6
数日後。
王妃の予定変更で、珍しく三刻ほど時間が空いた。
急にできた空白だった。
エレナは自室へ戻り、机の上に積んであった北方語の教本を開く。
せっかく時間ができたのだから、少しでも進めておこう。
一頁、二頁と読み進める。
けれど、文字はなかなか頭に入ってこなかった。
窓の外から、かすかに笛の音と人々の歓声が聞こえる。
エレナは顔を上げた。
春祭り。
まだ続いている。
その瞬間、数日前に思い出した光景がよみがえった。
十五歳の春。
大聖堂の前に揺れていた色布。
甘い蜂蜜の匂い。
――来年でいい。
そう思って、馬車へ乗った。
あれから三年。
今年もまた、「いつか」と思うのだろうか。
エレナは教本へ視線を戻した。
北方語を覚えることは無駄ではない。きっと役に立つし、いつか外国使節と話すことだってあるかもしれない。
勉強しておけば、困ることはない。
だから、この三刻も何か役に立つことへ使った方がいい。
その方が正しい。
そう思った。
けれど、頁の上に並ぶ文字を見つめているうちに、ふと別の考えが浮かぶ。
――では、春祭りへ行くことは、何の役に立つのだろう。
答えは浮かばなかった。
たぶん、何の役にも立たない。
経歴にはならない。
誰かに褒められるわけでもない。
星が増えるわけでもない。
それでも。
行ってみたい。
エレナはしばらく教本を見つめてから、静かに閉じた。
「ミア」
「はい?」
侍女が顔を上げる。
「街へ出ます」
「街へ? どちらへ参りますか?」
一瞬だけ迷った。
口にすると、ひどく些細なことのように聞こえる。
それでも。
「春祭りへ」
ミアが目を丸くした。
「今から、ですか?」
「今から」
「ですが、三刻ほどしか……」
「三刻もあるわ」
言ってから、エレナ自身が少し驚いた。
いつもの自分なら、「三刻しかない」と思ったはずだった。
王宮用のドレスで出るわけにはいかない。
華美な装飾を外し、裕福な商家の娘にも見える程度の簡素な歩行着へ着替える。複雑に結い上げていた髪もほどき、帽子をかぶった。
星章も外した。
ミアが付き添い、侯爵家の護衛が一人、少し離れて歩く。
完全なお忍びというわけではない。
それでも、王宮にいるときよりずっと身軽だった。
王宮を出て通りを曲がり、三年前に馬車の窓越しから見た祭りの中へ足を踏み入れる。
蜂蜜を焼く甘い香り。
笛と太鼓の音。
呼び込みの声。
色とりどりの布。
大きな籠に積まれた果物。
子どもたちが笑いながら走り抜けていく。
人にぶつからないよう避けながら歩くことさえ、妙に楽しかった。
何かをしなければならないわけではない。
時間通りにどこかへ着かなければならないわけでもない。
エレナは露店を一つずつ眺めながら歩いた。
硝子細工。
革細工。
焼き菓子。
花飾り。
その人を見つけたのは、硝子細工の露店だった。
栗色の髪。
どこかで見た横顔。
「……リリア様?」
振り向いた少女も、目を丸くした。
「エレナ様?」
リリア・ベルモント子爵令嬢。
十五歳の春、《第二星位・ルクス》を授かり、母親に肩を抱かれて泣いていた少女。
十八歳になった今も、星位はあの日と変わらず《第二星位・ルクス》だった。
けれど。
楽しそうだった。
友人たちと笑い、片手に蜂蜜の焼き菓子を持ち、裾には少し泥が跳ねている。
そして硝子細工の小瓶を手に、店主と値段の交渉までしていた。
「こちら、もう少しお安くなりません?」
「お嬢さん、これ以上は無理ですよ」
「さっき隣のお店では――」
「そこはそこ、うちはうちです」
「まあ」
リリアが笑う。
その顔を見て、エレナはふと思った。
羨ましい。
自分でも驚いた。
三年前。
《第二星位・ルクス》を授かったリリアを見て、かわいそうだと思った。
悪意などなかった。
自分なら悲しいと思ったからだ。
それなのに今。
エレナは、ルクスの彼女を見て羨ましいと思っている。
「エレナ様も、お祭りへ?」
「ええ。少しだけ」
「珍しいですね」
「そうかしら」
「少なくとも私は、こういうところでお見かけしたことがありません」
「……初めて来たもの」
リリアが目を丸くした。
「本当に?」
「ええ」
「では、あれを食べましょう」
「何?」
「初めてなら必要です」
何に必要なのかは分からなかったが、気づけばエレナはリリアと一緒に焼き菓子の列へ並んでいた。
友人たちは別の露店へ行くというので、一時的に二人だけになる。
蜂蜜の焼き菓子を買い、一口食べる。
「……甘いわ」
「でしょう?」
「甘すぎない?」
「そこがいいんです」
リリアが笑った。
次は、見たことのない南方の果物。
露店の主人が「今が一番うまいよ」と言うので買ってみたが、一口かじったエレナは思わず顔をしかめた。
「酸っぱい」
リリアも食べ、同じように顔をしかめる。
それから笑った。
「これは失敗ですね」
失敗。
その言葉が、なぜか耳に残った。
何かを選ぶ。
失敗する。
それを笑う。
ただ、それだけ。
けれど、そんなことすらずいぶん長くしていない気がした。
二人は人混みから少し外れた噴水の縁に腰かけた。
リリアが硝子細工の包みを膝に置く。
少し迷ってから、エレナは尋ねた。
「リリア様」
「はい?」
「……《第二星位・ルクス》だったこと」
口にしたあとで、失礼だったかもしれないと思う。
それでも、もう止められなかった。
「今でも、気になる?」
リリアは少し驚いた顔をしたが、すぐに答えた。
「気になりますよ」
あまりにもあっさりしていた。
「そうなの?」
「たまに。十五のときなんて、三日泣きました」
「三日?」
「ええ」
そして、少しだけ顔をしかめる。
「皆が『星位だけがすべてじゃない』って慰めてくれるのも嫌でした」
エレナの胸が、ちくりと痛んだ。
あの日。
自分も同じことを思った。
口には出さなかった。
けれど、
星だけがすべてではない。
あなたにはあなたの良いところがある。
かわいそうに。
そう思っていた。
「では」
エレナは尋ねる。
「どうして今は……」
言葉を探す。
楽しそうなの?
そんな聞き方では、あまりにも失礼だと思った。
けれどリリアは、意味を察したらしい。
少し考えてから、
「飽きたんです」
と言った。
「……何に?」
「《第二星位・ルクス》のことばかり考えるのに」
エレナは瞬いた。
「飽きた?」
「ええ」
リリアは指を折りながら話し始めた。
「最初は、どうして私は《第二星位・ルクス》なのかとか、《第三星位・アステル》だったら違ったのかなとか、他の人が私をどう見ているのかなとか、ずっと考えていたんですけど」
そこで肩をすくめる。
「もう、いいかなって」
「もういい?」
「星は増えませんし」
あまりにもあっさり言うので、エレナは思わず笑った。
リリアも笑う。
それから彼女は、最近始めたことを話した。
陶芸。
「変な壺が六つできました」
「六つも?」
「一つくらいまともになるかと思ったんですけど、全部変でした」
「他には?」
「庭の隅で、薔薇を育ててみたんです」
「まあ。咲いたの?」
リリアは少しだけ遠い目をした。
「全部、枯れました」
「……全部?」
「全部です」
エレナは思わず笑った。
リリアも笑う。
「来月は叔母と海へ行くんです」
「海?」
思わず声が高くなった。
「はい。叔母が南方へ行くので、一緒に」
「いいわね」
言葉がすぐに出た。
リリアは嬉しそうに頷く。
「楽しみです」
エレナは何気なく尋ねた。
「陶芸は、まだ続けるの?」
「はい」
「でも……上手ではないのでしょう?」
リリアが瞬いた。
「そうですね」
「それでも?」
「……上手じゃないと、やってはいけないんですか?」
エレナは答えられなかった。
リリア自身も、何か深いことを言ったつもりはなさそうだった。
ただ、
「楽しいので」
と付け足した。
楽しい。
その言葉が、妙に眩しく感じられた。
しばらくして、エレナはまた尋ねる。
「リリア様は、結局」
「はい?」
「何になりたいの?」
リリアは今度こそ本気で考えた。
空を見る。
噴水を見る。
手元の硝子細工を見る。
それから、
「まだ決めてません」
と言った。
エレナは驚いた。
「決めてないの?」
「はい」
「不安ではない?」
「少しは」
そして首を傾げる。
「でも、決めなきゃいけません?」
エレナはまた答えられなかった。
少しして、今度は別のことを聞く。
「皆にどう思われるかは、気にならない?」
リリアが首を傾げた。
「皆?」
「ええ」
「誰です?」
エレナは口を開いた。
けれど、声が出なかった。
父。
母。
王妃。
同僚。
社交界。
神殿。
いろいろな顔が浮かぶ。
でも。
父は、辞めるかどうかは自分で決めろと言った。
母は、領地へ戻ってもいいと言った。
王妃に辞めたいと話したことすらない。
神殿も、エレナを責めてなどいない。
それなのに。
いつから自分は、それらを全部ひとまとめにして「皆」と呼ぶようになったのだろう。
十五歳の自分は、リリアをかわいそうだと思った。
そして今。
エレナは、《第二星位・ルクス》の彼女を羨ましいと思っている。
その事実を認めた瞬間。
胸の奥で何かが、静かにひび割れた。




