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五つ目の星が灯らなくても ~最高位になれなかった侯爵令嬢が自分の人生を選ぶまで~  作者: 水瀬める


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退任までの日々は、思っていたよりずっと普通に過ぎていった。


引き継ぎをし、書類を整理し、次の担当者へ王妃の予定や各国使節の好みを伝える。誰に何を渡したか、どこまで終わっているか、抜けがないよう一つずつ確認した。


辞めると決めたからといって、急に王宮が嫌いになるわけではない。


むしろ終わりが見えてから初めて、好きだったところが目につくようになった。


朝の静かな回廊。


窓から差し込む光。


忙しい日の昼に、セシリアとこっそり食べた焼き菓子。


王妃が書類を読みながら、何気なく「ありがとう」と言ってくれたこと。


これで最後なのだと思うと、少し寂しかった。


そのたびに、胸の中で小さな声がする。


――ほら。


――やっぱり、辞めない方がよかったのでは。


エレナは、その声を消そうとはしなかった。


寂しい。


惜しい。


いつか戻りたくなるかもしれない。


それでも、辞める。


その二つは同時にあってもいいのだと、今は思えた。


噂も、当然流れた。


「再星がきっかけなのでしょう?」


「《第五星位・エンピレオン》になれなかったから?」


「意外ですわ。あれほど順調でしたのに」


実際に耳へ入ってくることもあった。


そのたびに、エレナは訂正したくなった。


違います。


私は前から、ここにずっといることに違和感があった。


王妃から、新しい役目まで提示されていた。


能力がなかったから辞めるのではない。


追われたわけでもない。


一人ずつ捕まえて説明したいくらいだった。


けれど、王妃の前で自分が口にした言葉を思い出す。


――その人たちに、私の選択が正しいと思ってもらうためだけに、私のもう一年を差し出す方が、もっと嫌です。


なら、辞めたあとまで誰かの中にいる自分を訂正するために、時間を使わなくてもいい。


そう思った。


もちろん、完全に気にならなくなったわけではない。


聞こえるたびに、少し傷つく。


でも。


少し傷ついたままでも、歩いていけることはあるらしかった。


最後の日。


仕事を終えたエレナは、自分の机を見た。


二年間使った机には、紙も本も私物も、もうほとんど残っていない。


引き出しを開けると、四つ星の星章があった。


しばらく見つめる。


十五歳の春は、


――四つもある。


と思った。


十八歳の春は、


――ひとつ足りない。


そう思った。


そして今。


四つ。


ただ、四つだ。


多いとも、足りないとも思わなかった。


エレナは星章を手に取り、鞄へしまった。


「終わった?」


後ろから声がした。


振り向くと、セシリアが扉にもたれている。


「ええ」


「本当に辞めるのね」


「今さら?」


「今さら」


二人で笑った。


セシリアが部屋へ入ってくる。


「それで、領地へ戻ったあと何するの?」


以前なら、少し身構えた質問だった。


何をするの。


何になりたいの。


次はどこへ行くの。


答えがなければ、いけないような気がしていた。


けれど今は、


「まだ決めてないわ」


それだけだった。


セシリアが瞬く。


「本当に?」


「本当に」


エレナは笑った。


「でも、海は見たい」


「それは進路?」


「たぶん違うわね」


「何のために行くの?」


エレナは少し考えた。


役に立つから。


経験になるから。


将来につながるから。


そんな答えを探しかけて、やめる。


「見てみたいから」


口にしてみれば、拍子抜けするほど簡単だった。


セシリアは一瞬だけ黙り、


「それ、いいわね」


と言った。


その言葉が、なぜかとても嬉しかった。


数日後。


エレナは侯爵領へ向かう馬車に乗っていた。


父も母も、辞めると伝えたときは驚いた。


けれど、反対はしなかった。


母は、


「しばらく、ゆっくりすればいいわ」


と言い、父も、


「急いで次を決める必要はない」


と頷いた。


それから少し笑って、


「まだ十八なのだから」


と言った。


十八。


まだ十八。


そうなのだろう。


けれど、エレナは年齢だけの問題ではない気がしていた。


十八だから迷ってもいい、というだけではない。


たぶん、二十八でも三十八でも。


この先の人生すべてを決めてからでなければ、一歩も動いてはいけないわけではない。


何になるのか。


どこで暮らすのか。


何を仕事にするのか。


全部は分からなくても、今日どちらへ進むかくらいは、自分で決めていい。


王都を出て、二日目。


街道沿いの宿で馬を休ませていると、ミアが少し落ち着かない様子でエレナの前にやってきた。


「お嬢様」


「何?」


「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「ええ」


ミアは鞄から一枚の地図を取り出し、机の上へ広げた。


エレナは首を傾げる。


「これは?」


「旅程です」


「旅程なら、もう決まっているでしょう?」


「はい。本来でしたら」


ミアの指が、王都から西へ続く街道をなぞる。


その先には、ルーヴェル侯爵領。


けれど途中で指は大きく南へ曲がり、地図の端に描かれた海まで伸びていった。


エレナの目が止まる。


「……海?」


「はい」


ミアが微笑んだ。


「お嬢様、以前からご覧になりたいと仰っていたでしょう?」


エレナは地図を見る。


侯爵領へ向かう道とは、まるで方向が違う。


「ここからでは、ずいぶん遠いのではなくて?」


「遠いです」


ミアはあっさり答えた。


「ここから港町へ向かい、その後侯爵領へ戻りますと、移動だけでも三週間ほどかかります」


「三週間?」


思わず聞き返す。


「はい」


三週間。


それはもう、寄り道とは呼べない。


「そんな旅、急にはできないでしょう?」


「ですので、準備してあります」


エレナが顔を上げる。


「準備?」


「宿場と馬の手配、護衛の増員。港町までの道も確認済みです」


「ミア」


「はい」


「いつから?」


ミアは一瞬だけ視線を泳がせた。


「お嬢様が春祭りからお戻りになった頃からです」


「そんな前から?」


「海のお話をなさるときだけ、少し楽しそうでしたので」


エレナは言葉を失った。


そんなこと、自分では気づいていなかった。


「お父様とお母様にも、すでに?」


「はい。お嬢様がお望みなら、日程のことは気にせず、好きなだけゆっくりしてくるように、と」


エレナはしばらく何も言えなかった。


「もちろん、行くと決まっているわけではありません」


ミアは地図をエレナの方へ向ける。


「私が勝手に、行けるようにしておいただけです」


「どうして?」


ミアは少し考えてから、困ったように笑った。


「お嬢様は、行きたいと思ってから、行けない理由を探すのがとてもお上手ですから」


エレナは目を瞬く。


「……ずいぶんな言い方ね」


「長くお仕えしておりますので」


二人とも少し笑った。


「ですから今回は、先に行けない理由を少し減らしておこうかと」


エレナは地図を見る。


西へ進めば、予定通り明日の夕方には侯爵領へ着く。


南へ向かえば、移動だけで三週間。


そのあと海辺に何日いるのかは、まだ決めていない。


三週間。


これまでのエレナなら、きっとすぐに答えが出た。


そこまでする必要があるだろうか。


海は逃げない。


またいつか、もっと都合のいいときに行けばいい。


三週間あれば何冊本が読めるだろう。


どれだけ語学を学べるだろう。


領地へ戻れば、父や母の役に立つことだってある。


海を見たところで、星は増えない。


経歴にもならないし、資格が得られるわけでもない。誰かに褒められるわけでもない。


そのために、三週間。


エレナは地図の端に描かれた青い海を見つめた。


十歳の自分が見たがったもの。


十五歳の自分が、「いつか」と思ったもの。


十八歳になった今も、まだ本の中でしか知らないもの。


――いつか。


その言葉を、あと何回使うのだろう。


ミアは何も言わず、急かしもしない。


ただ待っている。


最後に決めるのは、エレナだった。


「……三週間なのよね」


「はい」


「それだけかけて行って、何の役にも立たないかもしれない」


ミアは少しだけエレナを見た。


「それでも、お嬢様は行きたいのでしょう?」


エレナは答えなかった。


代わりに、春祭りでリリアに言われたことを思い出す。


――上手じゃないと、やってはいけないんですか?


あのときも答えられなかった。


けれど今は。


答えを考える必要すらない気がした。


エレナはもう一度、地図を見る。


胸の奥で、いつもの声がする。


本当に?


三週間も?


今でなくてもいいでしょう。


海は逃げない。


それでも。


「行きたい」


声に出した。


ミアが見る。


エレナは今度は、はっきりと言った。


「海を見に行きたいわ」


ミアが微笑む。


「承知しました」


それだけだった。


正しいと言ってもらったわけではない。


この選択なら後悔しないと、誰かが保証してくれたわけでもない。


ただ、自分が行きたいと言った。


そして、行くことになった。


それだけだった。


宿を出ると、御者はいつもと違う道へ馬を向けた。


馬車がゆっくりと進み始める。


西ではなく、南へ。


エレナは窓を開けた。


春の風が吹き込み、きれいに整えられていた髪が少し崩れる。


ミアが反射的に手を伸ばした。


「お嬢様、お直しいたします」


一瞬迷ってから、エレナは首を振った。


「あとでいいわ」


そう言って、窓の外を見る。


胸元には星章をつけていない。


それでも、エレナが《第四星位・セレスティア》であることは変わらない。


五つ目の星は、最後まで灯らなかった。


そのことを、しばらくは悔しいと思うだろう。


誰かに褒められれば、これからも嬉しい。


評価されなければ、落ち込む日もある。


王宮を辞めたことを後悔する夜だってあるかもしれない。


あのまま残っていれば、もっと大きな仕事をしていたのではないか。


そう思う日も、きっと来る。


それでも。


未来の自分が、絶対に後悔しないと約束してくれるまで待ち続ける必要はない。


五つ目の星が灯らなくても。


何者かになってからでなくても。


誰かに「もう十分」と言ってもらわなくても。


選んでいい。


馬車は南へ走る。


しばらくして、ミアがふと尋ねた。


「お嬢様」


「何?」


「領地へお戻りになったあとのことは、もうお考えですか?」


エレナは窓の外を見る。


知らない道。


まだ見えない海。


そして、その先。


本当に何も決まっていない。


それでも今度は、それを間違った答えだとは思わなかった。


エレナは笑った。


「海を見てから考えるわ」






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