表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日の恋に、名前をつけるなら  作者: 衣乃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/7

第二話


 映画祭の授賞式を終えたホテルは、アフターパーティーの始まりとともに、もう一度華やかな熱を帯び始めていた。


 大きなシャンデリアの下では、俳優や監督、スポンサー企業の関係者たちがグラスを片手に談笑している。授賞式の緊張から少しだけ解放された会場には、拍手の余韻と、これから夜が深まっていく高揚感が混ざっていた。


 早川柚葉はシャンパンの入ったグラスを手に、その光景を眺めていた。


 映画プロデューサーになって数年。


 こうした場にも、少しずつ慣れてきた。どのタイミングで挨拶に行けばいいか、誰と誰が話している時は近づかない方がいいか、名刺を渡すならどの話題から入れば自然か。以前は必死に考えていたことが、今ではある程度、体で分かるようになっている。


 それでも、映画祭の夜だけは少し特別だった。


 授賞式の間、柚葉は関係者席に座っていた。ステージに名前を呼ばれた人が立ち上がる瞬間も、受賞を逃した人が拍手を送る横顔も、客席の照明が落ちた時の静けさも、全部が胸に残っている。


 映画を作る仕事は、表に出る瞬間よりも、表に出るまでの時間の方がずっと長い。


 企画書を何度も直して、予算を組んで、キャストや監督の調整をして、公開までに数えきれないほどの人と話す。うまくいかないことの方が多いし、報われる保証なんてどこにもない。


 だからこそ、こういう夜は眩しい。


 眩しすぎて、少しだけ居心地が悪くなる。


 柚葉はグラスに口をつけた。シャンパンの味はほとんど分からなかった。朝からずっと人と話していたせいで、頭の中が少しだけぼんやりしている。けれど完全に気を抜くわけにはいかない。ここにいる以上、自分はただの招待客ではなく、映画を作る側の人間だった。


「早川さん、今日はお疲れさまでした」


 声をかけられ、柚葉はすぐに顔を上げた。


「こちらこそありがとうございました。授賞式、とても良い空気でしたね」


「ええ。本当に。会場の反応もよかったですし、今後の展開にも期待できそうです」


「はい。公開に向けて、こちらでも改めて整理しておきます。後日、またお時間いただけますか?」


「もちろんです。ぜひ」


「ありがとうございます。改めてご連絡します」


 軽く会釈を交わし、相手が離れていくのを見送る。


 こういう会話を、今日だけで何度しただろう。


 笑って、相槌を打って、次の約束につなげる。嫌なわけではない。むしろ、こういう積み重ねが仕事になることも分かっている。ただ、華やかな場所に立っているはずなのに、心のどこかはずっと落ち着かなかった。


 理由は、分かっていた。


 白石柊が、この会場にいる。


 授賞式の前、レッドカーペットの中継が会場のスクリーンに映し出された時、柚葉は関係者席でその姿を見た。


 黒いスーツを着て、フラッシュの中を歩く白石柊。


 名前が呼ばれただけで、報道陣の声が一段大きくなった。会場にいた関係者たちでさえ、自然とスクリーンへ視線を向けていた。あの場にいる誰もが知っている。今の白石柊が、日本の映画界でどれほど大きな存在なのかを。


 主演作は公開されるたびに話題になる。


 ドラマに出れば視聴率が動き、映画に出れば客席が埋まり、海外の映画祭でも名前が挙がる。インタビュー記事も、雑誌の表紙も、駅の広告も、何度も見た。


 見ないようにしても、目に入ってきた。


 最初にテレビで柊を見た日のことを、柚葉は今でも覚えている。


 何気なくつけていたドラマに、見覚えのある横顔が映った。名前を確認するより早く、息が止まりそうになった。白石柊だ、と分かった。


 そこから彼は、あっという間に遠い人になった。


 知らないうちに俳優になっていて、知らないうちに有名になっていて、気づけば誰もが知る存在になっていた。


 高校生の頃、同じ教室にいた人。


 隣を歩いた人。


 好きだった人。


 その人が、今はスクリーンの向こう側にいる。


 もう二度と会うことはないと思っていた。


 同じ映画の世界にいても、立っている場所が違えば交わらない。柚葉はそう自分に言い聞かせてきた。実際、これまで顔を合わせることはなかった。名前を見ることはあっても、出演作の話題を聞くことはあっても、本人と会うことはなかった。


 だから今日も、そうだと思っていた。



 会場のどこかにいると分かっていても、実際に話すことなんてない。何百人もいる関係者の中で、偶然すれ違うことだってないはずだ。


 そう思っていたのに、心はずっと落ち着かなかった。


 柚葉はバッグの中で震えたスマートフォンに気づき、画面を確認した。


『終わった?俺はもう撮影は勘弁って逃げてるところ。』


 橘伊織からだった。


 その名前を見た瞬間、張りつめていた気持ちが少しだけ緩む。


 伊織は今日、脚本賞を受賞したばかりだ。さっきまでステージの上にいて、今もまだ取材や写真撮影に追われているはずなのに、送ってくる内容は高校時代からあまり変わらない。


 柚葉は小さく笑って、短く返事を打った。


『お疲れさま。せっかくの晴れ舞台なのに、もう逃げてるの?』


 すぐに既読がつく。


『逃げてない。避難。』


『同じでしょ』


『違う。それより早く来いよ。一番奥のテラスにいる』


 その言い方があまりにも伊織らしくて、柚葉は少しだけ笑った。


 昔からそうだった。


 伊織は、柚葉が考え込みそうになるタイミングで、何でもない顔をして日常に引き戻してくれる。深刻なことを言うわけでもない。優しい言葉を並べるわけでもない。ただ、いつも通りの調子で声をかけてくる。


 それに何度も救われてきた。


『了解。今から行くね』


 返事を送り、柚葉はスマートフォンをバッグへ戻した。


 今日は伊織をたくさん祝おう。


 今日はそのために来たのだと思えば、少しだけ呼吸がしやすくなる。脚本賞を取った今日くらい、いつもより大げさに褒めても許されるはずだ。


 柚葉はグラスを近くのテーブルに置き、テラスへ向かって歩き出した。


 ホテルの中は、まだ人の声と音楽で満ちている。壁には映画祭のポスターが並び、受賞作品や俳優の名前が掲げられていた。


 その中に、白石柊の名前もある。


 柚葉は一瞬だけ視線を止め、すぐに逸らした。


 見ないようにするほど、意識していることが自分でも分かる。


 気持ちを切り替えるように、背筋を伸ばした。


 テラスへ向かうには、大階段の横を抜ける必要がある。アフターパーティー会場へ向かう人たちが、ゆっくりと階段を降りてきていた。華やかなドレスを着た女優、関係者に囲まれた監督、スタッフらしき人たち。


 柚葉は何気なく、その人の流れに目を向けただけだった。


 けれど、人の間から見えた横顔に、足が止まった。




 白石柊。




 名前より先に、体が反応した。


 階段を降りてくる柊の周囲には、自然と人の視線が集まっていた。誰かが彼に気づき、隣の人へ小さく声をかける。少し離れた場所にいた関係者が振り返り、声をかけるタイミングを探すように足を緩める。彼がそこにいるだけで、人の流れがほんの少し変わっていくのが分かった。


 それが、今の白石柊だった。


 スクリーンの中にいる人。雑誌の表紙を飾る人。名前が発表されるだけで会場の空気を変えてしまう、日本を代表する俳優。柚葉がテレビや映画館や街中の広告で何度も見てきた、手の届かない場所にいる人。


 それなのに、目の前にいる彼を見た瞬間、柚葉の中で真っ先に浮かんだのは、華やかなレッドカーペットを歩く俳優の姿ではなかった。


 高校の教室の窓際に座っていた柊。放課後に並んで歩いた柊。人前ではあまり多くを話さないのに、二人でいる時だけ少しだけ表情を緩めてくれた柊。


 遠い世界のスターになったはずなのに、柚葉の記憶の中にいる柊は、あまりにも近かった。近かったからこそ、今の彼との距離が分からなくなる。


 柊がふと顔を上げた。


 視線がぶつかった瞬間、柚葉は息をすることを忘れた。


 周囲ではまだ人の声がしていた。スタッフが誰かを呼ぶ声も、どこかから聞こえる笑い声も、確かに耳には届いている。けれど、その全部が薄い膜の向こう側にあるようで、柚葉の意識はただ目の前の柊だけに引き寄せられていた。


 少し大人になった顔。昔よりも落ち着いた佇まい。感情を簡単には見せない静かな瞳。変わったところはいくつもあるはずなのに、柚葉は変わっていない部分ばかりを探してしまう。


 柊も、階段の途中で足を止めていた。


 隣にいたマネージャーらしき男性が何かを言いかけたが、柊はすぐには答えなかった。ただ柚葉を見ていた。その目が、自分を覚えているのか、ただ似ている誰かを確かめているだけなのか、柚葉には分からなかった。


 それでも、逃げるように視線を逸らすことはできなかった。


 十年近く会っていなかった。


 あの日から、何度も忘れようとした。忘れたふりもした。もう平気だと思った日もあった。けれど、こうして目の前に立たれるだけで、心の奥にしまい込んでいたものが静かに揺れ出す。


 柊の唇が、ゆっくりと動いた。


「……柚葉?」


 記憶の中より少し低くなった声だった。


 けれど、その呼び方だけは昔のままだった。


 その声を聞いた瞬間、柚葉はようやく、自分がずっと彼を忘れられていなかったのだと知った。言葉を返さなければと思うのに、喉がうまく動かない。笑えばいいのか、驚けばいいのか、久しぶりと言えばいいのかさえ分からなかった。


 ただ、目の前に柊がいる。


 その事実だけで、柚葉の中にあったはずの十年が、一瞬でほどけていくようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ