第25話 想いを胸に(1)
願いにも、悲鳴にも似た言葉だった。
エリオスは、しばらく動けなかった。
口元を塞いでいたリリアナの右手は震え、赤く腫れた頬には涙が流れている。左手に巻いた布には、今もじわじわと血が広がっていた。
それでも彼女が泣いているのは、自分の傷が痛むからではない。
エリオスが、自分の命をいらないと言いかけたからだ。
王太子だからではない。国に必要だからでもない。
エリオスだから、生きていてほしい。
その言葉が胸の奥へ入り込み、呼吸さえ忘れさせた。
エリオスは口元に触れていた手をそっと取った。涙を拭おうとしたが、指先には煤とリリアナの血がついている。自分の衣服で何度か拭い、それから、煤と熱風で乱れた灰色の髪へためらいがちに触れた。
指先で、そっと撫でる。
リリアナの目から、また涙がこぼれた。
「君が生きていてくれて、よかった」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
傷ついた左手へこれ以上負担がかからないよう、布の巻かれた手首を支えながら、空いた腕でリリアナの体を引き寄せる。
今度、彼女を抱き寄せたのは、危険から庇うためではなかった。
ただ、腕の中にいることを確かめたかった。
温かい。息をしている。自分の胸元で、小さく震えている。
あと少しでも手が遅れていたら、この温もりは失われていた。
そう思うと、抱く腕を緩めることができなかった。
リリアナも拒まなかった。エリオスの胸元へ額を押しつけ、声を殺して泣いていた。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
「上に誰かいるか!」
爆発を聞きつけた学院の警備の者たちが、階段を駆け上がってきた。
エリオスはリリアナを抱いたまま、扉へ顔を向ける。
「王太子エリオスだ。中へ入るな!」
足音が一斉に止まった。
「壁際に火薬が残っている。火のついた灯りは持ち込むな。研究棟と隣の講義棟から全員を避難させろ。医師を呼べ。それから、水と砂を集め、周囲から火の気を遠ざけろ。火薬を扱える者にも、すぐ使いを出せ」
「承知しました!」
「建物の下、爆発のあった場所には、まだ火薬や導火具の残骸が散っている可能性がある。安全を確認するまで誰も近づけるな。落ちた男の確認も、その後だ」
命令を受けた者たちが再び階段を下りていく。
エリオスは腕の中のリリアナへ目を戻した。
「歩けるか」
「はい。自分で歩けます」
リリアナが立ち上がろうとすると、その体がわずかに傾いた。エリオスはすぐに肩を支える。
「今の君の大丈夫は、信用できない」
そう言うと、傷ついた左手を庇いながら、背中と膝の下へ腕を入れて抱き上げた。
「殿下、抱えていただくほどでは……」
「俺がそうしたい」
リリアナが驚いて顔を上げたが、エリオスはそれ以上何も言わなかった。
火薬の箱から離れて廊下へ出ると、待機していた警備の者が道を空けた。
研究棟の外では、教師たちが生徒を遠ざけ、建物の周囲を封鎖していた。警備の者たちは水や砂を運び、火が残っていないか遠くから確認している。
リリアナは、研究棟から十分に離れた救護所へ運ばれた。
掌には一か所やや深い切り傷があり、手首と足首には縄の痕と、硝子で縄を切った際の浅い傷が残っていた。頭や頬、肩にも打撲と擦り傷はあったが、筋や大きな血管、頭や骨に異常はなく、後遺症の心配もないという。
熱風による火傷も軽かった。ただ、腰まで届いていた灰色の髪は、広い範囲が熱で傷んでいた。
処置を終えたリリアナには予備の外衣が掛けられ、医師と女性の付き添いを乗せた王家の馬車で、バルディエ邸へ送り届けられることになった。
エリオスも、本当なら自ら付き添いたかった。
しかし、研究棟にはまだ火薬が残っている。爆発のあった場所の安全確認、男の身元と動機の調査、学院側への事情説明、警備への指示、王宮への報告も必要だった。
ここを離れるわけにはいかない。
バルディエ家への説明には、エリオスの側近が同行することになった。
馬車へ乗る前、リリアナが振り返った。
「殿下も、どうかご無理をなさらないでください」
最後まで、案じているのはエリオスのことだった。
「ああ」
それしか答えられなかった。
本当は、行かせたくなかった。
今夜だけでもそばにいて、息をしていることを確かめていたかった。けれど、そんなことを口にできるはずもない。
馬車の扉が閉じた瞬間、エリオスはそこへ手を伸ばしかけた。
もう一度扉を開け、やはり自分も行くと告げたくなった。
けれど、その手を握り込む。
馬車は動き始めた。
走り去る姿が見えなくなっても、エリオスはしばらくその場に立っていた。
◇
その夜、王宮の自室へ戻っても、エリオスは眠ることができなかった。
バルディエ邸へ付き添った医師から、改めて報告を受けている。
掌の傷はしばらく痛むだろうが、後遺症が残る可能性は低い。火傷も軽く、頭や内臓にも異常はない。
命に関わる怪我はなかった。
その言葉を聞いて、ようやく深く息を吐くことができた。
リリアナは生きている。
また会える。
それでも目を閉じれば、窓の外へ落ちかけた姿が浮かんだ。
灰色の髪が宙へ流れ、足先が窓枠を離れていく。自分の腕があと少し遅れていたら、彼女は男とともに落ちていた。
もし、届かなかったら。
考えただけで、指先から血の気が引いた。
あなたが王太子だからではありません。
国に必要な方だからでも、あなたの命が私の命より重いからでもありません。
あなたが、あなただからです。
あなたがエリオスだから、死んでほしくないんです。
何度思い返しても、胸の奥を強くつかまれる。
リリアナが生きていてほしいと願ったのは、王太子だからではなかった。次の王として必要だからでも、国のためでもない。
ただ、エリオスだから。
それは、言葉を失うほどエリオスを救った。
生まれた時から、健やかな成長を願われてきた。王家のため、国のため、民のために生きろと言われてきた。
命を案じられることはあっても、その先にはいつも、王太子として果たすべき役目があった。
けれどリリアナは、何を成し遂げるかも、どの地位に立つかも関係なく、ただ生きていてほしいと泣いてくれた。
なぜ彼女がそこまで自分を大切にするのか、エリオスには分からない。
けれど、震える声も、流した涙も、自分が無事だと知った時の安堵も、すべてこの目で見た。
王太子ではない自分を、本当に大切にしてくれている。
そのことだけは、疑えなかった。
そして、自分も同じだった。
リリアナだから、失いたくない。
もう二度と、あの声で名を呼ばれない。灰色の髪も、淡い瞳も、静かに仕事をする横顔も見られない。
そんな未来を想像することさえ、耐えられなかった。
思えば、最初からだった。
生徒会の面接室で扉が開き、リリアナが入ってきた瞬間、考えるより先に立ち上がっていた。
名を聞けば、胸の奥に長く残っていた空白へ、その音がすっと収まった。
重ねた指先は冷たかった。それでも、離したくないと思った。
理由が分からず、危険なものだと思った。近づかない方がいいと決めたのに、気づけばいつも姿を探していた。
書架が倒れた日には、自分の肩から血が流れているのを見たリリアナが、顔色を失った。
普段は何があっても表情を乱さない彼女が、泣きそうな顔で自分を見ていた。
『エリオス』
あの時、初めてそう呼ばれた。
殿下ではなく、エリオスと。
傷の痛みよりも、その声の方が長く残った。
誕生祭には、生まれてきてくれてありがとうと言われた。王国の未来でも、次代の王でもなく、自分がここにいることを喜ばれたように感じた。
そして、引き出しの奥へしまったブローチ。
綺麗だと思った。
好きな色だと思った。
誰にも渡したくないと思った。
月明かりの中で、その石がリリアナの髪と瞳の色だと気づいた時には、もう答えは出ていた。
それでもエリオスは、その時々に別の理由をつけてきた。
面接室で思考が止まったのは、疲れていたから。
気づけば姿を探しているのは、彼女が優秀だから。
ノアの隣にいる姿を見て胸が軋むのは、弟のことが気になっただけ。
危険だと知れば考えるより先に駆け出してしまうのも、生徒会長として当然のこと。
誰にも渡したくないと思った石も、ただその色を気に入っただけ。
そのたびに、もっともらしい理屈をつけた。
そうして、すべてを恋ではないことにしてきた。
分からなかったのではない。
分からないことにしていたのだ。
好きだと認めたくなかった。
認めれば、自分の隣にいてほしいと願ってしまう。
もっと近くで声を聞きたい。誰にも渡したくない。できることなら、リリアナにも自分を選んでほしい。
そんな望みを持ってしまうから。
けれど、それだけではなかった。
王太子の婚姻は、自分一人の気持ちで変えられるものではない。
好きだと認めた瞬間、その恋がかなわないことまで認めなければならなくなる。
恋でなければ、まだ失ってはいない。名前をつけなければ、失恋したことにもならない。
だから、目を逸らしてきた。
けれど、もう無理だった。
リリアナを失いかけた時の恐怖も、生きていると知った途端に力が抜けたことも、今すぐ顔を見に行きたいと思っていることも、別の理由では覆い隠せない。
失いたくない。
生きていてほしい。
できることなら、ずっとそばにいてほしい。
その理由は、もう分かっている。
「……好きだ」
誰もいない部屋に、掠れた声が落ちた。
リリアナが好きだ。
口にしてみれば、これまで自分が一つ一つにつけてきた理由の方が、よほど不自然だった。
分からなかったわけではない。
分からないことにしていた。
好きだと認めれば、彼女を求めずにはいられなくなる。そして同時に、その願いがかなわないことも認めなければならない。
自分には王太子としての立場があり、サラとの婚約がある。
それでも、何なのか分からないふりをして、この気持ちから逃げ続けるよりはよかった。かなわない恋なのだと分かってしまえば、いつかは諦められるのかもしれない。
すぐには無理でも、少しずつ手放していけばいい。
いつか胸の奥へしまえる日が来れば、自分はこれまでどおり、王太子として歩いていける。
少なくとも、今はそう思うことができた。
けれど、別の誰かの隣に立つリリアナを思い浮かべただけで、胸が苦しくなる。
本当は今すぐ、バルディエ邸へ向かいたかった。
もう一度、無事な顔を見たい。手を握り、その温もりを確かめたい。名を呼んで、あの淡い瞳が自分へ向くところを見たい。
二度と、あの窓辺で感じたような恐怖を味わいたくない。
ずっとそばにいてほしい。
そこまで望んでおきながら、いつか諦められると思うのは、あまりにも都合がよいのかもしれない。
それでも、今夜は行かない。
会えば、無事を確かめるだけでは帰れなくなる気がした。
リリアナは生きている。
また会える。
今は、そのことだけで自分を押しとどめるしかなかった。
エリオスは目を閉じた。
これなら、いつか諦められるかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、胸の奥で彼女の名を呼ぶ。
リリアナ。
初めて見た時から、ずっと。
リリアナが好きだ。
そしてその夜、エリオスは、手放す日のことではなく、次に会える時のことばかりを考えていた。




