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あの日の恋に、名前をつけるなら  作者: 衣乃


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第四話

柊に背を向けてから、伊織と私はしばらく無言で歩いた。


 会場へ戻る人たちとすれ違うたび、伊織はさりげなく私を内側へ寄せてくれた。人の流れにぶつからないように、私が俯いたままでも歩けるように、隣で歩幅を合わせてくれている。


 会場の方からは、まだ音楽と人の声が漏れていた。


 グラスの触れ合う音。誰かの笑い声。スタッフが関係者を呼ぶ声。さっきまで自分もあの中にいたはずなのに、今はもう戻れる気がしなかった。あの場所に戻れば、私はまた仕事の顔をしなければならない。何もなかったように笑って、挨拶をして、名刺を渡して、次の仕事につながる言葉を選ばなければならない。


 でも、今の私は、そのどれもできそうになかった。


 会場の入口が近づいたところで、伊織が足を止めた。


「今日は帰るか?」


 その声は、いつもより少しだけ低かった。


 私は小さく頷いた。


「……うん。今日は帰る」


 伊織は何も言わず、ホテルの正面玄関へ向かって歩き出した。


 外に出ると、夜風が頬に当たった。中にいた時より、空気が澄んでいる。車寄せには黒い車が何台も並び、スタッフが慣れた様子でドアを開けたり、名前を確認したりしていた。ドレス姿の女優が笑いながら車へ乗り込み、少し離れたところでは、関係者らしき男性たちがまだ名刺を交換している。


 世界は、何もなかったみたいに動いていた。


 そのことが、少しだけ不思議だった。


 伊織はエントランスの端で足を止め、ネクタイを緩めた。それから私の顔を覗き込む。いつもなら、どこかに軽さを残した顔で笑うのに、今日の伊織は違った。


「無理すんなよ」


 でも、その一言で、張りつめていたものが少し緩んだ気がした。


 さっきから頭の中でばらばらに散らばっていたものが、言葉になる前に胸の奥で詰まっていた。伊織は、それを無理に引き出そうとはしない。ただ、今の私がうまく立っていられないことだけ、ちゃんと分かってくれている。


「うん。ありがとう」


 どうにかそう返すと、伊織はすぐに言った。


「今日は送るよ」


「大丈夫。タクシーで帰るから」


「でも」


「大丈夫だよ。そんなに飲んでないし」


「飲んでるかどうかの問題じゃないだろ」


 伊織は少し眉を寄せた。


 その顔を見て、困ったなと思う。伊織が本気で心配してくれているのは分かる。けれど今夜は、少しだけ一人になりたかった。誰かが隣にいると、うまく保っているものが崩れてしまいそうだった。


「ちゃんと帰る。着いたら連絡するから」


 そう言うと、伊織はまだ納得しきっていない顔をした。それでも、それ以上は何も言わず、近づいてきたタクシーへ片手を上げる。


 その仕草が、妙にきれいに見えた。


 タキシードの袖口。緩めたネクタイ。少し乱れた髪。さっきまでステージの上で拍手を浴びていた人が、今は私のために車を止めてくれている。そのことが、急に胸に沁みた。


「……やっぱ伊織は、私のスーパーヒーローだね」


 心の中で思ったつもりだった。


 でも、どうやら声に出ていたらしい。


「ん? なんか言った?」


 伊織と目が合う。


 私は慌てて首を振った。


「何も言ってない」


「いや、今なんか言っただろ」


「言ってない」


「スーパーヒーローとか聞こえた気がしたけど」


「聞こえてるじゃん」


「聞こえたな」


 伊織が少しだけ笑った。


 その笑い方がいつもの伊織で、ようやく私も少し笑えた。


「忘れて」


「無理。しばらく覚えとく」


「最悪」



 くだらないやり取りなのに、少しだけ息がしやすくなる。伊織はいつも、こうやって私を今いる場所へ戻してくれる。伊織の優しさに何度も救われてきた。


 車が静かに止まり、ドアが開いた。


 乗り込む前に振り返ると、伊織はポケットに片手を入れたまま立っていた。何か言いたそうだった。柊のことかもしれない。私の顔色のことかもしれない。けれど伊織は、何も聞かなかった。


「柚」


「ん?」


「今日のこと、そんなに気にすんなよ」


 伊織は少しだけ視線を落とし、それからまた私を見た。


「柚には俺がいるんだから」


 軽く言ったようでいて、声はまっすぐだった。


 私は一瞬、返事に迷った。


 伊織はいつもそうだ。ふざけているように見せて、大事なところだけは逃げない。こちらが受け取れるくらいの重さにして、ちゃんと渡してくる。


「うん。分かってるってば」


 私は笑ってみせた。


「今日は助けてくれてありがとう。また連絡するね」


「おー。着いたらな」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


「よし。じゃあな」


 タクシーに乗り込むと、ドアが閉まった。


 窓の外で、伊織が片手を上げている。車がゆっくり走り出し、ホテルの光が後ろへ流れていく。伊織の姿はすぐに小さくなったけれど、最後までこちらを見ている気がした。


 シートに背中を預けた途端、体から力が抜ける。


 柚葉。


 あの声が、まだ耳に残っていた。


 記憶の中にある声より、少し低い。何年も聞いていなかったはずなのに、懐かしかった。懐かしいと思ってしまったことに、自分で少し驚く。


 もう平気だと思っていた。


 テレビで見ても、駅の広告に名前があっても、映画館のポスターであの横顔を見ても、昔ほど動揺しなくなっていた。主演作が話題になれば、すごいなと思ったし、テレビに出ている姿を見れば、私とは比べられないほど遠い場所へ行ったんだなと思った。


 そうやって、もう過去のこととして見られるようになってきたつもりだった。


 でも、私が慣れていたのは、画面の向こうの白石柊だったのかもしれない。


 目の前に立たれた瞬間、積み重ねてきたはずの時間が頼りなくなった。


 忘れようとして蓋をした思い出が、音もなく溢れてくる。


 窓の外では、街の明かりが流れていく。


 柊を目の前にして、何も言えなくなった自分。どうしていなくなったの、と聞けなかった自分。どうして連絡をくれなかったの、と責めることもできなかった自分。


 あの時、本当は何を考えていたのか。


 ずっと知りたかったはずなのに、何ひとつ声にならなかった。


 怖かったのだと思う。


 答えを聞くのが。


 もし、思っていたものと違う答えが返ってきたら。もし、もう終わったことだと言われたら。もし、何も言ってもらえなかったら。そんな想像ばかりが先に立って、私は何も聞けなかった。


 バッグの中でスマートフォンが震えた。


 伊織からだった。


『ちゃんと帰れてるか?』


 短い文面を見て、少しだけ息が抜ける。


『ちゃんと帰れてるよ。本当に今日はありがとうね。あと、直接言えなかったけど脚本賞おめでとう。私の中で伊織が一番輝いてたよ』


 送ると、すぐに既読がついた。


『照れるじゃん。ありがとう。頑張った甲斐あるわ』


 その返事に、少しだけ笑った。


 伊織は昔からそうだ。


 私をいつも、今いる場所へ戻してくれる。柊と連絡がつかなくなって、毎日泣いていたあの頃も、隣にいてくれたのは伊織だった。無理に忘れろとも言わず、いつまでも泣くなとも言わず、ただ何でもない顔をして、私の毎日に入り込んできた。


 窓に映る自分の顔を見る。


 映画祭用に整えた髪は少し崩れていて、メイクも完璧ではなくなっている。高校の頃はぱっつんだった前髪も、今は伸ばして横に流している。服も、靴も、持っているバッグも、あの頃とは何もかも違う。


 大人になったな、私も。


 そう思ったのに、胸の奥にいる私は、まだ制服を着ていた。


 高校一年生の春。


 新しい制服にまだ慣れていなくて、教室の扉を開けるだけで少し緊張した朝。


 誰かを好きになることも。


 誰かのことで、こんなにも長く立ち止まることも。


 何も知らなかった。


 高校一年生の四月。


 すべては、あの春から始まった。

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