一、
坑道から帰還すると、教官から多少の小言を受け、その日の実習は終了となった。
地下室からの帰り際、桜は勇樹に声をかけた。
「勇樹くん……最近、精霊の召喚がおかしいことになっていない?」
「そうか?というか、俺は召喚士じゃないからな、そのあたりはよくわからんぞ?」
「あ、うん……ごめんね。実は……」
そういって、桜は今日ドリアードを召喚した時に、呪文詠唱から顕現までのタイムロスに違和感を覚えたことを離した。
通常、精霊を召喚する場合、彼らに呼び掛けるための呪文詠唱、顕現してほしい座標としての魔法陣を展開、そして精霊の顕現という三つの動作が必要になる。もちろん、呪文詠唱は精霊の階級によって、その長さは変化していくが、ドリアードのような下級よりも少し上の階級の精霊を召喚する場合、長くても一分程度しか時間はかからない。まして、桜はドリアードと個人的にも親しいため、呪文の詠唱から顕現まで三十秒もかからない。
しかし、今日の召喚では、魔法陣展開から顕現までの時間差が少し長く感じられたのだ。
そのことについて、シルフから何か聞いていないかと思い、勇樹に質問したのだろう。それを聞いた勇樹は少し考え込むようなそぶりを見せ、首をひねった。
「……いや、聞いていないな……というか、シルフからはその話を聞いたことがない」
「そう、なんだ……」
「まぁ、それとなく聞いてみるさ。俺の場合、召喚術と言うよりもシルフの方が俺の呼びかけにこたえてくれている感じだから、そのあたりの感覚にずれがあるかもしれないけれど」
桜の不安そうな表情を吹き飛ばすかのように、勇樹は微笑みながら言う。
もちろん、精霊から力を借りている以上、精霊の側で何かしらの問題が生じたのであれば、彼らに力を貸す必要がある。
それならば、精霊から話を聞いておく必要があるだろう。
「うん、ありがとう」
桜は微笑みながら礼を言い、その場を離れた。
勇樹はその背中を見送り、人影のない教室へと移動した。
その頃、「宮」とは違う別の場所で一人の男が何かをつぶやいていた。その足もとで、赤黒い光を放つ魔法陣が、時折、点滅を繰り返していた。しかし、呪文の詠唱を終えても、何もその呪文に応えてはくれなかった。
「……やはり、まだ時が足りぬか……」
男はそう呟き、手にしていた本を閉じた。そして、その本を本棚へと戻し、何が足りないのかなどぶつぶつと呟きながら歩きまわっていた。
男が本棚に戻した本の黒い背表紙には、金箔のアルファベットでその本の名、『AL AZIF』というスペルが記されていた。
それは、知る人ぞ知る悪名高き魔道書、『ネクロノミコン』の原版であった。
男は再び『ネクロノミコン』を手に取り、その表紙を眺め、なでながら口角をゆがめ、邪悪な笑みを浮かべた。
「我が神、大いなるクトゥルフよ……今しばらく、お待ちください」
必ずや、この世界をあなた様の手に。




