9
退任までの日々は、思っていたよりずっと普通に過ぎていった。
引き継ぎをし、書類を整理し、次の担当者へ王妃の予定や各国使節の好みを伝える。誰に何を渡したか、どこまで終わっているか、抜けがないよう一つずつ確認した。
辞めると決めたからといって、急に王宮が嫌いになるわけではない。
むしろ終わりが見えてから初めて、好きだったところが目につくようになった。
朝の静かな回廊。
窓から差し込む光。
忙しい日の昼に、セシリアとこっそり食べた焼き菓子。
王妃が書類を読みながら、何気なく「ありがとう」と言ってくれたこと。
これで最後なのだと思うと、少し寂しかった。
そのたびに、胸の中で小さな声がする。
――ほら。
――やっぱり、辞めない方がよかったのでは。
エレナは、その声を消そうとはしなかった。
寂しい。
惜しい。
いつか戻りたくなるかもしれない。
それでも、辞める。
その二つは同時にあってもいいのだと、今は思えた。
噂も、当然流れた。
「再星がきっかけなのでしょう?」
「《第五星位・エンピレオン》になれなかったから?」
「意外ですわ。あれほど順調でしたのに」
実際に耳へ入ってくることもあった。
そのたびに、エレナは訂正したくなった。
違います。
私は前から、ここにずっといることに違和感があった。
王妃から、新しい役目まで提示されていた。
能力がなかったから辞めるのではない。
追われたわけでもない。
一人ずつ捕まえて説明したいくらいだった。
けれど、王妃の前で自分が口にした言葉を思い出す。
――その人たちに、私の選択が正しいと思ってもらうためだけに、私のもう一年を差し出す方が、もっと嫌です。
なら、辞めたあとまで誰かの中にいる自分を訂正するために、時間を使わなくてもいい。
そう思った。
もちろん、完全に気にならなくなったわけではない。
聞こえるたびに、少し傷つく。
でも。
少し傷ついたままでも、歩いていけることはあるらしかった。
最後の日。
仕事を終えたエレナは、自分の机を見た。
二年間使った机には、紙も本も私物も、もうほとんど残っていない。
引き出しを開けると、四つ星の星章があった。
しばらく見つめる。
十五歳の春は、
――四つもある。
と思った。
十八歳の春は、
――ひとつ足りない。
そう思った。
そして今。
四つ。
ただ、四つだ。
多いとも、足りないとも思わなかった。
エレナは星章を手に取り、鞄へしまった。
「終わった?」
後ろから声がした。
振り向くと、セシリアが扉にもたれている。
「ええ」
「本当に辞めるのね」
「今さら?」
「今さら」
二人で笑った。
セシリアが部屋へ入ってくる。
「それで、領地へ戻ったあと何するの?」
以前なら、少し身構えた質問だった。
何をするの。
何になりたいの。
次はどこへ行くの。
答えがなければ、いけないような気がしていた。
けれど今は、
「まだ決めてないわ」
それだけだった。
セシリアが瞬く。
「本当に?」
「本当に」
エレナは笑った。
「でも、海は見たい」
「それは進路?」
「たぶん違うわね」
「何のために行くの?」
エレナは少し考えた。
役に立つから。
経験になるから。
将来につながるから。
そんな答えを探しかけて、やめる。
「見てみたいから」
口にしてみれば、拍子抜けするほど簡単だった。
セシリアは一瞬だけ黙り、
「それ、いいわね」
と言った。
その言葉が、なぜかとても嬉しかった。
数日後。
エレナは侯爵領へ向かう馬車に乗っていた。
父も母も、辞めると伝えたときは驚いた。
けれど、反対はしなかった。
母は、
「しばらく、ゆっくりすればいいわ」
と言い、父も、
「急いで次を決める必要はない」
と頷いた。
それから少し笑って、
「まだ十八なのだから」
と言った。
十八。
まだ十八。
そうなのだろう。
けれど、エレナは年齢だけの問題ではない気がしていた。
十八だから迷ってもいい、というだけではない。
たぶん、二十八でも三十八でも。
この先の人生すべてを決めてからでなければ、一歩も動いてはいけないわけではない。
何になるのか。
どこで暮らすのか。
何を仕事にするのか。
全部は分からなくても、今日どちらへ進むかくらいは、自分で決めていい。
王都を出て、二日目。
街道沿いの宿で馬を休ませていると、ミアが少し落ち着かない様子でエレナの前にやってきた。
「お嬢様」
「何?」
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ええ」
ミアは鞄から一枚の地図を取り出し、机の上へ広げた。
エレナは首を傾げる。
「これは?」
「旅程です」
「旅程なら、もう決まっているでしょう?」
「はい。本来でしたら」
ミアの指が、王都から西へ続く街道をなぞる。
その先には、ルーヴェル侯爵領。
けれど途中で指は大きく南へ曲がり、地図の端に描かれた海まで伸びていった。
エレナの目が止まる。
「……海?」
「はい」
ミアが微笑んだ。
「お嬢様、以前からご覧になりたいと仰っていたでしょう?」
エレナは地図を見る。
侯爵領へ向かう道とは、まるで方向が違う。
「ここからでは、ずいぶん遠いのではなくて?」
「遠いです」
ミアはあっさり答えた。
「ここから港町へ向かい、その後侯爵領へ戻りますと、移動だけでも三週間ほどかかります」
「三週間?」
思わず聞き返す。
「はい」
三週間。
それはもう、寄り道とは呼べない。
「そんな旅、急にはできないでしょう?」
「ですので、準備してあります」
エレナが顔を上げる。
「準備?」
「宿場と馬の手配、護衛の増員。港町までの道も確認済みです」
「ミア」
「はい」
「いつから?」
ミアは一瞬だけ視線を泳がせた。
「お嬢様が春祭りからお戻りになった頃からです」
「そんな前から?」
「海のお話をなさるときだけ、少し楽しそうでしたので」
エレナは言葉を失った。
そんなこと、自分では気づいていなかった。
「お父様とお母様にも、すでに?」
「はい。お嬢様がお望みなら、日程のことは気にせず、好きなだけゆっくりしてくるように、と」
エレナはしばらく何も言えなかった。
「もちろん、行くと決まっているわけではありません」
ミアは地図をエレナの方へ向ける。
「私が勝手に、行けるようにしておいただけです」
「どうして?」
ミアは少し考えてから、困ったように笑った。
「お嬢様は、行きたいと思ってから、行けない理由を探すのがとてもお上手ですから」
エレナは目を瞬く。
「……ずいぶんな言い方ね」
「長くお仕えしておりますので」
二人とも少し笑った。
「ですから今回は、先に行けない理由を少し減らしておこうかと」
エレナは地図を見る。
西へ進めば、予定通り明日の夕方には侯爵領へ着く。
南へ向かえば、移動だけで三週間。
そのあと海辺に何日いるのかは、まだ決めていない。
三週間。
これまでのエレナなら、きっとすぐに答えが出た。
そこまでする必要があるだろうか。
海は逃げない。
またいつか、もっと都合のいいときに行けばいい。
三週間あれば何冊本が読めるだろう。
どれだけ語学を学べるだろう。
領地へ戻れば、父や母の役に立つことだってある。
海を見たところで、星は増えない。
経歴にもならないし、資格が得られるわけでもない。誰かに褒められるわけでもない。
そのために、三週間。
エレナは地図の端に描かれた青い海を見つめた。
十歳の自分が見たがったもの。
十五歳の自分が、「いつか」と思ったもの。
十八歳になった今も、まだ本の中でしか知らないもの。
――いつか。
その言葉を、あと何回使うのだろう。
ミアは何も言わず、急かしもしない。
ただ待っている。
最後に決めるのは、エレナだった。
「……三週間なのよね」
「はい」
「それだけかけて行って、何の役にも立たないかもしれない」
ミアは少しだけエレナを見た。
「それでも、お嬢様は行きたいのでしょう?」
エレナは答えなかった。
代わりに、春祭りでリリアに言われたことを思い出す。
――上手じゃないと、やってはいけないんですか?
あのときも答えられなかった。
けれど今は。
答えを考える必要すらない気がした。
エレナはもう一度、地図を見る。
胸の奥で、いつもの声がする。
本当に?
三週間も?
今でなくてもいいでしょう。
海は逃げない。
それでも。
「行きたい」
声に出した。
ミアが見る。
エレナは今度は、はっきりと言った。
「海を見に行きたいわ」
ミアが微笑む。
「承知しました」
それだけだった。
正しいと言ってもらったわけではない。
この選択なら後悔しないと、誰かが保証してくれたわけでもない。
ただ、自分が行きたいと言った。
そして、行くことになった。
それだけだった。
宿を出ると、御者はいつもと違う道へ馬を向けた。
馬車がゆっくりと進み始める。
西ではなく、南へ。
エレナは窓を開けた。
春の風が吹き込み、きれいに整えられていた髪が少し崩れる。
ミアが反射的に手を伸ばした。
「お嬢様、お直しいたします」
一瞬迷ってから、エレナは首を振った。
「あとでいいわ」
そう言って、窓の外を見る。
胸元には星章をつけていない。
それでも、エレナが《第四星位・セレスティア》であることは変わらない。
五つ目の星は、最後まで灯らなかった。
そのことを、しばらくは悔しいと思うだろう。
誰かに褒められれば、これからも嬉しい。
評価されなければ、落ち込む日もある。
王宮を辞めたことを後悔する夜だってあるかもしれない。
あのまま残っていれば、もっと大きな仕事をしていたのではないか。
そう思う日も、きっと来る。
それでも。
未来の自分が、絶対に後悔しないと約束してくれるまで待ち続ける必要はない。
五つ目の星が灯らなくても。
何者かになってからでなくても。
誰かに「もう十分」と言ってもらわなくても。
選んでいい。
馬車は南へ走る。
しばらくして、ミアがふと尋ねた。
「お嬢様」
「何?」
「領地へお戻りになったあとのことは、もうお考えですか?」
エレナは窓の外を見る。
知らない道。
まだ見えない海。
そして、その先。
本当に何も決まっていない。
それでも今度は、それを間違った答えだとは思わなかった。
エレナは笑った。
「海を見てから考えるわ」




