4.
冬を迎える少し前、フィオナが知人の屋敷で開かれた茶会から帰ろうと玄関広間へ向かうと、外へ続く扉の近くにセドリックが立っていた。高い窓から夕方の光が差し込み、床に敷かれた深紅の絨毯を斜めに照らしている。彼と直接顔を合わせるのは婚約を解消して以来であり、以前より少し痩せたように見えた。
「少し話せないか、フィオナ」
「お話しすることは、手紙ですべてお伝えしたと思います」
「分かっている。それでも直接話したかったんだ。もう十分だろう?」
最後の言葉の意味が分からず、フィオナは眉を寄せた。セドリックは以前のような余裕のある笑顔ではなかったものの、どこか安堵した様子でこちらを見ている。婚約を解消され、贈り物も返され、ミアからも距離を置かれたことで、彼なりに反省したつもりなのだろう。
「何が十分なのですか?」
「俺はお前にずっと意地悪をしてきた。それでお前は怒って、今度は婚約まで解消して俺を困らせた。俺も悪かったし、お前の気持ちも分かったよ。だから、そろそろ終わりにしてもいいだろう」
「……終わりにはなっています。私たちの婚約は、既に解消されていますから」
「そういう意味じゃない。俺たちは昔からこうだっただろう? 俺がお前を怒らせて、お前が腹を立てて、しばらくしたら仲直りする。今回は少し大きな喧嘩になっただけじゃないか」
フィオナは目の前にいる男の顔を見つめた。ここまで来ても、セドリックは婚約解消を「フィオナから自分への仕返し」だと思っている。困らせたかったわけでも、反省させるために距離を置いたわけでもない。これからの人生を彼と共にしたくないと判断したから、婚約を終わらせたのだ。
「私はあなたへ仕返しをしたかったのではありません。あなたが困れば気が済むとも思っていませんし、十分に反省したから戻ってもいいとも考えていません」
「だったら、どうして――」
「あなたと結婚したくなくなったからです。私は何度も嫌だと伝えました。それでもあなたは、私が怒るところを見るのが楽しいという理由で繰り返した。そんな方と、この先何十年も一緒に暮らしていきたいとは思えません」
セドリックの表情が強張った。ここまで明確に言われるとは思っていなかったのか、すぐには言葉が返ってこない。玄関広間の向こうでは使用人たちが行き来しており、開かれた扉から入ってくる冷たい風がフィオナのドレスの裾をわずかに揺らしていた。
しばらく黙っていたセドリックは、やがて困ったように笑った。その表情には幼い頃の面影があり、焼き菓子を奪ったあとにフィオナから怒られた少年の頃とよく似ていた。だからこそ、彼の中では本当に何も終わっていないのだと分かった。
「そんな怖い顔をするなよ。俺たちは昔からこうだったじゃないか」
セドリックが右手を伸ばした。
子供の頃から何度もそうしてきたように、フィオナの髪へ触れようとする。綺麗に整えた髪を少し崩せば、フィオナが怒って彼の手を払い、いつものやり取りが戻ってくるとでも思ったのだろう。
その指先が髪へ届く直前、フィオナは一歩踏み込んだ。
乾いた音が玄関広間へ響いた。
セドリックの顔が横を向き、伸ばしていた手が止まる。フィオナの右手にもじんとした痛みが残り、初めて人の頬を叩いた感触に指先が震えた。それでも手を下ろしたフィオナは目を逸らさず、頬を押さえたまま呆然としている元婚約者を正面から見据えた。
「……昔から、一度くらいこうしておけばよかったですわね」
セドリックは何も返せなかった。
「私はもう、あなたの婚約者ではありません。ですから、私の許可なく触れないでくださいませ」
フィオナは乱れてもいない髪を指先で整え、彼の横を通り過ぎた。屋敷の外では迎えの馬車が待っており、御者がフィオナに気づいて扉を開ける。振り返ってセドリックの顔を確かめようとは思わなかった。
馬車へ乗り込むと、窓の外で冬を間近に控えた木々が風に揺れていた。右手にはまだ少し痛みが残っている。幼い頃から数え切れないほど意地悪をされ、そのたびに怒って、追いかけて、言葉で文句を言ってきたのに、彼へ手を上げたのはこれが初めてだった。
そして、おそらく最後になるだろう。
フィオナは赤くなった掌を眺め、小さく笑った。
十年分にしては、随分と軽い一発だった。




