5
王宮へ戻ると、エレナは思っていた以上に普通に迎えられた。
「再星はどうでした?」
最初にそう尋ねてきたのは、同僚の令嬢だった。
エレナはいつも通りに笑う。
「《第四星位・セレスティア》でしたわ」
「あら……」
ほんの一瞬、間があった。
けれど相手はすぐに微笑んだ。
「でも、《第四星位・セレスティア》でも十分素晴らしいですもの」
でも。
十分。
その二つの言葉だけが、妙に耳に残った。
昨日まで、誰もエレナに「《第四星位・セレスティア》でも十分」などと言わなかった。
《第四星位・セレスティア》なんて、すごい。
そう言われていたはずなのに。
「結果はどうでした?」
また別の人に聞かれる。
「変わりませんでした」
「まあ。でも、再星に選ばれただけでも素晴らしいものですわ」
また、でも。
エレナは笑って礼を言った。
相手に悪意がないことくらい分かっている。慰めようとしてくれているのだ。
それなのに、胸の奥が少しずつ固くなっていった。
廊下を歩いていると、少し離れたところから声が聞こえた。
「あれだけ期待されていましたものね」
エレナの足が一瞬止まる。
胸が冷たくなった。
けれど、
「ええ。まさか、あの劇団が公演を中止するなんて」
続いたのは、まったく別の話だった。
エレナは何事もなかったように歩き出した。
恥ずかしい。
誰も自分の話などしていない。
それなのに、別の場所で「意外でしたわね」と聞こえれば振り返りそうになり、誰かが小さく笑えば、自分のことではないかと思ってしまう。
そのたびに違った。
誰も見ていない。
それなのに、世界中が自分を見ているような気がした。
セシリアだけは、結果を聞かなかった。
昼頃、いつものようにエレナの隣へ座ると、
「朝から何か食べた?」
と聞いた。
「……食べたわ」
「嘘」
「少しは」
「座って」
小さな焼き菓子を差し出され、エレナは黙って受け取った。
一口かじる。
味があまりしなかった。
しばらく二人とも何も言わなかったが、やがてエレナの方から口を開いた。
「《第四星位・セレスティア》だったわ」
「そう」
「……それだけ?」
セシリアは首を傾げた。
「他に何て言ってほしいの?」
エレナは少しだけ笑った。
「そうね」
それでよかったのだと思う。
「残念だったわね」と言われても嫌だっただろう。
「十分すごい」と言われても嫌だった。
「また次があるかもよ」と言われれば、もっと嫌だった。
では、自分は何と言ってほしかったのだろう。
分からなかった。
数日後。
二人で庭園を歩いていると、セシリアがふいに言った。
「ねえ」
「何?」
「この前のこと」
エレナは横を見る。
「私が『王宮を辞めたりしないわよね』って聞いたでしょう」
胸が小さく跳ねた。
覚えていたのか。
「ええ」
「あなた、『そんなわけない』って言ったけど」
セシリアは前を向いたまま続ける。
「本当?」
エレナは答えなかった。
春の風が、庭園の木々を揺らしている。
「……分からないわ」
ようやく出た言葉は、それだった。
セシリアは驚かなかった。
「そう」
「でも」
エレナは立ち止まる。
「今は辞められない」
今度はセシリアが足を止めた。
「どうして?」
答えはすぐに浮かんだ。
けれど、言いたくなかった。
口にすれば、とても小さなことに聞こえる気がした。
それでも。
「……逃げたみたいじゃない」
セシリアが眉を寄せる。
「逃げた?」
「再星で《第五星位・エンピレオン》になれなかったでしょう」
「それと王宮を辞めることに、何の関係があるの?」
「関係ないわ」
すぐに答えた。
関係ない。
そのはずだった。
だからこそ、自分でも嫌になる。
「でも、今辞めたら」
言葉を探す。
「きっと、そう見えるでしょう?」
「誰に?」
エレナは黙った。
社交界。
同僚。
神殿。
知人。
いくつもの顔が浮かんだ。
けれど、その誰かが本当にそう思っているのかは分からない。
セシリアはしばらく待っていたが、エレナが答えないので、
「私は思わないけど」
とだけ言った。
それ以上は何も聞かなかった。
その夜。
エレナは一人で机に向かっていた。
予定表を開く。
次の社交季。
外国使節の来訪。
王妃主催の夜会。
秋の式典。
予定はいくらでもあった。
その余白にペンを置き、少し迷ってから一行だけ書く。
――もう一年。
あと一年。
次の社交季まで働こう。
もう少し目に見える仕事をして、誰かに認められて、再星のことなど誰も覚えていない頃に辞めればいい。
そうすれば、
「《第五星位・エンピレオン》になれなかったから辞めた」
とは思われない。
自分自身だって、そう思わずに済む。
あと一年。
たった一年だ。
そう考えると、胸が少しだけ軽くなった。
これでいい。
今度こそ。
そのとき、机の脇に置かれた本が目に入った。
『南方諸国紀行――海と砂漠の街々』
まだ最後まで読んでいない。
一年くらい。
海は逃げない。
そう思った。
そして、なぜかその言葉に覚えがある気がした。
十五歳の春。
大聖堂を出たところから、春祭りが見えた。
揺れる色布。
甘い蜂蜜の匂い。
旅芸人の音楽。
見たことのない果物。
見てみたい。
そう思った。
けれど、祝いの客が待っていた。
来年でいい。
そう思って馬車へ乗った。
あれから三年。
エレナは一度も、春祭りへ行っていない。
机の上には、
――もう一年。
という文字が残っている。
エレナは、しばらくそれを見つめた。




