第二章 風習
老人が去ったあとも、私はしばらくその場から動けなかった。
山の奥。
したけさまがいる場所。
老人の言葉は曖昧だった。
危険だから近づくな、でもなく。 祟りがあるからやめろ、でもない。
ただ、「昔からそうしてきた」
その言葉だけが妙に引っかかった。
人は本当に恐れているものほど、理由を説明できないのかもしれない。
私はもう一度、先ほどの祠へ目を向けた。
小さな木造の祠。
見た目だけなら、全国どこにでもあるような古い祠だった。
しかし、これだけは不自然だった。
誰も住んでいないように見える場所なのに、祠だけは新しい花が供えられ、綺麗に掃除されている。
「……ただの昔話、か」
私はそう呟きながら、カメラを構えた。
その時だった。
「写真を撮っているのかい?」
突然、横から声をかけられた。
振り返ると、先ほどとは別の老人が立っていた。
「あ、すみません。勝手に撮ってしまって」
「いや、構わんよ」
老人は笑った。
「この村なんて、撮るものなんて何もないだろう」
「そんなことないですよ。昔の雰囲気が残っていて、すごく興味深いです」
そう答えると、老人は少し嬉しそうな顔をした。
「そう言ってもらえるとありがたいな」
「この村は変わらんからね」
「昔からずっと、このままだ」
その言葉に、私は少し違和感を覚えた。
変わらない。
それは良い意味で使われることもある。
しかし、この村の場合は――
何かを変えてはいけないような。
そんな意味に聞こえた。
「もしよかったらわしの家で飯でも食っていかんかね?」
老人は唐突にそう提案してきた。
「お誘いは嬉しいですが、急に押しかけるのは悪いですよ…」
「構わん構わん、若者がこんな廃れた村を訪れてくれたのもなにかの縁だ。遠慮せずゆっくりしていってくれ」
「では、お言葉に甘えてご馳走になります。」
と私は返答した。
以前調査に行った村でも同じような事があった。
その時も村に若者が来るなんて珍しいという理由でご馳走になった。
私としても村の話を聞くよい機会だと思い、今回と同様に家に上げてもらったのだった。
老人が案内してくれた家は他の家同様に昔ながらの古びた小さな民家だった。家につくと老人と同い年ぐらいであろう老婆が出迎えてくれた。
「山奥のこんな村までよう来はった。今日はゆっくりしていってくれや」
と老婆は私を歓迎した。
この老婆は恐らく老人の嫁さんなのであろう。聞く話によると息子が一人いたが就職を機会に都会に出たそうだ。年に一度もかえってこんと嘆いていた。
老夫婦はどこまでも親切だった。話も弾み、笑顔も自然だ。それなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。理由はわからない。ただ、居心地がいいような悪いような、説明のできない感覚だけが残っていた。
ふと窓の方を見る。
日が落ち始めると、村の中から人の気配が消えているのがわかった。
さっきまで歩いていた道にも、誰の姿もない。
その静けさの中で、最初に小さな灯りが見えた。
丁度、先ほど写真に収めた祠の場所と一致する。
いや、よく見ると先ほどの祠より前の道にある祠にも火が灯っている。そして山まで等間隔で続く祠にも一つ一つ順番に火が灯っていくのだ。
ふと老人に尋ねてみた。
「誰かが毎日祠の蝋燭に火をつけて周るのですか?」
老人が答える。
「そうだよ、したけさまが迷わんように火で照らすんじゃ」
また、その名前だった。
「そういう風習が残っておるだけじゃがな」
と付け加えて老人が笑った。
それ以上、したけさまについて尋ねても、返ってくるのは「昔からそうしてきた」という言葉ばかりだった。
やがて老婆が食事の支度ができたと声をかけ、私たちは囲炉裏を囲んで夕食をとった。
山菜や川魚を使った素朴な料理だったが、どれも驚くほど美味しかった。
食事の最中も老人夫婦は都会へ出た息子の話や、昔の村の様子を穏やかに語ってくれた。
その姿はどこにでもいる優しい老夫婦そのものだった。
食事を終えると、老婆が客間に布団を敷いてくれた。
「夜は冷えるさかい、ゆっくり休みなはれ」
礼を言って布団に入る。
山奥の静けさは想像以上で、聞こえるのは虫の鳴き声と、ときおり風が木々を揺らす音だけだった。
疲れもあったのだろう。
私はいつの間にか眠りについていた。
――どれくらい眠っただろうか。
物音で目を覚ました。
時計を見ると、午前四時半。
まだ外は薄暗い。
障子の隙間から明かりが漏れている。
何気なく覗くと、老人夫婦は玄関先に立っていた。
二人は黙ったまま山の方を見つめている。
しばらく動かない。
やがて、まるで朝の挨拶でもするかのように、静かに頭を下げた。
一礼。
それだけだった。
しかし少しあたりを見渡すと家々の玄関先に人影が立ち、皆が同じ方向へ一礼している。
この老夫婦だけじゃない。この村のすべての人が同じ行動をとっている。
「村人全員が……?」
老人夫婦は頭を下げている。
周囲の家も頭を下げる。
その瞬間。
山で鳥が一斉に鳴き止んだ。
あたかも、なにかの儀式をしているかのような異様な光景だった。
しばらくすると、そのまま二人は何事もなかったように家へ戻ってくる。
起きてる私に気づいた老夫婦は少し驚いたような表情をした。
「すまない、起こしてしまったようじゃの」
と問いかける老人の言葉に少し被さるほど食い気味に私は
「今何をしに外に行ってたのですか?」
と問いかけた。
「何って?そんな特別なことでもないよ」
「毎朝の恒例行事じゃ」
「山に向かってお礼をするのが?」
「そうじゃ、したけさまへの、ごあいさつ」
「村人全員が同じ時間に?」
「もちろんじゃ、だれもさぼったりせん」
「なぜそのようなことを?」
「はて?昔から当たり前にしとるから考えたこともないねぇ、ねえ?ばあさん」
「左様でございます。毎日すること、若者言葉でルーティーンとでも言うんですかね?」
そう答える二人は本当にその行動の意味など考えていないように見えた。
むしろなぜそんなことを気にするのかと私を不思議に見てるようにも思えた。
老人夫婦との話を終えたあと、私はもう一度布団へ戻った。
眠れるはずがないと思っていた。
それでも、いつの間にか浅い眠りに落ちていたらしい。
「朝ごはん、できましたえ」
老婆の声で目を覚ます。
障子を開けると、外はすっかり明るくなっていた。
朝食をご馳走になり、改めて礼を伝えて家を出る。
頭の中には、夜明け前に見た光景が残り続けていた。
村人全員が山へ向かって一礼する。
あれは、この村では本当に当たり前のことなのだろうか。
老人夫婦だけがそう思っているとは考えにくい。
私は今日一日、村を歩きながら話を聞いてみることにした。
家を出てしばらく歩くと、畑で野菜を収穫している老婆の姿が目に入った。
「おはようございます」
「あら、お客さん。よう眠れましたか」
昨日どこかで私を見かけたのだろうか。
私のことを知ってる風だった。
私は畑の脇へ歩み寄る。
「少し、お話を聞いてもいいですか?」
「ええよ。わしで答えられることならねぇ」
私はカメラを肩に掛け直した。
「今朝なんですが、皆さん山に向かって頭を下げていましたよね。」
「ああ、毎朝やっとることじゃ。」
老婆は手を止めることなく答えた。
「したけさまへの挨拶ですか?」
「そうそう。」
まるで「今日はいい天気ですね」と言うような調子だった。
「どうして毎日お参りを?」
老婆は少しだけ手を止めた。
考え込むような仕草を見せたので、何か理由を話してくれるのかと思った。
しかし、返ってきたのは。
「……なんでやろねぇ。」
老婆は困ったように笑った。
「子どもの頃から毎日しとるから、考えたこともないわ。」
「したけさまって、神様なんですか?」
「さあねぇ。」
「じゃあ、何なんでしょう。」
「何なんやろ。」
老婆は首を傾げたあと、小さく笑った。
「昔からそうしてきた。それだけや。」
それだけ言うと、何事もなかったように野菜の収穫へ戻っていった。
私は礼を言ってその場を離れる。
歩きながら、胸の奥に言いようのない引っ掛かりが残った。
理由を知らない。
それは理解できる。
だが、この村では誰も理由を知ろうとすらしていない。
そのことが、私には何より不気味に思えた。
私は畑をあとにし、細い道を歩き続けた。
少し先から笑い声が聞こえてくる。
見ると、小学校低学年くらいの子どもが三人、石を積み上げて遊んでいた。
私に気づくと、興味深そうな目でこちらを見てくる。
「こんにちは。」
「こんにちはー。」
一番背の低い子が元気よく返事をし、残りの二人は積んでいた石をその場に置いてこちらへ駆け寄ってきた
私はしゃがみ込み、目線を合わせる。
「みんな、この村の子?」
「うん。」
「毎朝、山に向かってお辞儀してたよね。」
「あれ? お兄ちゃんもした?」
「いや、してないな。」
「せんとあかんで。」
まるで当たり前のことを教えるような口調だった。
「どうして?」
少年はきょとんとした顔になる。
「どうしてって?」
「なんで毎日するの?」
三人は顔を見合わせた。
やがて、一人が肩をすくめる。
「知らん。」
「先生も毎日するで。」
「お父ちゃんもお母ちゃんも。」
「みんなするもん。」
「したけさまって何なの?」
「したけさまは、したけさま。」
その返事に、私は思わず言葉を失った。
子どもたちと別れ、しばらく歩くと、軒先で洗濯物を干している女性を見つけた。
「すみません。少しお聞きしてもいいですか。」
「ええ。」
「毎朝、山へ向かってお辞儀をされていますよね。」
「はい。」
「どうしてなんですか。」
女性は少しだけ首を傾げた。
「どうして……。」
小さく笑う。
「昔からそうしてますから。」
「理由は?」
「知りません。」
そう言うと、女性は何事もなかったように洗濯物を干し始めた。
私は礼を言い、その場をあとにした。
私はその後も何人かの村人に同じ質問をしてまわった。
年代も性別も仕事もバラバラ。
しかし帰ってくる答えはみんな同じだった。
「昔からそうしている。」
その一言で、すべてが終わってしまう。
この村の者は誰一人として理由を知らなかった。 いや、正確には違う。 理由を知ろうとすらしていなかった。 「昔からそうしている。」 その一言だけで、誰もが思考を止めてしまう。 その異様さが、私の胸に重く残った。
このまま村人に話を聞いているだけでは埒が明かない。村の重役――例えば村長なら、何か知っているはずだ。
そう思った私は村長を訪ねることにした。




