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あの日の恋に、名前をつけるなら  作者: 衣乃


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第三話



「……柚葉?」


 その声を聞いた瞬間、体の奥の方で、何かが小さく崩れた気がした。


 記憶の中にあるよりも少し低くなった声。けれど、私の名前を呼ぶ時の響きだけは、驚くほど変わっていなかった。放課後の教室で、駅までの帰り道で、夜の電話越しで、何度も何度も聞いていた声だった。


 モニター越しに見ていた白石柊は、完璧だった。


 誰もが知る国民的俳優で、名前が呼ばれるだけで会場の空気を変えてしまう人。大勢のファンに囲まれ、報道陣のフラッシュを浴びながらも、少しも乱れずに立っていた人。


 けれど、今目の前にいる柊は、そのどれとも少し違って見えた。


 黒いタキシードも、整えられた髪も、周囲が自然と道を開けるほどの存在感も、たしかに今の彼のものだった。それなのに、私を見つめる目だけが、ほんの一瞬、昔に戻ったように見えた。


 階段の途中で足を止めた柊は、私から視線を外さなかった。隣にいたマネージャーらしき男性が何かを言いかけたが、柊は返事をしない。ただ、私を確かめるように見ている。


 十年近く会っていなかった。


 最後に見た時より、ずっと大人になっている。輪郭も、目線も、立っている場所も、何もかも違う。けれど、ほんの少し眉を寄せる癖や、言葉を探す前の短い沈黙が、どうしようもなく昔の柊だった。


 それが苦しかった。


 久しぶり、と言えばよかったのかもしれない。


 おめでとう、と笑えばよかったのかもしれない。


 でも、喉の奥に引っかかったものが邪魔をして、すぐには何も言えなかった。あの日からずっと、聞きたかったことがある。どうしていなくなったのか。どうして連絡が取れなくなったのか。どうして、何も言わずに私の前から消えたのか。


 頭では分かっている。


 ここは映画祭のホテルで、私は仕事でこの場にいる。目の前の相手は、かつての恋人ではなく、日本を代表する俳優の白石柊だ。周囲には関係者もいるし、誰がこちらを見ているかも分からない。


 だから私は、どうにか息を吸って、背筋を伸ばした。


「……お久しぶりです、白石さん」


 自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえた。


 けれど、胸の中は少しも落ち着いていない。指先が冷えて、グラスを持っていなくてよかったと思う。もし何かを持っていたら、きっと落としていた。


「本日は最優秀主演男優賞の受賞、誠におめでとうございます。素晴らしいスピーチでした」


 仕事用の言葉だった。


 映画祭で受賞者に向ける、失礼のない挨拶。何度も口にしたことのある、形の整った言葉。


 それを柊に向けて言った瞬間、自分の中に一本、細い線が引かれた気がした。


 柊の表情が、ほんの少しだけ変わる。


「……白石さん」


 彼は、確かめるようにその呼び方を繰り返した。


 その声を聞いて、心が揺れそうになる。昔みたいに「柊」と呼べば、何かが元に戻るような気がしてしまう。けれど、そんなはずはなかった。十年近く経っている。私たちはもう、高校の教室にいるわけではない。


 柊の視線が、私の首元に下げられた関係者パスへ落ちた。


 そこには、早川柚葉という名前と、所属先が印字されている。


「……映画の仕事、してるんだ」


「はい」


 短く答える。


 プロデューサーとして作品に関わっていること。今日ここにいる理由。話そうと思えばいくらでも説明はできた。けれど、言葉を重ねれば重ねるほど、余計なものまでこぼれてしまいそうだった。


「そうなんだ」


 柊はそう言った。


 ただそれだけだった。


 けれど、その一言の奥に何があるのか、私には分からなかった。驚いているのか、前から知っていたのか、何も思っていないのか。昔から柊は、感情を言葉にするのが上手い人ではなかった。それでも高校生の頃の私は、少しの表情の違いで、彼が何を考えているのか分かった気になっていた。


 今は、分からない。


 分からないことが、こんなにも怖い。


「柚葉」


 もう一度、名前を呼ばれる。


 今度はさっきよりも少し低い声だった。


 柊が階段を降りきり、私との距離を一歩だけ縮める。その動きに反応して、私は無意識に半歩下がっていた。


 柊の足が止まる。


 ほんのわずかな距離だった。


 でも、その距離が今の私たちのすべてみたいだった。


「……ごめん」


 柊が小さく言った。


 何に対しての謝罪なのか、分からなかった。近づこうとしたことなのか。急に声をかけたことなのか。それとも、もっと昔のことなのか。


 聞けばよかった。


 今の「ごめん」は、何に対してなの、と。


 でも、聞けなかった。


 聞いてしまったら、私の中で必死に整えていたものが全部崩れてしまう気がした。


「いえ。こちらこそ、失礼しました」


 私は視線を少しだけ伏せた。


「この後、予定がありますので」


 伊織が待っている。


 一番奥のテラスにいると、さっきメッセージが来ていた。脚本賞を取った伊織を祝うために、私はそちらへ向かっていたはずだった。


 なのに、たった数分で、今日の夜の意味が全部変わってしまったように思えた。


「……少しだけ、話せない?」


 柊の声が、背中に触れるように届いた。


 私は顔を上げる。


 柊は、まっすぐこちらを見ていた。周りから見れば、落ち着いた表情に見えるのだと思う。国民的俳優として、どんな場でも乱れない人。けれど、私にはその奥に、言葉にならない何かがあるように見えた。


 それが何なのかは、分からない。


 分からないのに、揺さぶられる。


「……今日は、難しいです」


 そう答えるのが精一杯だった。


 柊の目が、ほんの少しだけ伏せられる。


 その表情を見て、胸が痛む自分が嫌だった。傷ついた顔をしていいのは私の方だと思いたかった。あの日から何も聞けずにいたのは私で、突然いなくなった現実を受け止められなかったのも私で、何度も忘れようとしてきたのも私だった。


 なのに、目の前で柊が少しでも苦しそうな顔をすると、まだ心が反応してしまう。


 それが、一番悔しかった。


「柚葉」


 彼が、もう一度呼ぶ。


 その声に、今度こそ返事をしてしまいそうになった時だった。


「――おーい、柚葉」


 廊下の向こうから、場違いなくらい明るい声が響いた。


 振り返ると、テラスへ続く扉の前に橘伊織が立っていた。タキシードのジャケットを少しだけ着崩し、片手をポケットに入れている。いつものように軽く笑っていたけれど、こちらへ向けられた目は、すぐに状況を読み取ったようだった。


「遅いから迎えに来たんだけど」


 伊織はそう言いながら、ゆっくりと近づいてくる。


 その声を聞いた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。安心したのか、気まずくなったのか、自分でも分からない。ただ、私は伊織の名前を呼んでいた。


「伊織……」


 伊織は私の隣に立つと、まず私の顔を見た。


 大丈夫か、と聞かれたわけではない。


 けれど、そう聞かれた気がした。


 私は小さく頷く。


 それを確認してから、伊織は柊へ視線を向けた。


「柊。久しぶり」


 声は穏やかだった。


 けれど、いつもの軽さだけではなかった。高校時代、誰とでもすぐに笑い合っていた伊織とは違う。今の伊織は、大人の顔で、昔の友人だった男を見ていた。


 柊も伊織を見る。


「……橘」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 高校生の頃、この二人はよく一緒にいた。タイプは全然違うのに、並ぶとやけに目立って、クラスの女子たちがよく騒いでいたのを覚えている。柊は静かで、伊織は明るくて、青木たちも交えてよく話していた。


 そんな二人が、今は同じ廊下で向かい合っている。



 同じ教室ではなく、大人になったそれぞれの場所から。


「悪いけど、柚葉、俺と約束してたんだ」


「テラスで待ってたら全然来ないし。俺、今日の主役の一人なんだけど?」


 最後だけわざと軽く言う。


 私を笑わせようとしているのが分かった。


 それなのに、うまく笑えなかった。


「ごめん」


「いいよ。迎えに来る口実できたし」


 伊織はそう言ってから、もう一度柊を見た。


「またどこかでゆっくり話そうぜ。今日は、こいつ借りてく」


 借りてく、という言い方はいつもの伊織らしかった。


 でも、その立ち位置は明らかに私の側だった。


 伊織の手が、私の背中に軽く触れる。肩を抱き寄せるほどではなく、ただ「行こう」と促す程度の距離。けれどその温度だけで、私はようやく足に力が戻った。


 柊の視線が、一瞬だけその手元に落ちた。


 何かを言いかけたように見えた。


 でも、柊は何も言わなかった。


 私はもう一度だけ、柊へ向き直る。


「失礼します、白石さん」


 その呼び方に、自分でまた傷ついた。


 でも、今の私にはそれしかできなかった。


 柊は返事をしなかった。


 ただ、静かに私を見ていた。


 振り返ってはいけないと思った。振り返ったら、何かを聞いてしまう。何かを言ってしまう。十年分の感情を、この華やかな場所でこぼしてしまう。


 だから私は、伊織に促されるまま、柊に背を向けた。


 背中に残る視線の重さを、感じながら歩いた。

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