第2話 盛大に吐いた
結局、あれから俺は一睡もできなかった。無理もない。昨日は色々なことがあったからな。あれほど気持ちの浮き沈みが起こった一日はこれまでにないし、これからもないだろう。いや、あったら困る。
それでも時間は止まってくれない。いつも通り朝の六時には布団を出て、朝ごはんを食べたら顔を洗って歯を磨き、家を出なければならない。
「ケイタ!? どうしたのそれ」
「ん?」
「目! めっちゃ赤いよ!」
「そうなのか。気づかんかったな」
「大丈夫?」
「大丈夫だろ。目が赤いなんて、ウサギだったら日常のことだ」
スマホを開き、昨日ミレイちゃんからもらったスタンプをエリカに送る。
[ブチギレたウサギのスタンプ]
「何これ! ガンギマリじゃん!」
「可愛いだろ?」
「可愛くないよ!」
「あー、エリカ」
「ん?」
「昨日はちょっと感じ悪かったかも……ごめんな」
「そうだった? 覚えてない」
「ならいい」
どうやら昨日の俺は、自分で思っていたよりも上手くやれていたみたいだ。俺があのあと深夜の二時まで泣き通していたなんて、エリカには気づかれていなそうだ。
溜まっていた涙を流し切ったからか、クラスメイトたちの優しさに触れられたからか、妙にスッキリした気分だった。
それもそうだろう。俺の目が赤いということ以外は昨日の朝と何も変わらない。ヒナの幼馴染から彼氏へと席替えをしたつもりが、元の席に戻っただけだ。
ヒナやレオンたちは面白かったみたいだし、俺はちょっと泣いただけで、今はなんともない。マサヒロたちには悪いが、誰も損をしていないのだから、これ以上騒ぐ必要もない。
俺はいつも通り家を出て、ヒナとの待ち合わせ場所に向かうと、珍しくヒナが先に待っていた。いつもは俺が先について、十分くらい待つのに。
「おはようヒナ」
「おはよー」
「昨日はなんか、大変だったな」
「ごめんね。巻き込んじゃって」
「いいよ別に。いつものことだ」
「いつものことって……」
「まぁ、俺も変に浮かれちまったけど、別にそんなに気にしてない」
「そう?」
「まあ、昨日のことは忘れてくれ」
「……え?」
「彼氏とか彼女とか、俺たちそんなんじゃないんだろ?」
「あ、うん。そうだね。ごめんごめん」
「はは。良いよ。でもまぁ、俺も恥ずかしくはあったかな」
「怒ってる?」
「怒ってないよ、忘れてくれればそれでいい」
「本当に気にしてない?」
「気にしてないよ」
「そっか。じゃ、行こ」
「おう」
嘘だ。本当はめちゃくちゃ気にしている。昨日から俺は嘘ばかりついているな……。自分が嫌になる。
いや、ヒナの顔を見るまでは本当に気にしていなかったんだが……、どうも、目を合わせられない。俺の大好きだったヒナの顔を見ることができない。昨日出し切ったはずの涙がまた溢れそうになる。
だが、こう見えて俺はこの道のプロだ。何せ十年以上も、ヒナに対する気持ちをしまい込んで生きてきたわけだからな。一度取り出してしまった物を、またしまうだけ。そう考えれば難しいことではない。
何を話してたかは覚えていないが、いつの間にか学校に着いていた。
昇降口で上履きに履き替え、教室に向かう途中、妙な違和感を感じた。なんだか胸の奥が気持ち悪く、腹の底がムカムカする。教室の前にたどり着いた時、その違和感が限界を迎えそうになったが、一度飲み込む。
「ごめ、トイレ」
「え?」
ヒナが少し驚いているが、説明する余裕はない。ダッシュでトイレへ駆け込み、個室の鍵を閉めると、盛大に吐いた。朝飯のヒジキが便器の淵にへばりついている。何が何やらさっぱりだ。やはり寝不足は体に悪いのだろうか。
保健室で少し寝てもいいんだが……。
いや、わかる。小学校の頃、習い事を始めては辞めてを繰り返していた経験がここで俺の背中を押した。「ここで教室に入らなかったら、二度と教室に戻れなくなるぞ」と。
とにかく教室に行こう。俺が元気な顔を見せないと、結局は何も収まらない。別に寝るのは教室でもできるしな。
お母さんがアイロンをかけてくれたハンカチで口元を拭き、レバーを引いて水を流し、俺は教室に向かった。
◇
そんなに長い時間、トイレにこもっていたつもりはないが、そろそろホームルームが始まる時間だった。急いで自分の席に着き、一時間目の授業に向けてタブレット端末の準備をする。
「おはよーケイタ」
昨日、変な時間までグループチャットを見ていた隣の席のミレイちゃんは、机にうつ伏せになりながら、顔だけこっちに向けて話しかけてきた。まぁ、『五組の眠り姫』なんて呼ばれているミレイちゃんが眠そうなのは、いつものことだけど。
「おはようミレイちゃん。昨日はありがとな」
「猫のスタンプいいでしょ」
「良い。早速使っている」
今朝、エリカにスタンプを送ったチャットの画面を見せる。
「エリカ?」
「妹だ」
「仲良いんだね」
「まあな」
「元気?」
「あいつはいつも元気だ」
「じゃなくて、ケイタは?」
「俺もいつも元気だ!」
「そっ。ならいっか」
それだけ言うと、また顔を伏せて眠りにつく。周りを見てみると、ミレイちゃんだけではなく、クラス中のみんなが眠そうだ。チャットに参加していないだけで、みんな注目していたのだろう。まぁ、数時間スマホに触れなかっただけで、三桁の通知が来ていたわけだからな。
そうこうしているうちに、ホームルームが始まった。
◇
「ケイタに謝ったのか?」
?
「謝ったって!」
「そしたら?」
「良いよって言ってたよ」
「嘘告とかマジでセンスないからな!」
「わかったって……マサヒロに関係ないじゃん」
「そう言うなら、関係ない奴らのグループに動画載せたりすんなよ!」
「私が載せたわけじゃないし」
……。
マサヒロとヒナが揉めている。確かに動画を載せたのはヒナではない。身内で楽しんでいれば良いものを、関係ない奴らにまで見せたのは、レオンの仕業だ。どちらの言い分も正しい。
なぜ被害者の俺が喧嘩の仲裁をしなくてはいけないのだろう。とはいえ、俺のことで揉めているのに寝たフリを続けるのも落ち着かない。
まったく。
「おはよう」
「あ、起きた」
「そりゃあ、隣で自分の名前を出して揉めてるやつがいれば目も覚めるだろ」
「すまんケイタ。どうも腹が立っちまって」
「なんでマサヒロが怒ってんの? 関係ないじゃん」
ヒナ。なんでクールダウンしかけたマサヒロをまた盛り上げるんだ。大人しくしといてくれ……。
「だから、お前らがクソみたいな動画流すから気分が悪いっつってんの」
「うるせーなぁ。もう消したんだから良いだろうが」
レオンもいたのか……。知らないうちに俺が主演を務めるムービーは、グループチャットから消されていたらしい。
「そういう問題じゃねーっての」
「冗談の通じねえやつだな。ケイタごめんなー。マサヒロがバカなせいでクラスの雰囲気が悪くなっちまってよー」
「クソが——」
「あー、待て待て。これ以上この話はやめようぜ。俺はもう気にしてはいないが、やっぱりちょっと恥ずかしいからさ」
今にもレオンに殴りかかりそうになっているマサヒロをなんとか鎮める。お前がそんな武闘派だとは知らなかったよマサヒロ。
「だとよ! あんま調子乗んなよガリ勉メガネが!」
「レオン。変にマサヒロを挑発しないでくれ」
中指をマサヒロに立てながら後ろを向いて去っていくレオン。うちの学校は進学校のはずだ。くだらない喧嘩はよして勉学に励め。
「あー、すまん。ケイタ」
「いやいや、俺のために怒ってくれたんだろ? ありがとなマサヒロ。しかし、意外と武闘派なんだな」
「いや、別に俺が勝手にムカついてただけだからさ。喧嘩なんてしたことねーよ。このメガネを見ろ。どう見てもガリ勉だろ」
「だから驚いたんだよ」
「メガネだってムカつけば喧嘩することもあるってこと」
そう言うと、マサヒロも自分の席に戻って行った。騒がしかった俺の席の周りには、ボケッと立っているヒナだけが残っていた。
「ケイタ、ちょっといい?」
「ん?」
「あのさ——」
「ほらー席につけー」
ヒナが何か言いかけたタイミングで担任の中野ちゃんが入ってきた。ということは、四時間目の現国が始まるということか……。どうやら俺は一時間目から三時間目の間ずっと寝ていたらしい。
「席につけとのことだ」
「はーい」
まったく。せわがやける……。
◇ 昼休み(ミレイ視点)
……昼休みか。
寝過ぎちゃった。まぁ、バカのせいで結局朝まで寝れなかったから……。
「ミレイ、ご飯食べよ」
例のバカが声をかけてきた。なんでこのバカは平気な顔して学校に来られるのだろうか。昨日の動画の主役の一人だというのに。
「ヒナ」
「何?」
「バカタレ」
「……」
「なんで普通にしてられんの?」
「ケイタは許してくれたよ」
「そっか」
「ミレイ」
「ん?」
「ケイタに嫌われたかな?」
「知らない。許してくれたんならそれで良いんじゃない?」
「冷たくない?」
「私は怒ってるからね」
「……ごめん」
ヒナが悲しそうに背中を向けて去ろうとする。
「どこいくの?」
「え?」
「お昼食べるんじゃないの?」
「……いいの?」
「早く食べよ」
このバカは……ずるい。今日くらいは冷たくしてやろうと思ったのに、どうも気になってしまった。別に許したわけじゃない。ただ、私は許す許さないの話をする立場にいない。何より、私がヒナを突き放すことをケイタが望んでいない。
だったらもう、この話は終わりだ。少なくとも、私が関与する話ではない。このバカ犬といつも通り一緒にご飯を食べる。
……それだけだ。
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