6.
夜会から一週間ほど経った昼下がり、フィオナは王都の商店が集まる通りを歩いていた。冬の名残を含んだ風はまだ冷たかったが、雲の少ない空から降り注ぐ陽射しには春の気配が混じり始めている。衣料品店の窓には淡い色合いの春物が並び、菓子店から漂ってくる焼き菓子の香りに足を止める人も多かった。
今日は誰かと約束をしているわけではない。以前から気になっていた店をいくつか見て、気に入ったものがあれば買って帰るつもりで屋敷を出てきた。最初に入った店では髪飾りを眺めただけで何も買わず、次は少し離れた服飾店へ行こうと通りへ戻ったところで、フィオナは見覚えのある栗色の髪を見つけた。
向こうもほぼ同時にこちらへ気づいたらしい。店先から出てきたミアは驚いたように目を丸くしたあと、すぐに笑みを浮かべて近づいてきた。先日の夜会では別れ際にまた話そうと約束したものの、これほど早く、それも王都の街中で偶然再会するとは思っていなかった。
「フィオナ様。偶然ですね。お一人ですか?」
「ええ。少し買い物をしようと思いまして。ミア様も?」
「私もです。欲しかったものはもう買えたのですけれど、このまま帰るには少し早いかなと思っていたところです」
二人とも付き添いの使用人を少し離れた場所に待たせており、このあとに決まった予定もなかった。フィオナがこれから何軒か店を見るつもりだと話すと、ミアも近くに気になっていた店があるという。どちらが強く誘ったわけでもなく話がまとまり、二人は並んで通りを歩き始めた。
最初に向かったのは服飾品を扱う店だった。そこを出る頃にはミアが別の店を思い出し、そちらへ向かう途中でフィオナが気になっていた店の前を通れば、今度は二人で中を覗いてみる。初めから一緒に出かける予定を立てていたわけではないため時間にも追われず、気になる場所があれば立ち寄るという気楽な過ごし方になった。
先日の夜会では、二人の間にはまだ少し遠慮が残っていた。セドリックがミアを利用してフィオナを嫉妬させようとした経緯がある以上、それも仕方のないことだったのだろう。
何軒か回ったところで、ミアが近くに気に入っている菓子店があると言い出した。歩き続けていたフィオナにも異論はなく、二人は通りに面した小さな店へ入る。店内は昼を過ぎても賑わっており、壁際の棚には焼き菓子が並び、奥の席では買い物途中らしい令嬢たちが温かい飲み物を楽しんでいた。
「ここの焼き菓子、前にいただいたことがあるんです。今日は絶対に食べようと思っていたのに、さっきまで忘れていました」
「それなら思い出せてよかったですね。帰ってから気づいたら、随分悔しかったでしょう?」
「きっと明日また来ています」
真剣な顔で答えたミアに、フィオナは思わず笑った。先日の夜会でも菓子を見に行こうと誘われたことを思い出し、本当に好きなのだと納得する。注文した菓子が運ばれてくるとミアは嬉しそうに目を細め、その様子を見ているうちにフィオナまで自然と頬が緩んだ。
二人の会話にセドリックの名前は一度も出てこなかった。意識して避けていたのではなく、今日見た店や次に出席する夜会、最近読んだ本など、話したいことが他にいくつもあったからだ。以前は互いにセドリックとの関係を通して相手を知っていただけだったのに、こうして向かい合ってみれば、彼を挟まなくても会話に困ることはなかった。
店を出る頃には、二人とも当初より荷物が増えていた。それでもまだ日が傾くには早く、ミアがもう一軒だけ見たい店があるというので、大通りを反対側へ向かう。人通りは午前中より増えており、馬車が通るたびに道の端へ寄りながら、二人は先ほど食べた菓子について話していた。
次の店が見え始めたところで、正面から歩いてきた男性がこちらに気づいて足を緩めた。フィオナもすぐに相手の顔を思い出す。先日の夜会で初めて言葉を交わし、一曲だけ一緒に踊ったエドワードだった。
「アルヴェインさん。こんにちは」
「エドワード様。こんにちは。こんなところでお会いするとは思いませんでした」
夜会とは違って互いに外套を羽織り、周囲には音楽ではなく馬車の車輪や商人の呼び声が響いている。同じ相手と話しているはずなのに雰囲気は随分違っており、フィオナは少しだけ不思議な気持ちになった。
エドワードは近くの書店へ寄るために来たのだという。フィオナが隣にいるミアを紹介すると、二人も互いに名乗って挨拶を交わした。ミアはすぐに彼が誰なのか気づいたらしく、先日の夜会でフィオナと踊っていたところを見かけたと話した。
「お二人が踊っていらっしゃるところ、少しだけ拝見しました」
「そうでしたか。アルヴェインさんには一曲お付き合いいただきました」
「私も楽しかったです。あのときはありがとうございました」
エドワードが笑みを返し、そこから三人の会話が始まった。彼はフィオナとだけ話そうとはせず、ミアにも今日の買い物について尋ね、彼女が教えた近くの菓子店にも興味を示している。ミアも人見知りする性格ではないため、少し話した頃には三人で同じ話題を共有できるようになっていた。
先日の夜会では互いについてほとんど何も知らなかったが、一度顔を合わせている分、フィオナも今日は気負わずに話せた。夜会で演奏されていた曲の話から王都で評判になっている楽団へ話題が移り、エドワードが来月開かれる演奏会について教えてくれると、フィオナも興味を持っていくつか尋ねた。
エドワードは今回も婚約解消について触れなかった。周囲には気遣うように事情を尋ねてくる者もいれば、好奇心を隠しきれない者もいる中で、 話していて居心地が悪くならない理由の一つは、そこにあるのかもしれないとフィオナは思った。
「フィオナ?」
不意に背後から名前を呼ばれ、フィオナはエドワードへ向けていた顔を上げた。十年近く聞いてきた声を間違えるはずもなく、振り返るより先に誰がいるのか分かってしまう。
通りの少し先に、セドリックが立っていた。
婚約解消後に一度会い、頬を叩いて別れたあの日から、セドリックとは顔を合わせていなかった。向こうも偶然フィオナを見つけたらしく、最初に浮かんだのは純粋な驚きだった。視線が隣にいるミアへ移ると眉がわずかに寄り、自分がフィオナを嫉妬させるために利用した相手と、そのフィオナが仲良く買い物をしている光景を前に、しばらく二人を見比べていた。
やがてセドリックの視線がもう一人へ移ると、その表情から驚きが消えていった。エドワードの顔を見つめたあと、今度はフィオナへ視線を戻し、またエドワードを見る。その動きは一度では終わらず、二人の間にどれほどの距離があるのかまで確かめているようだった。
フィオナはその視線に気づき、わずかに眉を寄せた。セドリックは昔から、自分が他の男性と話していると機嫌を悪くすることがあった。まだ幼かった頃には遊び相手へ割って入り、社交界へ出るようになってからは、他の男性と長く話した翌日にわざとからかってくることもあった。
婚約者だった頃でさえ、フィオナにはその態度が理解できなかった。まして婚約を解消した今、誰と話していようとセドリックには関係がない。そう考えているフィオナとは対照的に、セドリックの表情はエドワードを見ているうちにますます険しくなっていった。
セドリックは少し離れた場所に立ったまま、エドワードから目を逸らさなかった。先ほどフィオナが彼と笑いながら話していたところも見ていたらしく、フィオナの表情を確認してから再び相手を見る。唇が固く結ばれ、外套の脇に下ろしていた手にも力が入っていた。
先日の夜会でフィオナが別の男性と踊っていたという話は、セドリックの耳にも届いていた。誰と踊ったのかまでは気に留めていなかったのかもしれない。それでも今、目の前にいる男とフィオナの間に先日の夜会から続く繋がりがあると知れば、穏やかではいられないらしい。
何よりセドリックの目を引いたのは、フィオナの態度だった。長年の付き合いがある自分に対して最後に向けられたのは冷え切った眼差しであり、手を伸ばせば頬を叩かれ、二度と勝手に触れるなと告げられた。それなのに、知り合って間もないエドワードとは通りの真ん中で楽しそうに話し、彼の話を聞いて笑っている。
セドリックの中で、その光景がどう受け取られたのかをフィオナは知らない。けれど、エドワードを見る目に浮かんでいる感情が好意的なものではないことくらいは分かった。偶然会った相手へ向けるには鋭すぎる視線に、隣にいたミアも気づいたらしく、それまでの柔らかな表情を消してセドリックを見ている。
エドワードも自分が見られていることには気づいていた。フィオナとセドリックの関係について噂程度の知識はあるのだろうが、理由を尋ねることはなく、向けられた視線を静かに受け止めている。その落ち着いた態度さえ気に障ったのか、セドリックの眉間に刻まれた皺はさらに深くなった。




