七、
勇樹は忌まわしき古書『ネクロノミコン』のページを一枚、また一枚とめくっていく。
そこには、とても形容しがたい内容が記されていた。精神鍛錬を行っていなければ、おそらく発狂していただろう。
だが、裏を返せば、それだけの情報がこの本には書かれているということだ。そして、そこには勇樹今もっとも欲している情報が記されていた。
「……大いなるもの、古の世界を支配せし、外なる星より来るもの。そが名は、クトゥルフ」
その名をつぶやいた時、勇樹の背筋は凍りついた。
時として、人は異なる存在を知った時、恐怖を感じるものだ。それは海であれ、山であれ、自然物にふれた時にも感じ取っている。だが、それらにふれるときは同時に、「畏れ」も感じ取っている。それは、生命が本来持っている本能的な感覚であり、命の連なりの中で培われてきた敬いの念から発する感覚なのだ。
だが、今回は違う。この旧支配者、クトゥルフの名を読み上げた時、感じ取ったのはただ恐怖と絶望だけであった。
それだけで、この存在が恐怖と破壊以外、何も生み出さない存在であることは容易に想像できた。
「召喚させたら、まずいことになるな……」
『ネクロノミコン』によれば、クトゥルフは太陽系外の銀河系から来訪した神々との戦いに敗れ、死に近い眠りについているとあったが、覚めない眠りは存在しない。呼びかけ続ければ、目覚めることもあるだろう。
過去に幾度となく繰り返されてきた悪魔崇拝や邪神崇拝の儀式は、おそらく、このクトゥルフにも少なからず呼びかけを行っていたはずだ。いや、直接呼びかけなくても、その声は少なからず届いていたはずだ。
それゆえ、今、直接呼びかければ、目覚める可能性は少なからず、ある。そして、クトゥルフが呼び出された場合、何かが起こる。具体的に何が起こるかは分からない。だが、確実に「よくないこと」であることは確かだ。
「……誰だ、呼び出そうとしているのは……」
勇樹は手紙に記された内容を思い出しながら、クトゥルフの召喚主を特定しようとしていた。
その頃、桜は職員室からメモに記された場所まで移動していた。
そしてそこは、ある一定の学年の生徒以外立ち入りが禁じられている森の中にある、ひどく寂れた教会だった。崩落の危険があるため、めったに生徒は近づかないし、教師陣も近づけさせていない。
「先生は何でこんなところに?」
桜はそのような疑念を抱きながらも、教会の中に入っていった。
まだ昼間だと言うのに、教会の中は薄暗く、いかにも「出る」ような雰囲気を醸し出している。
「先生!片城先生!!どこですか?」
桜は少しばかり声を張り上げて、目的の教官を呼んだ。しかし、返事が無いだけでなく、人の気配すらしない。
「……本当にここにいるのかしら?」
あまりに反応がないため、桜はそう呟き、礼拝堂の中を進んでいった。ふと、後ろから誰かが近づいてくる気配を感じ、振り向こうとしたが、その時にはすでに遅かった。
突然、後ろから布で口と鼻を覆われ、声をふさがれた。そして、なお悪いことに、その布に何かの薬品が染み込ませてあったのだろう、刺激臭が鼻孔にたどりつく。
それに気づいた時には、すでに桜の意識はもうろうとし始めていた。
――ゆう、き……くん……
薄れていく意識の中で、桜はパートナーの名を心のうちで呼ぶ。
たとえ、可能性がごくわずかであっても、別々に行動している彼が、自分の危機に気づいてくれることを祈って。




