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第26話 王太子と灰色の女の伝承(1)

翌日、王立学院では卒業式が行われた。


 学院長から卒業証書を受け取ったエリオスは、卒業生を代表して答辞を述べるため、壇上へ上がった。静まり返った講堂に、穏やかでよく通る声が響く。


 柔らかな金色の髪も、優しげな琥珀色の瞳も、一年前、この講堂の壇上で見上げたときと何も変わらない。


 在校生の列に並ぶリリアナは、その姿を見つめていた。


 一年前は、自分がこの学院へ入っていく日だった。今日は、エリオスがここを去っていく日だ。


 同じ壇上に立つ同じ人なのに、あのときよりずっと遠くへ行ってしまうように見えた。


 生徒会室へ行けば会えた。顔を合わせない日にも、同じ学院のどこかにいることだけは分かっていた。廊下ですれ違うかもしれない。遠くに姿を見つけるかもしれない。用事がなくても、生徒会室へ行けば声を聞けるかもしれない。


 そんな日々が、今日で終わる。


 答辞を終えたエリオスが一礼すると、大きな拍手が講堂を満たした。リリアナも手を叩いた。心から卒業を祝っているのに、拍手が続くほど、これで本当に終わるのだという寂しさが募っていく。


 式が終わると、整然と並んでいた列は崩れ、卒業生たちは家族や友人のもとへ向かった。王太子であるエリオスの周囲にも、教師や貴族の子弟たちが次々と集まっていく。


 人々の肩越しに、一度だけエリオスの顔が見えた。


 こちらを見たような気がしたが、確かめるより先に、また誰かが彼の前へ進み出て姿を隠した。


 リリアナは、その場を離れられなかった。


 呼べば、きっと振り向いてくれる。


 けれど昨日、もう伝えている。


 どうか、お元気で。


 今もう一度彼の名を呼んだら、その言葉だけでは終われない気がした。


 手袋の上から、左手の中指へ触れる。薄い布の下には、世界が変わる前から変わらず、細い指輪が嵌まっている。


 やがて人の流れの向こうへ、エリオスの姿が見えなくなった。それでもしばらくそこを見つめ、もう見つけられないと分かってから、ようやくリリアナも歩き出した。


 廊下にはいつものように生徒たちの声が響き、窓から春の光が差し込んでいる。学院はいつもと何も変わらないのに、明日からここにエリオスはいない。


 リリアナは人の流れに混じって反対側の出口へ向かい、そのまま学院の門をくぐった。


 一度も振り返らなかった。


 それでも、指輪に触れていた指だけは、なかなか離せなかった。


◇


 学院を卒業したエリオスには、それまで以上に多くの公務が任されるようになった。父王や重臣たちの会議にも正式に加わり、各地から届く報告について、王太子として意見を求められる機会も増えていく。


 卒業して間もないある日、父王、宰相、財務官、工務を担当する重臣たちが集まる会議へ、南部鉄路の調査を担当していた文官が新たな報告を持って現れた。


「工事は、当初の計画より大幅に前倒しされておりました。必要な鉄材の確保が追いつかず、運搬用の馬車や倉、職人の宿も不足していました。賃金の支払いが遅れ、現場を離れた職人もおります」


 父王が尋ねた。


「その状態で、発破まで進めたのか」


「はい。監督者の人数も不足しておりました。さらに、崩落前には斜面の亀裂が複数回報告されています。現場からは、発破を止めるよう求める書付も出されていました」


「それほどの報告がありながら、なぜ止まらなかった」


「事業本部へ提出された報告では、亀裂と中止要請に関する部分が削られております」


「誰が消した」


「報告を取りまとめた現場統括者が、書き換えに関与したことまでは確認できています。ただ、現地の事業本部を統括していたアルヴェイン公爵の弟から、工程を遅らせるなという強い圧力を受けていたとの証言も出ております」


 アルヴェイン公爵本人は王都で資金調達や王家との折衝を担い、現地の工事は実弟に任せていた。


「書き換えを命じた証拠はあるのか」


「まだございません」


「ならば、そこは分けて調べよ」


「はい。資金の使い方にも問題があります。地盤補強のために確保されていた費用の一部が、正式な承認を受けないまま、資材購入や輸送へ回されていました」


 父王の眉が寄る。


「安全のための金を、工期を早めるために使ったということか」


「現在確認できている範囲では、そのようです」


 南部鉄路にはアルヴェイン家の資金に加え、国庫からも補助金が出ており、不足する建設費は複数の商会から融資を受けていた。その一方で、安全のために確保した金まで別の用途へ回されていたことになる。


「発破薬の管理も杜撰でした。使用量と残数を毎日確認せず、数日分をまとめて帳簿につけています。不足が出ても上へ報告せず、帳簿の数字を合わせたあと、バルディエ商会へ追加発注していました」


 エリオスの脳裏に研究棟の爆発が浮かんだ。


 父王も同じところへ行き着いたらしい。


「学院の事件を起こした男は、この鉄路で働いていたな」


「はい。崩落事故で父親を亡くすまでは。バルディエ令嬢の証言では、事故後の混乱に乗じて発破薬を持ち出したと話していたそうです。現場で不足していた量と、研究棟へ運び込まれた量もほぼ一致しました」


「それだけの量がなくなっても、気づかなかったのか」


「不足が出るたび帳簿を合わせ、追加発注していたためです」


 文官は続けた。


「父親の死については、事故後、遺族から何度も申し立てが出ています。しかし十分な補償は行われず、事故報告にも書き換えが見つかりました」


 崩落事故では五人が亡くなり、七人が重傷を負った。ほかにも十数人が負傷している。その五人のうちの一人が、学院事件を起こした男の父親だった。


 父王はしばらく何も言わなかった。


「危険を知りながら工事を進め、五人の命を失わせ、多くの負傷者まで出した。そのうえ、亡くなった者や家族への対応まで誤った。それが学院の事件へつながったのだな」


「そう考えております」


 父王は報告書を閉じた。


「夏に予定していた、お前とサラ嬢の婚礼は延期する」 


「しかし、父上」


 エリオスはすぐには頷けなかった。


 サラとの婚礼は、すでに王太子として受け入れ、公に進めてきたものだ。それをここで動かすなら、相応の理由と説明が必要になる。


「日取りまで公にしたものを今になって延期すれば、混乱を招きます」


「分かっている。だが、このまま進めることもできぬ」


 父王は閉じた報告書へ手を置いた。


「アルヴェイン家がどこまで関わっていたのか、まだ調査は終わっておらぬ。責任の所在も分からぬまま婚礼を行えば、王家まで不正を庇ったと見られる」


 エリオスはそれ以上、婚礼を進めるべきだとは言わなかった。


「……鉄路への支援は、続けるのでしょうか」


「無論だ」


「でしたら、婚礼の延期を知らせる際、鉄路事業は継続すると同時に示した方がよいと思います。王家が事業そのものまで見放したと受け取られれば、再開を待つ職人や資金を出している商会だけでなく、完成を待つ民にも不安が広がります」


「ああ。そのつもりだ。鉄路を続けることと、アルヴェイン家との婚姻は別だ」


 延期を公にする以上、もう一つ決めておかなければならないことがあった。


「婚礼については、調査の結論が出るまで保留とするのでしょうか」


「今の段階では、そうするほかあるまい」


「期限を示せないまま長引けば、王太子の婚姻そのものが揺らいだと受け取られる可能性があります」


「分かっている」


 父王はエリオスを見た。


「長く宙に置くつもりはない。そのことも含めて、すでに考えている」


 何を考えているのかは分からなかったが、父王はそれ以上語らなかった。


「鉄路については、財務と工務から再建案を上げさせる。報告が揃い次第、お前にも見てもらう」


「はい」


「その上で、再開の方針を決める」


「分かりました」


◇


 会議を終えて私室へ戻った頃には、すでに夜も深くなっていた。


 エリオスは持ち帰った資料を机へ置き、未払い賃金と遺族補償についてまとめられた当面の措置案を開いた。確認の済んだ賃金から支払いを始め、遺族への補償は王家の監督下で見直す。その案に署名してペンを置くと、机の脇の引き出しが目に入った。


 ノアがこの部屋を訪れた夜、白いハンカチを隠すようにしまった場所だった。その奥には、レインボームーンストーンのブローチも入っている。


 捨てることもできず、渡すこともできないまま、ずっとそこにあった。


 卒業前日、リリアナの肩へ額を預けたときのことを思い出した。


 あんなことをするつもりはなかった。


 別れ際、ほんの少し近くにいたいと思った次の瞬間には、彼女の肩を借りていた。自分からしておきながら、顔を上げたあとになって、何をしているのだと思った。


 それでも、離れてしまう前に触れたあの温もりだけは、今もはっきり覚えている。


 あれで終わりにするつもりだった。


 エリオスは引き出しには触れず、次の書類を開いた。

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