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あの日の恋に、名前をつけるなら  作者: 衣乃


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第五話


 高校一年生、四月。


 入学式の日は、よく晴れていた。


 正門へ続く道には桜の木が並んでいて、風が吹くたびに薄い花びらがふわりと舞った。新しい制服はまだ少し硬くて、ローファーも足に馴染んでいない。歩くたびにかかとが気になったけれど、それすらも今日だけは特別なことのように思えた。


「クラス、一緒だといいね!」


 隣を歩く花音が、前を向いたまま弾むような声で言った。


 藤井花音とは中学からの同級生だった。明るくて、しっかりしている。

新しい学校に知っている子がいるだけで心強いのに、それが花音ならなおさらだった。


「ね!同じだったら最高だよね!」


 私がそう返すと、花音は嬉しそうに笑った。


 そんなふうに話しながら正門へ向かっていると、門の少し手前で人だかりができているのが見えた。最初は、先生が案内でもしているのかと思った。けれど近づいてみると、そこにいたのは先生ではなく、スーツを着た大人たちだった。


 数人の大人が、ひとりの男子生徒を囲むように立っている。名刺のようなものを差し出しながら、何かを一生懸命に話しかけていた。


「何あれ。もしかして、スカウト?」


 花音が小さく目を丸くする。


「スカウトって、こんなところに来るんだ……」


 私も思わず足を緩めた。


 囲まれている男子生徒は、私たちと同じ制服を着ていた。たぶん新入生だ。背が高くて、すらっとしていて、少し大人びて見える。大人たちに囲まれても騒ぐわけではなく、困ったように首を横に振っていた。


 きれいな顔をしている人だな、と思った。



「大変そうだね」


「ね。あ、掲示板あるよ!早くクラス見に行こうよ。」


「たしかに!」


 花音に促され、私はもう一度だけその男子生徒を横目で見てから、正門をくぐった。


 それが、私が初めて白石柊を見た瞬間だった。


     *


 掲示板の前は、すでに新入生でいっぱいだった。


 紙に書かれた名前を探すだけなのに、妙に緊張する。花音と並んで背伸びをしながら名簿を見て、先に声を上げたのは花音だった。


「あった!私、一年三組!」


「え、待って。私も探す!」


 私は慌てて三組の欄に視線を走らせる。


 早川柚葉。


 その文字を見つけた瞬間、思わず花音の腕を掴んだ。


「花音!私も三組!」


「やった!一緒じゃん!」


 二人で小さく跳ねるように喜んでいると、周りの子たちが少しだけこちらを見た。けれど、そんなことは気にならなかった。新しい学校、新しい教室、新しい人たち。その中に花音がいるだけで、さっきまでの緊張が一気に薄くなる。


 私たちはそのまま校舎へ入り、一年三組の教室へ向かった。


 教室の扉を開けると、まだ慣れない空気がそこにあった。真新しい机と椅子。黒板に貼られた座席表。少し緊張した顔で席につく子たち。もう近くの子と話し始めている子もいれば、静かにスマートフォンを見ている子もいる。


 私は座席表を確認して、自分の席に鞄を置いた。


 花音は私のすぐ後ろの席だった。


「近い!よかった」


「ほんとだ。これなら休み時間すぐ話せるね」


 花音とそんなことを言いながら席につくと、少しずつ周りの女子とも言葉を交わすようになった。


「早川さんって、中学どこだったの?」


「隣町の中学。花音とは同じ中学だったんだ」


「そうなんだ!実は私、全然友達いなくて…」


「じゃあお友達になろうよ!」


 話しているうちに、教室の空気が少しずつやわらかくなっていく。私は昔から、人と話すのが嫌いではなかった。初対面でも、相手が笑ってくれたらそれだけで嬉しくなる。


 ふと、窓際の一番後ろの席へ目を向けた時だった。


 さっき正門の前で大人たちに囲まれていた男子生徒が、そこに座っていた。


 教室の中は少しずつ賑やかになっているのに、彼の周りだけ静かに見える。窓の外では桜の花びらが揺れていて、彼はそれをぼんやり眺めていた。


「あ、朝の人だ」


 私が小さく言うと、後ろの席の花音も顔を上げる。


「ほんとだ。同じクラスなんだね」


「名前、分かる?」


「さっき名簿で見た感じだと、あの席は白石柊くんだったと思う」


「白石くん」


 私はその名前を、口の中で小さく繰り返した。


 白石柊。


 名前まで少しきれいだな、と思った。


 近くにいた女子たちも、同じように彼を気にしていた。


「ねえ、白石くんって中学の時から有名だったんでしょ?」


「聞いたことある。よく芸能事務所の人が校門前に来てたって」


「さっきもスーツの人に囲まれてたよね」


「普通にテレビ出ててもおかしくない顔してるもん」


 ひそひそ声のはずなのに、教室の空気が少し浮き立つ。


 私はもう一度、窓際の席を見た。


 たしかに、目立つ人だった。


 ただ座っているだけなのに、自然と視線が集まる。けれど本人はそれに気づいているのかいないのか、特に誰かと話すわけでもなく、静かに外を見ていた。


 かっこいい人だな、と思った。



 白石くんという、少し目立つクラスメイト。


 静かで、大人しそうな人。


 それが、入学式の日の白石柊に対する最初の印象だった。


     *


 それから一週間が経った。


 最初はぎこちなかった教室にも、少しずつ笑い声が増えてきた。花音とは相変わらず一緒にいることが多くて、近くの席の子たちともよく話すようになった。休み時間には誰かが机の近くに来て、好きな音楽の話や、中学の時の部活の話で盛り上がる。


 私は、新しい高校生活に少しずつ慣れ始めていた。


 白石くんは、相変わらず目立っていた。


 静かな人だと思っていたけれど、休み時間になれば男子たちと普通に話している。


 ただ、女子とはあまり話していなかった。


 誰かに声をかけられればちゃんと返すけれど、自分から距離を詰める感じではない。だから余計に、女子たちの間では少し特別な人みたいに扱われている。


  


 そんなある日の放課後。


 朝はあんなに晴れていたのに、授業が終わる頃には空が急に暗くなり、帰る時間には土砂降りになっていた。


 窓を叩く雨音が、教室の中まで響いてくる。


「うわ、最悪。めっちゃ降ってる」


「朝、晴れてたじゃん。傘持ってきてないんだけど」


「私も。親に迎え頼もうかな」


 クラスのあちこちから、困った声が上がる。


 私は鞄の中を探って、折り畳み傘を取り出した。


「私はこれあるから先帰るね。また明日!」


「柚葉もう帰るんだ。また明日ね〜」


 花音たちに手を振り、私は教室を出た。


 階段を降りて、一階の玄関へ向かう。雨のせいか、廊下はいつもより少し暗い。部活に行く生徒たちの声が遠くから聞こえるだけで、玄関のあたりは思ったより静かだった。


 下駄箱で靴を履き替え、鞄から折り畳み傘を出す。


 その時、扉のすぐ内側に立っている人に気づいた。


 白石くんだった。


 彼は鞄を持ったまま、外の雨をじっと見ていた。帰るわけでもなく、誰かを待っている様子でもない。ただ、降り続ける雨を前にして、少し困ったように立っている。


 もしかして、傘がないのかな。


 そう思った。


 同じクラスとはいえ、まだ話したことはない。急に声をかけたら驚かれるかもしれない。そもそも、白石くんの方は私の名前も知らないかもしれない。


 でも、このまま黙って通り過ぎるのも、なんとなく気になった。


 私は少しだけ迷ってから、彼の方へ歩いた。


「白石くん」


 声をかけると、彼がこちらを振り返った。


「……ん?」


 近くで見ると、やっぱりきれいな顔をしていると思った。けれど、今はそれよりも、少し驚いたような目が印象に残った。


「傘、ないの?」


 私が聞くと、白石くんは一瞬だけ黙って、それから気まずそうに視線を外した。


「……ない。朝、晴れてたから」


「だよね。急に降ってきたもんね」


 私は手元の折り畳み傘を見て、それから白石くんを見る。


「私、二つあるんだ。よかったらこれ使う?」


 白石くんは目を瞬かせた。


「二つ?」


「うん。教室のロッカーに置き傘があるの。だから、これは貸してあげる」


 本当は、この折り畳み傘でそのまま帰るつもりだった。


 でも、教室まで戻れば置き傘がある。少し面倒だけれど、それくらいなら大したことではない。目の前で困っているクラスメイトを置いて帰る方が、なんとなく落ち着かなかった。


「でも、悪い」


「いいよ。私、取りに戻ればいいだけだし」


「……ほんとに?」


「ほんとに。急いでるんでしょ?こんな雨の中走ったら、風邪ひくよ」


 私は半ば押しつけるように、折り畳み傘を差し出した。


 白石くんは少し戸惑った顔で傘を見て、それからゆっくり受け取った。


「……ありがとう。明日返す」


「うん。じゃあ、また明日ね」


 そう言って背を向けようとした時、後ろから小さく呼び止められた。


「あの」


 振り返ると、白石くんが傘を持ったまま、少し言いにくそうにしていた。


「……名前」


「え?」


「名前、聞いてもいい?」


 一瞬、きょとんとしてしまった。


 それから、思わず笑った。


「あ、そっか。私の名前、まだ知らなかったよね」


 私は自分を指さして、少しだけ大げさに言った。


「早川柚葉。白石くんと同じクラスメイトです」


 白石くんは、私の名前を確かめるようにゆっくり瞬きをした。


「早川、柚葉」


「うん」


「……ありがとう、早川」


「どういたしまして。風邪ひかないようにね。また明日」


 手を振ると、白石くんは少しだけ戸惑ったようにして、それでも小さく頷いた。


「……バイバイ、早川」


 私は教室へ置き傘を取りに戻った。



     *


 次の日の朝。


 教室に入ると、昨日までより少しだけ賑やかな空気が流れていた。


 最初は静かだった教室にも、少しずつそれぞれの居場所ができ始めている。女子たちは数人ずつの輪になって、昨日の雨の話や部活見学の話をしていた。


「おはよー、柚葉」


 後ろの席から花音が声をかけてくる。


「おはよう、花音」


 私も振り返って笑った。


 鞄を置いて、教科書を出そうとした時だった。


「早川」


 名前を呼ばれて顔を上げると、白石くんが立っていた。


 その手には、昨日貸した折り畳み傘がある。


「これ。昨日の傘」


「あ、ありがとう」


 私が受け取ると、白石くんはもう片方の手に持っていた小さな袋を、少しだけ迷うように差し出した。


「あと、これ」


「え?」


「昨日のお礼。大したものじゃないけど」


 袋の中には、キャンディがいくつか入っていた。でも、わざわざ用意してくれたのだと分かった瞬間、少しだけ驚いた。


「え、いいの?」


「うん。傘、助かったから」


「ありがとう。なんか、逆に気を遣わせちゃったね」


「いや」


 白石くんは短くそう言って、小さく首を横に振った。


 会話はそこで終わり、すぐに自分の席へ戻っていった。私は傘と小さなお菓子の袋を手にしたまま、少しだけその場に立っていた。


 

「え、今の白石くんだよね?」


 近くの席の女子が、すぐに身を乗り出してきた。


「柚葉、白石くんと話したの?」


「昨日、困ってそうだったから傘貸したんだ」


「傘貸したって、いーなー!」


「白石くんと普通に話せるの羨ましいー!」


「しかもお菓子もらってるし!」


 何人かの女子が、きゃあきゃあと小さく騒ぎ出す。


 私は慌てて手を振った。


「本当にただ傘貸しただけだよ?昨日、傘なさそうだったから」


「でも白石くん、女子とあんまり話さないじゃん」


「そうそう。声かけても短く返事するくらいだし」


「柚葉いーなー。」



 困って笑っていると、後ろから花音が少し身を乗り出した。


「まあまあ、みんな。柚葉はたぶん本当に何も考えてないよ」


「花音ちゃん、それフォローになってる?」


「なってるなってる。柚葉って、困ってる人いたら普通に声かけるタイプじゃん」


「それは、まあ……」


「でも白石くん、お菓子まで返してくれるのはちゃんとしてるね」


 花音はそう言って、白石くんの席の方をちらっと見た。


 白石くんはもう男子たちの方を向いていて、男子に何か話しかけられていた。さっきのことを気にしている様子はない。いつも通り、静かな顔でそこにいる。


「白石くんって、目立つけど、意外と真面目なのかもね」


 花音が小さく言う。


「そうだね」


 私は手元の小さな袋を見た。


 キャンディが、窓から入る朝の光を受けて少しだけきらっと光った。



 

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