第二話
映画祭の授賞式を終えたホテルは、アフターパーティーの始まりとともに、もう一度華やかな熱を帯び始めていた。
大きなシャンデリアの下では、俳優や監督、スポンサー企業の関係者たちがグラスを片手に談笑している。授賞式の緊張から少しだけ解放された会場には、拍手の余韻と、これから夜が深まっていく高揚感が混ざっていた。
早川柚葉はシャンパンの入ったグラスを手に、その光景を眺めていた。
映画プロデューサーになって数年。
こうした場にも、少しずつ慣れてきた。どのタイミングで挨拶に行けばいいか、誰と誰が話している時は近づかない方がいいか、名刺を渡すならどの話題から入れば自然か。以前は必死に考えていたことが、今ではある程度、体で分かるようになっている。
それでも、映画祭の夜だけは少し特別だった。
授賞式の間、柚葉は関係者席に座っていた。ステージに名前を呼ばれた人が立ち上がる瞬間も、受賞を逃した人が拍手を送る横顔も、客席の照明が落ちた時の静けさも、全部が胸に残っている。
映画を作る仕事は、表に出る瞬間よりも、表に出るまでの時間の方がずっと長い。
企画書を何度も直して、予算を組んで、キャストや監督の調整をして、公開までに数えきれないほどの人と話す。うまくいかないことの方が多いし、報われる保証なんてどこにもない。
だからこそ、こういう夜は眩しい。
眩しすぎて、少しだけ居心地が悪くなる。
柚葉はグラスに口をつけた。シャンパンの味はほとんど分からなかった。朝からずっと人と話していたせいで、頭の中が少しだけぼんやりしている。けれど完全に気を抜くわけにはいかない。ここにいる以上、自分はただの招待客ではなく、映画を作る側の人間だった。
「早川さん、今日はお疲れさまでした」
声をかけられ、柚葉はすぐに顔を上げた。
「こちらこそありがとうございました。授賞式、とても良い空気でしたね」
「ええ。本当に。会場の反応もよかったですし、今後の展開にも期待できそうです」
「はい。公開に向けて、こちらでも改めて整理しておきます。後日、またお時間いただけますか?」
「もちろんです。ぜひ」
「ありがとうございます。改めてご連絡します」
軽く会釈を交わし、相手が離れていくのを見送る。
こういう会話を、今日だけで何度しただろう。
笑って、相槌を打って、次の約束につなげる。嫌なわけではない。むしろ、こういう積み重ねが仕事になることも分かっている。ただ、華やかな場所に立っているはずなのに、心のどこかはずっと落ち着かなかった。
理由は、分かっていた。
白石柊が、この会場にいる。
授賞式の前、レッドカーペットの中継が会場のスクリーンに映し出された時、柚葉は関係者席でその姿を見た。
黒いスーツを着て、フラッシュの中を歩く白石柊。
名前が呼ばれただけで、報道陣の声が一段大きくなった。会場にいた関係者たちでさえ、自然とスクリーンへ視線を向けていた。あの場にいる誰もが知っている。今の白石柊が、日本の映画界でどれほど大きな存在なのかを。
主演作は公開されるたびに話題になる。
ドラマに出れば視聴率が動き、映画に出れば客席が埋まり、海外の映画祭でも名前が挙がる。インタビュー記事も、雑誌の表紙も、駅の広告も、何度も見た。
見ないようにしても、目に入ってきた。
最初にテレビで柊を見た日のことを、柚葉は今でも覚えている。
何気なくつけていたドラマに、見覚えのある横顔が映った。名前を確認するより早く、息が止まりそうになった。白石柊だ、と分かった。
そこから彼は、あっという間に遠い人になった。
知らないうちに俳優になっていて、知らないうちに有名になっていて、気づけば誰もが知る存在になっていた。
高校生の頃、同じ教室にいた人。
隣を歩いた人。
好きだった人。
その人が、今はスクリーンの向こう側にいる。
もう二度と会うことはないと思っていた。
同じ映画の世界にいても、立っている場所が違えば交わらない。柚葉はそう自分に言い聞かせてきた。実際、これまで顔を合わせることはなかった。名前を見ることはあっても、出演作の話題を聞くことはあっても、本人と会うことはなかった。
だから今日も、そうだと思っていた。
会場のどこかにいると分かっていても、実際に話すことなんてない。何百人もいる関係者の中で、偶然すれ違うことだってないはずだ。
そう思っていたのに、心はずっと落ち着かなかった。
柚葉はバッグの中で震えたスマートフォンに気づき、画面を確認した。
『終わった?俺はもう撮影は勘弁って逃げてるところ。』
橘伊織からだった。
その名前を見た瞬間、張りつめていた気持ちが少しだけ緩む。
伊織は今日、脚本賞を受賞したばかりだ。さっきまでステージの上にいて、今もまだ取材や写真撮影に追われているはずなのに、送ってくる内容は高校時代からあまり変わらない。
柚葉は小さく笑って、短く返事を打った。
『お疲れさま。せっかくの晴れ舞台なのに、もう逃げてるの?』
すぐに既読がつく。
『逃げてない。避難。』
『同じでしょ』
『違う。それより早く来いよ。一番奥のテラスにいる』
その言い方があまりにも伊織らしくて、柚葉は少しだけ笑った。
昔からそうだった。
伊織は、柚葉が考え込みそうになるタイミングで、何でもない顔をして日常に引き戻してくれる。深刻なことを言うわけでもない。優しい言葉を並べるわけでもない。ただ、いつも通りの調子で声をかけてくる。
それに何度も救われてきた。
『了解。今から行くね』
返事を送り、柚葉はスマートフォンをバッグへ戻した。
今日は伊織をたくさん祝おう。
今日はそのために来たのだと思えば、少しだけ呼吸がしやすくなる。脚本賞を取った今日くらい、いつもより大げさに褒めても許されるはずだ。
柚葉はグラスを近くのテーブルに置き、テラスへ向かって歩き出した。
ホテルの中は、まだ人の声と音楽で満ちている。壁には映画祭のポスターが並び、受賞作品や俳優の名前が掲げられていた。
その中に、白石柊の名前もある。
柚葉は一瞬だけ視線を止め、すぐに逸らした。
見ないようにするほど、意識していることが自分でも分かる。
気持ちを切り替えるように、背筋を伸ばした。
テラスへ向かうには、大階段の横を抜ける必要がある。アフターパーティー会場へ向かう人たちが、ゆっくりと階段を降りてきていた。華やかなドレスを着た女優、関係者に囲まれた監督、スタッフらしき人たち。
柚葉は何気なく、その人の流れに目を向けただけだった。
けれど、人の間から見えた横顔に、足が止まった。
白石柊。
名前より先に、体が反応した。
階段を降りてくる柊の周囲には、自然と人の視線が集まっていた。誰かが彼に気づき、隣の人へ小さく声をかける。少し離れた場所にいた関係者が振り返り、声をかけるタイミングを探すように足を緩める。彼がそこにいるだけで、人の流れがほんの少し変わっていくのが分かった。
それが、今の白石柊だった。
スクリーンの中にいる人。雑誌の表紙を飾る人。名前が発表されるだけで会場の空気を変えてしまう、日本を代表する俳優。柚葉がテレビや映画館や街中の広告で何度も見てきた、手の届かない場所にいる人。
それなのに、目の前にいる彼を見た瞬間、柚葉の中で真っ先に浮かんだのは、華やかなレッドカーペットを歩く俳優の姿ではなかった。
高校の教室の窓際に座っていた柊。放課後に並んで歩いた柊。人前ではあまり多くを話さないのに、二人でいる時だけ少しだけ表情を緩めてくれた柊。
遠い世界のスターになったはずなのに、柚葉の記憶の中にいる柊は、あまりにも近かった。近かったからこそ、今の彼との距離が分からなくなる。
柊がふと顔を上げた。
視線がぶつかった瞬間、柚葉は息をすることを忘れた。
周囲ではまだ人の声がしていた。スタッフが誰かを呼ぶ声も、どこかから聞こえる笑い声も、確かに耳には届いている。けれど、その全部が薄い膜の向こう側にあるようで、柚葉の意識はただ目の前の柊だけに引き寄せられていた。
少し大人になった顔。昔よりも落ち着いた佇まい。感情を簡単には見せない静かな瞳。変わったところはいくつもあるはずなのに、柚葉は変わっていない部分ばかりを探してしまう。
柊も、階段の途中で足を止めていた。
隣にいたマネージャーらしき男性が何かを言いかけたが、柊はすぐには答えなかった。ただ柚葉を見ていた。その目が、自分を覚えているのか、ただ似ている誰かを確かめているだけなのか、柚葉には分からなかった。
それでも、逃げるように視線を逸らすことはできなかった。
十年近く会っていなかった。
あの日から、何度も忘れようとした。忘れたふりもした。もう平気だと思った日もあった。けれど、こうして目の前に立たれるだけで、心の奥にしまい込んでいたものが静かに揺れ出す。
柊の唇が、ゆっくりと動いた。
「……柚葉?」
記憶の中より少し低くなった声だった。
けれど、その呼び方だけは昔のままだった。
その声を聞いた瞬間、柚葉はようやく、自分がずっと彼を忘れられていなかったのだと知った。言葉を返さなければと思うのに、喉がうまく動かない。笑えばいいのか、驚けばいいのか、久しぶりと言えばいいのかさえ分からなかった。
ただ、目の前に柊がいる。
その事実だけで、柚葉の中にあったはずの十年が、一瞬でほどけていくようだった。




