7
その夜。
エレナは引き出しから星章を取り出した。
銀色の小さな章に、四つの星。
十五歳の春から、何も変わっていない。
変わったのは、これを見る自分の方だった。
父は失望していない。母も、セシリアも。
王妃からは、再星の結果について何か言われたことすらない。
大神官はむしろ、エレナの中に確かな変化があったのだと告げた。
女神だって、一度も「足りない」などとは言っていない。
そもそも星位は、努力の点数ではない。
どれほど働いたか、どれほど勉強したか、どれほど役に立ったか。
そういうものを女神が採点しているわけではないことくらい、十五歳の頃から知っている。
それなのに。
五つ目の星が灯らなかったことが、どうしようもなく悔しかった。
エレナは四つの星を指先でなぞる。
もし、《第五星位・エンピレオン》になっていたら。
自分は、どう思っただろう。
きっと、王宮を辞めることがずっと簡単になった。
最高位なのだから、ここでなくてもやっていける。
王宮にいなくても、女官でなくても、何にだってなれる。
私は、できなかったから辞めるのではない。
ここしか居場所がないから、しがみついているわけでもない。
できるけれど、それでも自分でここを選ばないのだ。
そう思えたはずだった。
誰かに見せつけたかったのかもしれない。
いや。
一番見せつけたかったのは、きっと自分自身にだ。
――私は、何にだってなれる。
――だから、ここを辞めても大丈夫。
《第五星位・エンピレオン》。
その言葉さえあれば、それを信じられる気がした。
エレナは目を閉じた。
王宮を辞めたい。
その気持ちは、たぶん本物だった。
けれど、王宮が悪い場所なのかと聞かれれば違う。
王妃は公正で、同僚にも恵まれている。仕事にも慣れ、俸給もあり、侯爵令嬢として見ても申し分のない経歴になる。
自分の働きを誇らしく思う瞬間だってある。
きっと、ここよりずっとひどい場所など、いくらでもある。
そんな場所を、自分から手放していいのだろうか。
辞めたあとで、やっぱり戻りたいと思ったら。
同じ席が空いているとは限らない。
一度退いた女官が、何事もなかったように王妃付きへ戻れるとも限らない。
今持っているものを手放して、その先にもっと良いものがある保証など、どこにもない。
むしろ、何もないかもしれない。
領地へ戻って半年、一年と過ごしたあとで、
――王宮にいた頃の方がよかった。
そう思うかもしれない。
その想像をすると、怖かった。
辞めたい。
でも、惜しい。
ここにずっといたくはない。
でも、失ってから欲しくなるかもしれない。
もっと別のことができる気がする。
でも、それが何なのかは分からない。
私はもっと何かできるはずだ。
――本当に?
エレナは星章を強く握った。
だから、五つ目の星が欲しかったのだ。
《第五星位・エンピレオン》。
それさえあれば、何にでもなれる人間なのだと自分に言えた。
王宮を辞めても選択肢はいくらでもある。
ここへ戻れなくなっても、別の場所へ行ける。
そんな保証が欲しかった。
けれど、五つ目の星は灯らなかった。
数日前、エレナは予定表にこう書いた。
――もう一年。
その文字を見る。
あと一年働けば、何か大きな仕事を任されるかもしれない。
もう少し経験を積めるし、お金も貯まる。今より自信だってつくかもしれない。
そのときなら、もっと安心して辞められる。
間違った考えではない。
むしろ、ずいぶん堅実だと思う。
なのに、胸のどこかで別の声がした。
――その一年が終わったら?
エレナは動きを止めた。
次は何を待つのだろう。
もう一つ役目を終えるまで。
十九歳になるまで。
もう少しお金が貯まるまで。
何をしたいか決まるまで。
絶対に後悔しないと思えるまで。
そんな日は、本当に来るのだろうか。
今より安心できれば、きっと決められる。
ずっと、そう思ってきた。
けれど。
安心を得れば得るほど、今度はそれを失うのが惜しくなる。
王宮に慣れれば慣れるほど、辞めるのが怖くなる。
役目が増えれば増えるほど、途中で投げ出すような気がする。
お金が増えれば増えるほど、もっとあった方が安心だと思うかもしれない。
五つ目の星が、一年に変わっただけ。
そして一年の次には、また別の何かがきっと現れる。
そのことに気づいた瞬間、エレナは急に怖くなった。
辞めることよりも。
このままずっと、
「もう少し安心できたら」
と言い続けることの方が。
そのとき、書棚の奥にある古い冒険譚が目に入った。
幼い頃、何度も読んだ本だった。
手に取ると、頁の間から小さな紙切れが滑り落ちる。
拾い上げた瞬間、見覚えのある字に気づいた。
十歳の頃の、自分の字だった。
『いつかやりたいこと』
海を見る。
船に乗る。
外国の市場へ行く。
工房を見る。
馬で行けるところまで行く。
エレナは少し笑った。
そして、その一番下。
『私はもっといろいろできると思う』
しばらく、その文字を見つめる。
私はもっといろいろできると思う。
今でも、そう思っている。
だからこそ、《第五星位・エンピレオン》になりたかった。
何にでもなれる人間なのだと、証明したかった。
けれど。
十歳の自分が思っていた「いろいろ」は、本当にそういう意味だっただろうか。
もっと高い星位。
もっと大きな役目。
もっと立派な肩書き。
そんなものではなく。
海を見る。
船に乗る。
知らない街へ行く。
やったことのないことをやる。
ただ、それだけだったのではないか。
エレナは紙切れを見つめた。
《第五星位・エンピレオン》には、なれなかった。
だからといって、何にでもなれるとはもう言えないのだろうか。
四つ星なら、王宮に残るしかないのだろうか。
そんなはずはない。
分かっている。
ずっと、分かっていた。
必要だったのは、五つ目の星ではない。
五つ目の星がなくても、自分には選択肢があると信じることだった。
けれど。
それが何より難しかった。
エレナは机を見る。
四つ星の星章。
十歳の自分が書いた紙切れ。
そして、
――もう一年。
という文字。
しばらく三つを見つめた。
王宮を辞めれば、後悔するかもしれない。
今より良い場所など見つからないかもしれない。
何者にもなれないかもしれない。
それでも。
絶対に後悔しない未来が分かるまで待つのなら、たぶんいつまでも選べない。
エレナはペンを取った。
――もう一年。
その文字に、ゆっくりと一本の線を引く。
文字は消えなかった。
不安も、消えなかった。
それでも初めて。
不安が消えてからでなくても、選んでいいのかもしれない。
そう、少しだけ思った。




