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五つ目の星が灯らなくても ~最高位になれなかった侯爵令嬢が自分の人生を選ぶまで~  作者: 水瀬める


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数日後。


王妃の予定変更で、珍しく三刻ほど時間が空いた。


急にできた空白だった。


エレナは自室へ戻り、机の上に積んであった北方語の教本を開く。


せっかく時間ができたのだから、少しでも進めておこう。


一頁、二頁と読み進める。


けれど、文字はなかなか頭に入ってこなかった。


窓の外から、かすかに笛の音と人々の歓声が聞こえる。


エレナは顔を上げた。


春祭り。


まだ続いている。


その瞬間、数日前に思い出した光景がよみがえった。


十五歳の春。


大聖堂の前に揺れていた色布。


甘い蜂蜜の匂い。


――来年でいい。


そう思って、馬車へ乗った。


あれから三年。


今年もまた、「いつか」と思うのだろうか。


エレナは教本へ視線を戻した。


北方語を覚えることは無駄ではない。きっと役に立つし、いつか外国使節と話すことだってあるかもしれない。


勉強しておけば、困ることはない。


だから、この三刻も何か役に立つことへ使った方がいい。


その方が正しい。


そう思った。


けれど、頁の上に並ぶ文字を見つめているうちに、ふと別の考えが浮かぶ。


――では、春祭りへ行くことは、何の役に立つのだろう。


答えは浮かばなかった。


たぶん、何の役にも立たない。


経歴にはならない。


誰かに褒められるわけでもない。


星が増えるわけでもない。


それでも。


行ってみたい。


エレナはしばらく教本を見つめてから、静かに閉じた。


「ミア」


「はい?」


侍女が顔を上げる。


「街へ出ます」


「街へ? どちらへ参りますか?」


一瞬だけ迷った。


口にすると、ひどく些細なことのように聞こえる。


それでも。


「春祭りへ」


ミアが目を丸くした。


「今から、ですか?」


「今から」


「ですが、三刻ほどしか……」


「三刻もあるわ」


言ってから、エレナ自身が少し驚いた。


いつもの自分なら、「三刻しかない」と思ったはずだった。


王宮用のドレスで出るわけにはいかない。


華美な装飾を外し、裕福な商家の娘にも見える程度の簡素な歩行着へ着替える。複雑に結い上げていた髪もほどき、帽子をかぶった。


星章も外した。


ミアが付き添い、侯爵家の護衛が一人、少し離れて歩く。


完全なお忍びというわけではない。


それでも、王宮にいるときよりずっと身軽だった。


王宮を出て通りを曲がり、三年前に馬車の窓越しから見た祭りの中へ足を踏み入れる。


蜂蜜を焼く甘い香り。


笛と太鼓の音。


呼び込みの声。


色とりどりの布。


大きな籠に積まれた果物。


子どもたちが笑いながら走り抜けていく。


人にぶつからないよう避けながら歩くことさえ、妙に楽しかった。


何かをしなければならないわけではない。


時間通りにどこかへ着かなければならないわけでもない。


エレナは露店を一つずつ眺めながら歩いた。


硝子細工。


革細工。


焼き菓子。


花飾り。


その人を見つけたのは、硝子細工の露店だった。


栗色の髪。


どこかで見た横顔。


「……リリア様?」


振り向いた少女も、目を丸くした。


「エレナ様?」


リリア・ベルモント子爵令嬢。


十五歳の春、《第二星位・ルクス》を授かり、母親に肩を抱かれて泣いていた少女。


十八歳になった今も、星位はあの日と変わらず《第二星位・ルクス》だった。


けれど。


楽しそうだった。


友人たちと笑い、片手に蜂蜜の焼き菓子を持ち、裾には少し泥が跳ねている。


そして硝子細工の小瓶を手に、店主と値段の交渉までしていた。


「こちら、もう少しお安くなりません?」


「お嬢さん、これ以上は無理ですよ」


「さっき隣のお店では――」


「そこはそこ、うちはうちです」


「まあ」


リリアが笑う。


その顔を見て、エレナはふと思った。


羨ましい。


自分でも驚いた。


三年前。


《第二星位・ルクス》を授かったリリアを見て、かわいそうだと思った。


悪意などなかった。


自分なら悲しいと思ったからだ。


それなのに今。


エレナは、ルクスの彼女を見て羨ましいと思っている。


「エレナ様も、お祭りへ?」


「ええ。少しだけ」


「珍しいですね」


「そうかしら」


「少なくとも私は、こういうところでお見かけしたことがありません」


「……初めて来たもの」


リリアが目を丸くした。


「本当に?」


「ええ」


「では、あれを食べましょう」


「何?」


「初めてなら必要です」


何に必要なのかは分からなかったが、気づけばエレナはリリアと一緒に焼き菓子の列へ並んでいた。


友人たちは別の露店へ行くというので、一時的に二人だけになる。


蜂蜜の焼き菓子を買い、一口食べる。


「……甘いわ」


「でしょう?」


「甘すぎない?」


「そこがいいんです」


リリアが笑った。


次は、見たことのない南方の果物。


露店の主人が「今が一番うまいよ」と言うので買ってみたが、一口かじったエレナは思わず顔をしかめた。


「酸っぱい」


リリアも食べ、同じように顔をしかめる。


それから笑った。


「これは失敗ですね」


失敗。


その言葉が、なぜか耳に残った。


何かを選ぶ。


失敗する。


それを笑う。


ただ、それだけ。


けれど、そんなことすらずいぶん長くしていない気がした。


二人は人混みから少し外れた噴水の縁に腰かけた。


リリアが硝子細工の包みを膝に置く。


少し迷ってから、エレナは尋ねた。


「リリア様」


「はい?」


「……《第二星位・ルクス》だったこと」


口にしたあとで、失礼だったかもしれないと思う。


それでも、もう止められなかった。


「今でも、気になる?」


リリアは少し驚いた顔をしたが、すぐに答えた。


「気になりますよ」


あまりにもあっさりしていた。


「そうなの?」


「たまに。十五のときなんて、三日泣きました」


「三日?」


「ええ」


そして、少しだけ顔をしかめる。


「皆が『星位だけがすべてじゃない』って慰めてくれるのも嫌でした」


エレナの胸が、ちくりと痛んだ。


あの日。


自分も同じことを思った。


口には出さなかった。


けれど、


星だけがすべてではない。


あなたにはあなたの良いところがある。


かわいそうに。


そう思っていた。


「では」


エレナは尋ねる。


「どうして今は……」


言葉を探す。


楽しそうなの?


そんな聞き方では、あまりにも失礼だと思った。


けれどリリアは、意味を察したらしい。


少し考えてから、


「飽きたんです」


と言った。


「……何に?」


「《第二星位・ルクス》のことばかり考えるのに」


エレナは瞬いた。


「飽きた?」


「ええ」


リリアは指を折りながら話し始めた。


「最初は、どうして私は《第二星位・ルクス》なのかとか、《第三星位・アステル》だったら違ったのかなとか、他の人が私をどう見ているのかなとか、ずっと考えていたんですけど」


そこで肩をすくめる。


「もう、いいかなって」


「もういい?」


「星は増えませんし」


あまりにもあっさり言うので、エレナは思わず笑った。


リリアも笑う。


それから彼女は、最近始めたことを話した。


陶芸。


「変な壺が六つできました」


「六つも?」


「一つくらいまともになるかと思ったんですけど、全部変でした」


「他には?」


「庭の隅で、薔薇を育ててみたんです」


「まあ。咲いたの?」


リリアは少しだけ遠い目をした。


「全部、枯れました」


「……全部?」


「全部です」


エレナは思わず笑った。


リリアも笑う。


「来月は叔母と海へ行くんです」


「海?」


思わず声が高くなった。


「はい。叔母が南方へ行くので、一緒に」


「いいわね」


言葉がすぐに出た。


リリアは嬉しそうに頷く。


「楽しみです」


エレナは何気なく尋ねた。


「陶芸は、まだ続けるの?」


「はい」


「でも……上手ではないのでしょう?」


リリアが瞬いた。


「そうですね」


「それでも?」


「……上手じゃないと、やってはいけないんですか?」


エレナは答えられなかった。


リリア自身も、何か深いことを言ったつもりはなさそうだった。


ただ、


「楽しいので」


と付け足した。


楽しい。


その言葉が、妙に眩しく感じられた。


しばらくして、エレナはまた尋ねる。


「リリア様は、結局」


「はい?」


「何になりたいの?」


リリアは今度こそ本気で考えた。


空を見る。


噴水を見る。


手元の硝子細工を見る。


それから、


「まだ決めてません」


と言った。


エレナは驚いた。


「決めてないの?」


「はい」


「不安ではない?」


「少しは」


そして首を傾げる。


「でも、決めなきゃいけません?」


エレナはまた答えられなかった。


少しして、今度は別のことを聞く。


「皆にどう思われるかは、気にならない?」


リリアが首を傾げた。


「皆?」


「ええ」


「誰です?」


エレナは口を開いた。


けれど、声が出なかった。


父。


母。


王妃。


同僚。


社交界。


神殿。


いろいろな顔が浮かぶ。


でも。


父は、辞めるかどうかは自分で決めろと言った。


母は、領地へ戻ってもいいと言った。


王妃に辞めたいと話したことすらない。


神殿も、エレナを責めてなどいない。


それなのに。


いつから自分は、それらを全部ひとまとめにして「皆」と呼ぶようになったのだろう。


十五歳の自分は、リリアをかわいそうだと思った。


そして今。


エレナは、《第二星位・ルクス》の彼女を羨ましいと思っている。


その事実を認めた瞬間。


胸の奥で何かが、静かにひび割れた。


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