5.
セドリックとの婚約を解消してから二か月ほどが経ち、季節は冬の終わりを迎えていた。婚約解消が決まったばかりの頃には、フィオナが夜会へ出れば遠巻きに視線を向けられ、親しい令嬢から事情を尋ねられることも珍しくなかった。それも時間が経つにつれて少しずつ減り、最近では以前と変わらず声をかけてくる者の方が多くなっている。フィオナ自身も、セドリックの名前を思い浮かべないまま一日を終えることが増えていた。
その夜、フィオナは侯爵家が主催する夜会へ招かれていた。会場となった屋敷の大広間には幾つもの燭台が並び、磨き上げられた床には頭上から降り注ぐ明かりが柔らかく映り込んでいる。今夜選んだのは淡い若草色のドレスで、裾には同系色の糸を使った草花の刺繍が施されていた。
鏡の前でそのドレスを身につけたとき、フィオナは自分が随分と時間をかけて選んでいたことに気づいた。以前なら色や形を選ぶたび、セドリックなら何と言うだろうかと考えていた気がする。今回は何を着ようかと何軒もの店を回り、その中で自分が気に入ったものを選んだ。婚約を解消した直後には意識していた変化も、二か月が経った今では少しずつ日常の一部になり始めている。
会場へ入って間もなく、顔見知りの令嬢たちから声をかけられた。最近開かれた茶会の話をしている間はフィオナも楽しく応じていたものの、そのうち一人が気遣うように声を落とす。十年近く続いた婚約が終わったのだから、無理をして夜会へ来る必要はないのではないかと言われた。
「ありがとうございます。けれど、本当に大丈夫なのです。私も今夜を楽しみにしておりましたから」
そう答えても相手はまだ心配そうで、隣の令嬢からも長い婚約だったのだから簡単に気持ちを切り替えられるはずがないと言われる。悪意がないことは分かっているだけに、フィオナも困ってしまった。
返事を考えていたところへ、栗色の髪を緩やかに巻いたミア・ローレンスが近づいてきた。少し離れた場所で別の女性と話していたはずだが、こちらの様子に気づいたらしい。
「フィオナ様、少しよろしいでしょうか。先ほど、とても美味しそうなお菓子を見つけたのです。よろしければご一緒にいかがですか?」
フィオナにはミアの意図がすぐに分かった。令嬢たちへ挨拶をして誘いに応じ、人の少ないところまで来ると、ミアは少し心配そうにこちらを見る。
「勝手にお連れしてしまって申し訳ありません。余計なことでしたか?」
「いいえ。助かりました。ありがとうございます」
フィオナが答えると、ミアは安心したように笑った。以前セドリックのことで話したときにも、彼女は自分が利用されたことより先にフィオナへ謝罪している。あのときは気づかなかったが、元々周囲の人間をよく見ている女性なのだろう。
菓子の並ぶテーブルへ着くと、ミアは迷わず蜂蜜と木の実を使った菓子へ手を伸ばした。どうやらフィオナを連れ出すためだけに持ち出した話ではなかったらしく、その楽しそうな様子にフィオナも口元を緩める。
「本当にお菓子が目的でもあったのですね」
「もちろんです。先ほど見つけてから、あとで必ずいただこうと思っていました」
二人で菓子を味わいながら、最近出席した茶会や今夜の楽団について話した。ミアはフィオナが思っていた以上によく笑い、話題も豊富だった。これまでセドリックを挟んだ状態でしか互いを知らなかったことが、少しもったいなく感じられるほどだった。
そのとき、近くを若い給仕が飲み物を載せた盆を持って通りかかった。反対側から歩いてきた令嬢が後ろへ下がり、その進路へ入りかける。ミアが咄嗟に令嬢の身体を支えたことで衝突は避けられたものの、傾いた杯から飲み物がこぼれ、ミアの手袋へかかってしまった。
給仕が青ざめて謝罪する中、ミアは自分の手袋より先に支えた令嬢のドレスを確認した。汚れていないと分かると、今度は何度も頭を下げる給仕へ顔を向ける。
「大丈夫ですよ。火傷もしていませんし、私も急に手を伸ばしてしまいましたから」
ミアは給仕を責めることなく、自分の濡れた手袋を見た。フィオナがハンカチを差し出すと、大切なものではないかと遠慮されたものの、洗えば済むからと手渡した。ミアは礼を言って受け取り、二人は人の少ない壁際の椅子へ移動した。
手袋を拭き終えたミアは、しばらく迷った末にフィオナへ顔を向けた。
「私、しばらくフィオナ様から嫌われていると思っていたのです。セドリック様があなたを嫉妬させるために私へ近づいていたと知ってから、余計にそう思うようになりました」
王宮での夜会についても気にしていたらしい。フィオナとセドリックが最初の一曲を踊る約束をしていたことは、あの場で初めて知ったのだという。
「あのお約束を知っていたら、私は絶対にお受けしませんでした。知らなかったとはいえ、フィオナ様を傷つけることに加わってしまったことが、ずっと気になっていて……」
「ミア様が謝る必要はありません。約束を知っていたのはセドリックです。あなたは知らずに誘われただけでしょう」
フィオナは、むしろ関係のなかったミアを二人の問題へ巻き込んでしまったことが気になっていたと伝えた。互いに相手から悪く思われているのではないかと心配していたらしく、それが分かると二人とも顔を見合わせて笑った。
「でしたら、もうセドリック様のことでお互いに気を遣うのはやめませんか。これからは普通にお話ししたいです」
「はい。私も是非お願いします」
ミアの返事を聞き、フィオナは素直に嬉しくなった。二人でもう一度菓子の並ぶ場所へ戻り、やがて知人から呼ばれたミアはそちらへ向かう。離れた場所では別の友人たちと楽しそうに話し、その後は男性から申し込まれたダンスにも応じていた。
一人になったフィオナは飲み物を取りに広間の端へ向かい、柱の陰から出たところで反対側から歩いてきた男性とぶつかりそうになった。互いにすぐ足を止めたため衝突はせず、男性は自分の方が進路を確認していなかったと先に謝った。
「こちらもよく見ておりませんでしたから、お気になさらないでください」
年齢はフィオナより二つほど上に見え、落ち着いた身なりをしている。どこかで見た覚えがあったものの、名前までは思い出せなかった。
「アルヴェイン伯爵令嬢でいらっしゃいますね。きちんとご挨拶するのは初めてだと思います。エドワードと申します」
侯爵家の次男で、これまで同じ夜会へ出席したことは何度かあったらしい。互いに挨拶を交わしたあと、近くに並べられている飲み物の話になり、そこから今夜の楽団について話題が移っていった。
しばらくして、フィオナは一つ気づいた。エドワードは自分の婚約が解消されたことを知らないはずがない。それなりに社交界で話題になったにもかかわらず、彼はセドリックの名前も婚約解消についても一度として口にしなかった。
楽団が次の曲へ移る準備を始めると、エドワードはフィオナへ一曲踊らないかと申し込んだ。フィオナは少し考えてから、その誘いを受ける。
婚約していた頃にもセドリック以外の男性と踊った経験はある。それでも婚約解消後、独身の男性から正式に誘われるのは初めてだった。エドワードに手を預けて広間へ進み、始まった曲に合わせて踊る。
「若草色がお好きなのですか?」
「特にこの色ばかりを選ぶわけではありません。今日はこれを着たいと思ったのです」
「では、今日選ばれたのは正解でしたね。よくお似合いです」
フィオナは少しだけ驚いたものの、素直に礼を返した。エドワードはそれ以上ドレスについて言葉を重ねず、一曲を踊り終えるとフィオナを元いた場所まで送った。
「こちらこそ、ありがとうございました。私も楽しかったです」
二曲目を求められることもなく、二人はそこで別れた。しばらくして戻ってきたミアは、フィオナがエドワードと踊っていたことに気づいていたらしく、楽しそうだったとだけ口にした。フィオナが頷くと、ミアも嬉しそうに笑った。
その後もフィオナは別の知人と話し、ダンスへ誘われれば自分の意思で受け、料理も楽しんだ。夜会へ来たばかりの頃に心配してくれた令嬢とも再会し、本当に元気なのだと驚かれたときには、今夜を十分に楽しんでいると迷わず答えられた。
誰かに元気だと証明するために笑っているわけではない。好きなドレスを着て、話したい人と話し、美味しいと思ったものを食べる。その時間を過ごしているうちに、フィオナは今夜一度もセドリックの姿を探していないことに気づいた。
以前は同じ会場にいれば、誰と話しているのか、こちらを見ていないかと無意識に気にしていた。そんな時間がなくなっただけで、夜会は思っていたより広く、楽しい場所だった。
夜も深くなり、フィオナは帰ることにした。玄関へ向かう途中でエドワードと目が合い、互いに軽く会釈を交わす。ミアとも別れの挨拶をし、借りたハンカチを洗って返すと言われると、急がなくていいと答えて馬車へ乗り込んだ。
動き始めた馬車の中で、フィオナは今夜を振り返った。ミアと友人になれたことも、エドワードと初めて話したことも、様々な人と過ごした時間も楽しかった。十年近く一人の相手へ向けていた時間に、今まで目を向ける余裕のなかった人や物事が少しずつ入ってきている。
今日一番楽しかったことは何だっただろうと考えてみたものの、一つには決められなかった。
それが、少し嬉しかったのだった。




