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あの日の恋に、名前をつけるなら  作者: 衣乃


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第一話

華やかなシャンデリアの光が降り注ぐ授賞式会場は、映画界の頂点に立つ人々が醸し出す、どこか凛とした空気で満ち溢れていた。


 最高級の香水の香りと、行き交う招待客たちの囁き声。そして今まさに外で繰り広げられている祭典への期待感が、心地よい緊張感となって肌を撫でる。


 会場の中央には、レッドカーペットの様子をリアルタイムで映し出す巨大なモニターが鎮座している。関係者としてこの場に立ち入っていた私は、その画面からどうしても目を離すことができずにいた。


「お、始まったな」


 隣にいた業界人が呟くと、会場中の視線が一斉にモニターへと集まった。


 最初に画面に大きく映し出されたのは、タキシードを凛々しく着こなした橘伊織の姿だった。


 彼はどこまでも自然体だった。肩の力を抜き、余裕のある軽やかな足取りでレッドカーペットを歩いていく。その姿には、最前線を走る脚本家として確固たる地位を築いた者特有の、静かな自信が滲んでいる。


「伊織さーん!」


 沿道のファンから名前を呼ばれると、伊織は少し照れたような、けれどとても親しみやすい笑顔を浮かべて振り返る。彼は決して駆け足で通り過ぎたりはしない。一歩ごとにファンの方を向き、一人ひとりの声を聞き届けようとする丁寧な仕草を見せる。


「本当に、伊織さんはいつ見ても様になるね」


「ああ。あの親しみやすい空気感、現場でもスタッフからすごく信頼されてるらしいよ」


 周囲の関係者たちが、感心したように頷いている。


 伊織はカメラを見つけると、スマートに片手を挙げて応えた。その洗練された立ち居振る舞いは、どんな着飾った俳優にも負けないほどのかっこよさがある。彼は、自分を大きく見せようとも、無理に飾ろうともしない。ただそこにいるだけで周囲を和ませ、その場の主役の一人として堂々と振る舞う強さを持っていた。


 伊織が記者たちのフラッシュを浴びながら、会場の入り口へとスマートに消えていく。

 その直後、会場内の空気が、ピリリと引き締まるのを感じた。


 モニターの映像が切り替わった瞬間、外の歓声の質が、まるで何段階もランクアップしたように一変した。それまでの賑わいが穏やかな風だとすれば、今度は台風のような熱風が画面越しに吹き荒れる。


 地鳴りのような悲鳴と、うねるような歓声。


 そこに、白石柊が現れたからだ。


 彼が車から降りたその瞬間、周囲の景色が、まるで彼一人を際立たせるための演出の一部へと変貌した。


 完璧なカッティングの黒のタキシード。鍛え上げられたしなやかな立ち姿。そして、何人たりとも近づけさせないほどの冷徹なまでの美貌。


「……あ」


 隣で誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。会場にいる誰もが、吸い寄せられるように画面を凝視している。


 白石柊が歩く。


 その一挙手一投足に、全てのカメラのシャッター音が鳴り響く。


 沿道のファンたちは、彼を見るや否や熱狂の極みに達し、あちこちから絶叫に近い声が上がった。


 柊は、その熱狂の渦の中心で、一切の隙を見せない。


 表情の作り方、目線の配り方、ファンへ向ける微笑みの角度。その全てが、まるで数学的に計算し尽くされた芸術作品のように美しい。


「……柊くん! こっち向いて!」


 無数の要求が飛び交う中、彼は一度も混乱することなく、完璧な対応を続けていく。


 カメラのフラッシュを浴びるたびに、彼は一番美しく見える角度で静かに視線を送る。その眼差しは、鋭くもどこか慈愛に満ちていて、ファン一人ひとりが「自分を見てくれた」と確信させるような、魔性の魅力を放っていた。


 圧倒的なカリスマ性と、神々しいまでの佇まい。


 彼はただの俳優ではない。彼が笑えば国中が幸福に包まれ、彼が歩けばそこがどんな場所であっても聖域になる。現代のエンターテインメント界そのものと言っても過言ではない、圧倒的な光の化身であり、国民的なスーパースターだった。


「本当に、すごいオーラだな……」


 関係者の漏らした感嘆の声に、私はただ無言で同意するしかなかった。


 彼らがこの会場の扉をくぐってくる。


 心臓の鼓動が、会場のざわめきよりも大きく鳴っている気がした。


     *


 それから一時間後。


 会場内の照明がゆっくりと落とされ、巨大なシャンデリアの輝きが静かに息を潜めた。代わりに、ステージの中央だけが眩いスポットライトに照らし出される。


 数千人が息を呑む静寂の中、荘厳なオーケストラの生演奏が響き渡り、いよいよ映画祭のクライマックスである授賞式が幕を開けた。


 私は関係者席の最後列から、その光り輝くステージを見つめていた。会場の最前列、円卓が並ぶ特等席には、先ほどレッドカーペットを歩き終えたばかりのスターたちがずらりと顔を揃えている。


 数々の部門の発表が続き、会場の熱気が徐々に高まっていく中、司会者の声が一段とトーンを上げた。


「――続きまして、最優秀脚本賞の発表です」


 ドラムロールが鳴り響き、背後の巨大スクリーンにノミネートされた作品と候補者たちの顔が次々と映し出される。


 そして、一瞬の静寂の後、司会者が高らかにその名を読み上げた。


「受賞者は……『夜明けのノクターン』、橘伊織さん!」


 その瞬間、会場中から割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こった。


 円卓の席で、伊織がゆっくりと立ち上がる。


 彼は周囲の監督やプロデューサーたちから次々と祝福のハグを受け、その度に、誰もが魅了されるあの人懐っこい笑顔を向けた。


 彼は決して気負うことなく、軽やかな足取りでステージへの階段を上っていく。


 トロフィーを受け取り、マイクの前に立った伊織は、眩しい光を浴びながらもふっと表情を和らげた。


「ありがとうございます。……こんなに重いんですね、このトロフィー」


 第一声から、会場に温かな笑い声が広がる。


「僕の仕事は、誰もいない部屋で、ただひたすらに文字を打ち続けるだけの孤独な作業です。でも、僕が書いたただの文字の羅列に、体温を与え、命を吹き込んでくれた素晴らしい俳優陣とスタッフの皆様がいたからこそ、物語は現実になりました」


 伊織は客席をゆっくりと見渡し、深く、誠実な声で締めくくった。


「この賞は、僕の頭の中にあった小さな世界を、こんなにも美しく広げてくれた全てのチームに捧げます。本当に、ありがとうございました」


 スマートで、知的で、それでいて温かい。

 割れんばかりの拍手が送られる中、伊織はトロフィーを軽く掲げてみせ、眩しい笑顔のままステージを後にした。才能と人間性を兼ね備えた、誰もが愛さずにはいられない若きトップクリエイター。その完璧な姿に、会場中が酔いしれていた。


 しかし。


 続く「最優秀主演男優賞」の発表が近づくにつれ、会場の空気は全く違うものへと変貌していった。


 ざわめきが消え、呼吸の音さえも憚られるような、異様なまでの緊張感。


 誰もが、次に呼ばれるであろう絶対的な「名前」を予感し、身構えているのがわかった。


「――いよいよ、今夜の最後を飾る、最優秀主演男優賞の発表です」


 スクリーンに映し出されるノミネート俳優たち。


 だが、司会者が封筒を開け、マイクに息を吹きかけた時、会場の視線はすでに一人の男に集中していた。


「受賞者は……」


 司会者の声が、ホール全体に響き渡る。


「白石柊さん!!」


 地鳴りのような大歓声。いや、それは歓声というよりも、会場のうねりそのものだった。


 スタンディングオベーションが巻き起こり、無数のフラッシュが会場内を真っ白に染め上げる。


 その光の暴力を全身に浴びながら、白石柊は静かに立ち上がった。


 彼が動いただけで、空気がピンと張り詰める。


 圧倒的で、絶対的なオーラ。


 彼は周囲からの祝福に軽く頷くだけで、表情一つ崩すことなく、ただ真っ直ぐにステージを見据えて歩き出した。


 その歩みは、まるで神話の彫刻が命を得て動き出したかのように美しい。


 一切の無駄がない洗練された動き。彼が一歩階段を上るごとに、会場の熱狂はさらに高まり、彼がステージの中央に立った瞬間、嵐のような拍手はピタリと止んだ。


 彼が何を語るのか。一言一句を聞き逃すまいと、数千人が息を呑んで彼を見つめている。


 トロフィーを受け取った柊は、マイクの前に立つと、伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げた。その鋭くも透き通るような瞳が会場を見渡す。


「……身に余る光栄です」


 低く、よく通る声が、静寂のホールに響き渡った。


「僕はただ、与えられた役の人生を、自分の中に取り込み、呼吸してきただけです。でも、僕のその呼吸が、誰かの心を動かし、誰かの人生に少しでも触れることができたのなら……俳優として、これ以上の幸福はありません」


 感情を荒らげることもなく、ただ静かに、けれど誰もが心臓を鷲掴みにされるような強い引力を持った言葉。


「僕をこの場所に立たせてくれた、作品を愛するすべての人へ。この賞は、あなたたちの熱量がくれたものです。……本当に、ありがとうございました」


 深く、一礼する。


 その瞬間、会場の時間が一秒だけ止まったかのように錯覚した。


 次の瞬間、天井が吹き飛ぶのではないかと思うほどの大歓声と、鳴り止まない拍手が爆発した。


 完璧だった。


 圧倒的な美貌、一瞬で場を支配するオーラ、そして一切の隙を見せない完璧なスーパースターとしての振る舞い。


 彼は自分がどれほど求められているかを知り尽くし、それに最高のエンターテイナーとして応え続けている。


 光の渦の中で、柊はトロフィーを抱き、ほんの少しだけ口角を上げた。


 その息を呑むほど美しい微笑みに、会場中が再び熱狂の渦に巻き込まれていく。


 授賞式は、こうして彼という絶対的な光を中心にして、幕を閉じた。


 この後、会場を移して行われるアフタヌーンパーティー。

 私は関係者としての仕事に戻るべく、大きく深呼吸をして、まだ熱気冷めやらぬホールを後にした。


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