがさりげなく立つ位置を変えた。自分の身体がフィオナとセドリックの間に入る角度を選び、遠ざかる背中を一度確認する。まだセドリックからフィオナの姿が見えそうな距離だったが、エドワードの表情までは見えない。
次の瞬間、エドワードはフィオナにだけ見えるよう片目を閉じた。
フィオナは目を丸くした。つい先ほどまで真面目な顔でセドリックと言い合っていた人物が、何事もなかったようにウィンクをしている。あまりにも予想外で、驚いているうちに口元が緩み、とうとう小さく笑ってしまった。
「意外と、そういうことをなさるのですね」
「今のは内緒ですよ」
エドワードは何事もなかったように姿勢を戻した。隣では一部始終を見ていたミアも楽しそうに笑っており、先ほどまで張り詰めていた空気がようやくほどけていくのだった。




