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十八歳の春。
エレナは、王妃付き女官として二年目を迎えていた。
高位貴族の子女が王宮に仕えることは、この国では珍しくない。名誉職としての側面もあるが、れっきとした宮廷職であり、俸給も出る。
エレナが王宮へ上がったのは十六歳のときだった。
礼法、歴史、外交、舞踏、語学。
必要とされたものは、何でも覚えた。
誰と誰の仲が悪いか。どの伯爵夫人が百合の香りを嫌うか。どの国の使節が乳製品を口にしないか。
一度聞けば、ほとんど忘れなかった。
「さすがエレナ様」
何度、その言葉を聞いただろう。
最初は嬉しかった。
今だって、嬉しくないわけではない。
ただ最近、その言葉を聞くたびに、なぜか少しだけ息苦しくなることがあった。
理由は、自分でもよく分からない。
「エレナ、疲れた顔してる」
横から声をかけられた。
セシリア・アルヴェーン伯爵令嬢。
十五歳になる前からの友人で、王宮へ上がったのも同じ年だ。王妃付きの令嬢たちの中で、エレナが唯一「疲れた」と口にできる相手でもある。
「失礼ね」
「図星でしょう?」
「……少しだけ」
セシリアは笑った。
それから、何でもないことのように言う。
「ねえ。エレナ、王宮を辞めたりしないわよね?」
一瞬、胸がどくりと鳴った。
「……どうして急に?」
「なんとなく。最近、前より楽しそうじゃないでしょう」
セシリアはエレナの顔を覗き込んだ。
「だから、ちょっと気になっただけ」
「何それ」
エレナは笑った。
「そんなわけないじゃない」
「ならいいけど」
セシリアも笑い、それきり話題を変えた。
けれど、エレナの中にはその言葉だけが残った。
――王宮を辞める。
そんなこと、考えていたつもりはなかった。
いや。
本当に?
春の社交季が終わったら。
十八になったら。
大きな行事が片づいたら。
いつの間にか、何度も「そのあと」のことを考えていた。
けれど、その先で何をするのかまでは考えていない。
ただ、ここにずっといる自分を想像すると、なぜか胸が重くなった。
王妃は公正で、同僚にも恵まれている。
理不尽に叱責されることもなければ、耐え難いほど忙しいわけでもない。任された仕事はきちんとこなしているし、誰かの役に立っている実感だってある。
エレナが先に気づいたことで、誰かが困らずに済むこともあった。
自分の働きが王妃の役に立てば誇らしいし、同僚から礼を言われれば嬉しい。
けれど、エレナでなければできない仕事なのかと問われれば、そうでもない気がした。
もし明日、自分が王宮からいなくなっても、最初は少し困るかもしれない。引き継ぎも必要だろう。
それでも、やがて誰かが同じ席に座る。
そして王宮は、何事もなかったように回っていく。
それが嫌なわけではない。
仕事とは、きっとそういうものだ。
誰か一人がいなくなっただけで止まってしまう方がおかしい。
ただ、そう思うと、ときどき分からなくなった。
――私は、なぜここにいるのだろう。
王宮が嫌いなわけではない。
けれど、好きなのかと聞かれると、それも違う気がする。
朝、目を覚ます。
身支度を整えて王宮へ行き、昨日と同じ廊下を歩く。予定を確認し、誰かが困らないよう先回りをして、一日を終える。
それを明日も、来月も、来年も。
五年後も。
そうやって続いていく自分を想像すると、胸の奥に名前のつかない重さが残った。
――私は、いつまでこれをするのだろう。
そう思うことがあった。
けれど、仕事とはそもそもそういうものなのではないか。
誰もが朝起きるのを楽しみにするほど好きな仕事をしているわけではないし、やりたいことだけをして生きているわけでもない。
楽しくない。
何となく違う気がする。
そんな理由で辞めるなんて、あまりにも子どもじみている気がした。
仕事に楽しさを求めること自体が、贅沢なのかもしれない。
何かひどい目に遭っているわけでもない。
ここにいられない事情があるわけでもない。
むしろ、恵まれている。
それなら、何がそんなに嫌なのだろう。
考えるほど、自分でも分からなくなった。
ただ一つだけ。
ここにいたい、と強く思ったこともなかった。
王宮が嫌いなわけではない。
でも、自分のこれから何年もの時間をここへ渡したいと思えるほど、好きでもない。
では、他に何がしたいのか。
そう問われれば、それも分からなかった。
ここではない気がする。
でも、どこへ行きたいのかは分からない。
何になりたいのかも分からない。
それなのに、
――辞めます。
と言っていいのだろうか。
エレナには、それが分からなかった。
春の社交季が終わったら。
十八になったら。
大きな行事が片づいたら。
そうやって、何度も「そのあと」を作ってきた。
けれど、その日が来るたびに思う。
今でなくてもいいのではないか。
辞めるほど嫌なわけでもない。
次に何がしたいのかも決まっていない。
だったら、もう少し続けてもいい。
その繰り返しだった。
辞められない事情があるわけでもなかった。
母からは以前、
「そろそろ領地へ戻ってもいいのよ」
と言われている。
父も、
「お前は成人したのだから、続けるかどうかは自分で決めなさい」
と言った。
ルーヴェル侯爵家には二歳上の兄がおり、家督を継ぐのは兄だ。
エレナが家のために急いで婚姻する必要もない。この国では貴族女性の婚姻にも本人の同意が必要で、縁談はいくつか来ていたものの、エレナが乗り気でないため両親も話を進めていなかった。
金銭面にも、当面の不安はない。
二年間の俸給は、生活費を侯爵家が負担していたため大半が残っている。十八歳の成人時には、家から一定の成人財産も与えられた。
一生遊んで暮らせるほどではない。
けれど、半年や一年、何も決めずに立ち止まったところで困るわけではなかった。
辞められない理由は、金でもない。
家でもない。
結婚でもない。
では、何なのだろう。
エレナ自身にも分からなかった。
それでも翌朝になれば、いつも通り王宮へ向かうのだ。
その日の夕方。
王宮内の自室へ戻ると、取り寄せていた本が届いていた。
『南方諸国紀行――海と砂漠の街々』
頁を開く。
青い海。
白い港町。
巨大な帆船。
色鮮やかな市場。
エレナは海を見たことがない。
幼い頃、父に聞いたことがあった。
「海って、本当に地平線まで水なの?」
父は笑って、
「自分で見れば分かる」
と言った。
いつか見ようと思った。
頁をめくる。
南方の港では、夜になると数百の灯りがともるらしい。
海上から眺めれば、星が海へ落ちたように見えるという。
見てみたい。
そのとき、扉が叩かれた。
「エレナ様。明日の茶会について確認がございます」
エレナは本を閉じる。
「すぐ参ります」
本は逃げない。
海も逃げない。
あとで読めばいい。
いつか行けばいい。
その夜。
神殿から一通の封書が届いた。
白い封蝋には、五つの星を抱く女神の紋章。
エレナは封を切った。
そして、一行目を読んだところで動きを止めた。
――エレナ・ルーヴェル嬢を、《再星の儀》へ招く。




