8
翌日。
エレナは王妃から呼ばれた。
「次の社交季から、あなたには外国使節との折衝に関わる役目を任せたいと思っています」
一瞬、何も言えなかった。
外国使節との折衝。
これまでより、ずっと責任のある仕事だ。
語学も礼法も、これまで覚えてきたことをすべて使える。きっと、やりがいもある。
「あなたなら任せられると思っています」
王妃の言葉に、胸が鳴った。
嬉しかった。
素直に、とても。
昨日まで考えていたことが、一瞬で揺らぐくらいに。
――これをやってからでも、いいのではないか。
外国使節との折衝を経験すれば、もっと自信がつく。できることも増えるし、王宮を辞めたあとにもきっと役に立つ。
何より。
これほどの役目を任されてから辞めるのなら、誰にも「能力がなかったから逃げた」などとは思われない。
エレナは膝の上に置いた自分の手を見る。
――もう一年。
昨日、線を引いたばかりの文字が浮かんだ。
まるで、その線を引いたことを試すように。
欲しかったものが、向こうからやってきた。
「……陛下」
「何でしょう」
口を開く。
けれど、声が出ない。
断れば、この役目はもう自分には来ないかもしれない。
王宮を辞めれば、王妃付き女官という席にも簡単には戻れない。
それは分かっている。
今、自分が持っているものは決して小さくない。
良い職場。
信頼できる人たち。
安定した俸給。
名誉ある立場。
そして、新しい役目。
そのすべてを、自分から手放すのか。
その先に何があるのかも分からないのに。
エレナは息を吸った。
怖かった。
昨日、五つ目の星がなくても選んでいいのかもしれないと思った。
けれど、そう思えたからといって怖くなくなったわけではない。
むしろ目の前に「残る理由」を差し出されたことで、怖さは昨日よりはっきりした。
「……王妃付きのお役目を」
エレナはゆっくりと言った。
「退かせていただきたいのです」
言ってしまった。
胸が大きく鳴る。
王妃はすぐには答えず、しばらくエレナを見つめた。
「再星の結果が理由ですか?」
「……まったく関係がないとは、言えません」
嘘をつきたくなかった。
「《第五星位・エンピレオン》になれたら、王宮を辞めようと思っていました」
王妃がわずかに眉を上げる。
「なぜ?」
エレナは少し考えた。
昨日までなら、うまく答えられなかったかもしれない。
「そうすれば、ここでなければやっていけない人間ではないと、思える気がしたのです」
王妃は黙って聞いている。
「《第五星位・エンピレオン》なら、何にでもなれるような気がしました」
「だから、王宮を辞めても?」
「はい」
エレナは小さく笑った。
「できなかったから辞めるのではなくて。できるけれど、自分でここを選ばないのだと――そう思いたかったのです」
言葉にすると、少し恥ずかしかった。
王妃はしばらく何も言わなかった。
やがて、
「では、《第五星位・エンピレオン》になれなかった今は?」
と尋ねた。
エレナは自分の手を見る。
「……怖いです」
すぐに答えた。
「王宮を辞めて、後悔するかもしれません」
「ええ」
「戻りたいと思っても、戻れないかもしれません」
「そうですね」
「ここより良い場所など、見つからないかもしれません」
王妃は否定しなかった。
それが、少しありがたかった。
「何がしたいのかも、まだ分かりません。何者にもなれないかもしれません」
そこまで言って、エレナは少し笑った。
「……こうして並べると、残った方がよほど賢い選択に聞こえますわね」
王妃も、ほんの少し笑った。
「実際、そう考える者は多いでしょう」
胸が痛む。
でも、その言葉を聞いても昨日ほど逃げたくはならなかった。
「陛下も、そうお思いになりますか?」
王妃は少し考えた。
「私は、あなたがここに残れば助かります」
エレナは目を上げる。
「能力のある者を失うのは惜しいもの」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
やっぱり嬉しい。
認められることは、今でも嬉しいのだ。
「ですが」
王妃は続けた。
「それと、あなたが残るべきかどうかは別の話でしょう」
エレナは黙った。
「あなたは、ここが嫌いなの?」
「……いいえ」
「私が嫌い?」
「まさか」
「では、仕事が苦痛で仕方がない?」
エレナは首を振る。
「いいえ」
「それなのに、辞めたい」
「……はい」
今度は、その言葉を否定しなかった。
王妃は机の上で手を組む。
「ずいぶん贅沢な悩みに聞こえるでしょうね」
エレナは苦笑した。
「自分でも、そう思います」
「それでも?」
エレナは黙った。
昨日、十歳の自分が書いた紙を思い出す。
海。
船。
外国の市場。
工房。
そして。
――私はもっといろいろできると思う。
「それでも」
顔を上げる。
「ここにいたい、とも思えないのです」
言ってしまうと、驚くほど簡単だった。
「嫌いではありません。誇らしく思うこともありますし、辞めたらきっと惜しいと思います」
それも本当だ。
「でも」
エレナは続けた。
「惜しいというだけで、この先もずっとここにいる理由にしていいのかが、分からなくなりました」
王妃は何も言わなかった。
「昨日までの私は、もっと安心できたら辞めようと思っていました」
もう一年。
もう少し経験を積んだら。
もっとお金があったら。
何をしたいのか決まったら。
「でも、安心できるものが増えるほど、今度はそれを失うのが惜しくなるのだと思います」
王妃の目が少し細くなった。
「では、今なら惜しくないの?」
「惜しいです」
即答した。
王妃が笑う。
エレナも少し笑った。
「ものすごく惜しいですわ」
外国使節との仕事も。
王妃付きという立場も。
ここで築いたものも。
全部。
「それでも?」
王妃が、もう一度尋ねた。
エレナは少しだけ考えた。
そして、
「はい」
と答えた。
「それでも、辞めたいです」
初めて、きちんと言えた気がした。
辞めたい。
王宮が悪いからではない。
仕事ができないからでもない。
次にやりたいことが決まっているからでもない。
それでも、辞めたい。
その理由を、誰かが納得できる形に整えなくても。
自分の気持ちとして、そこにあっていいのかもしれない。
王妃はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「今辞めれば、再星で《第五星位・エンピレオン》になれなかったから逃げた、と考える者もいるでしょう」
エレナの胸が、きゅっと縮んだ。
嫌だ。
今でも、とても。
「……そうでしょうね」
「誤解されたままでも?」
エレナは目を伏せた。
説明したい。
違う、と。
前から何となく違和感があった。
王妃から新しい役目まで提示された。
能力がなくて辞めるのではない。
全部、言って回りたい。
「嫌です」
王妃を見る。
「ものすごく嫌です。できることなら、一人ずつ捕まえて説明したいくらいですわ」
王妃が笑った。
エレナも少しだけ笑う。
「でも」
息を吸う。
「その人たちに、私の選択が正しいと思ってもらうためだけに」
昨日、線を引いた文字を思い出す。
――もう一年。
「私のもう一年を差し出す方が、もっと嫌です」
静かな部屋に、自分の声が残った。
王妃が尋ねる。
「辞めたあとは?」
「半年ほど、領地へ戻ろうと思っています」
「その後は?」
「……決めていません」
以前なら、それだけで心細くなった言葉。
けれど今日は、少しだけ違った。
「海は見てみたいです」
思わず付け加える。
王妃が瞬いた。
「海?」
「はい」
「それは、将来の計画?」
エレナは少し考えて、首を振った。
「いいえ」
なぜか笑ってしまった。
「ただ、見てみたいのです」
王妃も少し笑った。
「そう」
そして、一枚の書類を手元へ引き寄せる。
「では、退任の手続きを進めましょう」
エレナは目を見開いた。
「……よろしいのですか?」
王妃が顔を上げる。
「今さら、私の許可が必要なの?」
エレナは言葉に詰まった。
王妃は少しだけ意地悪そうに笑う。
「手続き上の許可は必要ですけれどね」
エレナは思わず笑った。
「一つだけ」
王妃が言う。
「はい」
「今日の決断が正しかったかどうかを、明日から採点し始めないこと」
エレナは目を瞬いた。
それから、声を上げて笑った。
「……難しいかもしれませんわ」
「でしょうね」
王妃も笑った。
不安は消えていない。
王宮を手放すのが惜しい気持ちも、後悔するかもしれない怖さも、誰かに逃げたと思われたくない気持ちも。
何ひとつ、消えていない。
それでも初めて。
それらが全部消えるまで、待たなくてもいいのかもしれない。
そう思えた。




