第24話 軋む鉄路(5)
「リリアナ!」
落下の勢いでリリアナの上半身が窓の外へ沈み、両脚が跳ね上がった。エリオスは窓枠へ身を投げ出し、その腰へ両腕を回す。踏みとどまる余裕はない。彼女を抱え込んだまま、部屋の内側へ全身で倒れ込んだ。
二人の体が床へ叩きつけられる。
リリアナが息を詰めた。だが、目は開いている。身を起こそうとする姿を見て、すぐさま窓へ向き直った。
窓の下から、鉄の軋む音が聞こえる。
男は落ちていなかった。外側へ大きく傾いた鉄柵に、上着の背中側が引っかかっている。男は壁を向いたまま、窓の下で宙吊りになっていた。背中の布を後ろ上方へ引かれ、上半身はわずかに前へ折れ、腰から下が壁沿いに垂れている。先ほどまで焦点を失っていた目には、すでに正気が戻っていた。
胸元に括りつけられた火薬から導火紐が垂れ、その先では火が音を立てて走り、細い煙が上がっている。
「火を消せ!」
男は腹へ手を伸ばした。だが、上着の背を引かれ、上半身が前へ折れた姿勢では、燃えている導火紐まで手が届かない。
エリオスも窓から身を乗り出して腕を伸ばした。しかし、男は窓よりもかなり下にいる。導火紐は見えていても、その火へ直接手を伸ばせる距離ではなかった。
「手を伸ばせ。引き上げる!」
男が顔を上げた。
「俺を?」
「早くしろ!」
「火がついてるんだぞ」
「だから引き上げる! 上へ戻せば、俺が火を消す。早く手を伸ばせ!」
男は、差し出された手を見つめた。
「俺は、人殺しだぞ」
「まだ誰も死んでいない」
エリオスは手を引かなかった。
「お前は、まだ誰も殺していないだろう!」
男の目が揺れる。
エリオスは窓枠へ腹を押しつけるほど身を乗り出した。だが、それでも男の手には届かない。
「手を伸ばせ!俺の手をつかめ!上へ引き上げる。早く!」
男の腕がわずかに持ち上がった。
だが、その視線がエリオスの肩越しへ向く。壊れた窓の向こう、壁際には同じ火薬を詰めた箱がいくつも積まれていた。
このまま鉄柵に吊られていても、ここで火薬が爆発すれば、室内の箱に入った大量の火薬へ火が届くかもしれない。まして引き上げられれば、火のついた火薬を部屋の中へ持ち込むことになる。
「無理なら、火薬を外せ! 下へ捨てろ!」
「もう間に合わない」
「諦めるな!」
火薬を扱ってきた男には、導火紐に残された長さが何を意味するのか分かっていた。
もう一度、差し出された手を見る。
「親父のことを、なかったことにしないでくれ」
「自分で話せ」
エリオスは必死に腕を伸ばした。
「皆の前で、何があったのかを自分で話せ。だから手を出せ!」
男の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「王太子が……あんたみたいな奴で、よかったのかもしれないな」
「そんなことは後で言え。早く!」
男は両足を曲げ、靴底を研究棟の外壁へ押しつけた。それから片方の腕を持ち上げ、引っかかっている上着の袖から抜いていく。
エリオスの顔色が変わった。
「やめろ!」
男はもう片方の腕も袖から抜いた。上着だけが鉄柵へ残り、男の体が支えを失う。
その瞬間、男は両足で壁を強く蹴った。
エリオスの手が、伸ばされた男の腕をかすめる。けれど、つかむことはできなかった。
男の体は火薬とともに、研究棟の壁から離れながら落ちていく。
やがて下から、重いものが地面へ叩きつけられる鈍い音が響いた。
エリオスは空をつかんだ手を引き戻した。だが、窓の外を見下ろしている暇はない。すぐに身を翻し、床に倒れているリリアナへ戻った。
「リリアナ!」
リリアナを抱き起こし、割れた窓から引き離す。数歩進んだところで、彼女を抱えたまま床へ伏せ、その頭を胸元へ押し込んだ。
自分の体で覆った次の瞬間、地面を揺らすような轟音が響いた。
窓の外が白く光り、激しい爆風が割れた窓から吹き込む。残っていた硝子や木片が室内を飛び、壁や床へ次々に叩きつけられた。
炎は室内まで届かなかった。だが、窓から流れ込んだ熱風が、エリオスの腕からこぼれて床へ広がっていたリリアナの長い髪を大きく巻き上げる。窓に近かった毛先が熱に焼かれ、ところどころ黒く縮れた。
轟音が過ぎても、耳の奥では低い音が鳴り続けていた。エリオスはリリアナを抱き込んだまま、すぐには動かなかった。
壁際には、まだ大量の火薬が残っている。室内へ火が入っていないか。二度目の爆発が起きないか。身を固くしたまま、辺りの気配をうかがう。
「……殿下」
腕の中からリリアナが呼んだ。
その声を聞いた途端、エリオスの腕がわずかに緩んだ。すぐに体を起こし、リリアナの両肩をつかむ。
「リリアナ。俺が分かるか」
「はい」
「頭は打っていないか。どこか痛むところは」
返事を待ちきれないように、エリオスの目がリリアナの顔から頭、肩へと動いた。殴られた頬は赤く腫れ、衣服は土と硝子の破片で傷つき汚れている。長い髪も熱に焼かれ、毛先がところどころ黒く縮れていた。
そして、裂けた左手の手袋は、内側まで血に濡れている。
「手を見せてくれ」
リリアナはとっさに左手を胸元へ引いた。傷を隠すというより、手袋の下にあるものを見られまいと庇うような動きだった。
「指輪のことなら、知っている」
リリアナが息を呑む。
「以前、研究棟で君が倒れた時に見えてしまった。今は何も聞かない。だから、手を見せてくれ」
「ですが……」
「血を止める方が先だ」
強い口調ではなかった。ただ、焦りを押し隠す余裕さえない声だった。
リリアナはためらいながら左手を差し出した。
エリオスは傷へ触れないよう、裂けた手袋を少しずつ外していく。布が血で貼りついており、剥がれるたびにリリアナの指先が震えた。
掌には、硝子で切った傷が深く残っていた。流れた血が指先まで伝い、左の中指につけられた銀色の指輪も赤く濡れている。
「指を動かせるか」
リリアナがゆっくりと指を曲げる。
動くことを確かめると、エリオスは上着の内側から自分のハンカチを取り出した。何度か折り畳み、傷口へ当てる。
「痛むぞ」
布の上から圧迫すると、リリアナの肩が小さく跳ねた。
「すまない。だが、止血しなければならない」
「大丈夫です」
ハンカチへ、すぐに赤い色がにじみ始める。
エリオスは片手で傷口を押さえたまま、制服の襟元に結ばれていたクラバットをほどいた。ハンカチがずれないよう、掌から手首へ慎重に巻きつける。それから手首を支え、傷ついた手を胸元より少し高い位置へ持ち上げた。
「このまま動かさないでくれ。ほかに痛むところは」
「本当に、大丈夫です。それより、殿下は……」
リリアナの目が、エリオスの顔から肩、腕へと動く。
「お怪我はありませんか」
「俺は大丈夫だ」
「爆風を受けていました」
「どこも怪我はしていない。服が汚れただけだ」
「本当に?」
「ああ。本当に何ともない」
リリアナはその顔を見つめ、肩や腕にも傷がないことを自分の目で確かめた。
張り詰めていた体から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……よかった」
心の底から安心した声だった。
その一言に、エリオスの指が止まりかける。
八年前の祝祭の夜の光景が、不意に脳裏をよぎった。
背後から迫った刃。
自分を突き飛ばし、代わりに斬られた小さな子ども。
石畳へ倒れ、血を流しながら、その子はエリオスの無事を確かめるように見上げた。
「……よかっ、た」
あの子も、そう言った。
傷ついたのは自分なのに、エリオスが無事だったことに安堵していた。
今、目の前にいるリリアナも同じだった。縛られ、殴られ、掌を切り、男とともに窓から落ちかけた。髪は熱に焼かれ、全身が傷と汚れにまみれている。巻いたばかりのハンカチにも、すでに赤い血がじわりと広がっていた。
それなのに、エリオスに傷がないと分かっただけで、安心した目をしている。
男が投げつけた言葉まで、耳の奥によみがえった。
王太子は、何もしなくても誰かが先に危険へ気づく。誰かが前に出て、代わりに傷つく。そうして、誰かの犠牲の上に立っている。
「どうして……」
「殿下?」
「どうして君は、そんな状態で俺の無事を喜べるんだ」
リリアナは戸惑ったように目を瞬いた。
「殿下にお怪我がなかったからです」
「君は死ぬところだった」
声は責めるものではなかった。ただ、押し殺しきれない恐怖に震えていた。
「俺の手が届かなければ、君もあの男と一緒に落ちていた。分かっているのか」
リリアナは答えられなかった。
あの瞬間は、男と火薬をエリオスから遠ざけることしか考えていなかった。自分がその後どうなるのかまでは、考える余裕などなかった。
その沈黙に、エリオスは目を伏せた。
「扉が開いた時も、君は自分を助けろとは言わなかった。俺に来るなと言った」
「殿下まで巻き込まれるわけにはいきませんでした」
「自分を人質にして、俺だけを外へ出そうともした」
「調査を始めさせるためには、あれが一番確実だと思ったのです」
「分かっている。君が間違っていたと言いたいんじゃない」
リリアナが動かなければ、火薬は室内で爆発していたかもしれない。大量の火薬に引火し、もっと多くの人間が巻き込まれていた可能性もある。男を止めたのが彼女であることも、分かっている。
だからこそ、何を言えばいいのか分からなかった。彼女を責めることなどできない。けれど、自分だけが無傷で残ったことを、喜ぶこともできなかった。
あの日は、名も知らない子どもが代わりに傷ついた。先ほどは、男が火薬を抱えたまま落ちていった。そして今度は、リリアナまでが血を流している。
男が言ったとおりだった。
王太子であるエリオスの命だけが、いつも先に数えられる。
名も知らないあの子どもよりも、目の前で落ちていった男よりも、リリアナよりも。
「俺は、君にこんなことをしてほしくない」
エリオスは顔を上げた。
「俺を守るために、君が傷つくところなど見たくない」
リリアナが何かを言おうとしたが、エリオスの言葉は止まらなかった。
「王太子だからというだけで、俺の命ばかりが先に守られる。誰かが代わりに傷つき、命を差し出し、俺だけが無傷で残る」
巻いたクラバットに、また新しい血がにじんでいく。エリオスはそれを見つめたまま、掠れた声で続けた。
「君の命まで危険に晒さなければ守れないような王太子の命なら、そんなものは、俺は――」
リリアナの右手が、エリオスの口を塞いだ。
「それ以上、言わないでください」
その手も震えていた。
リリアナの目から一粒の涙がこぼれ、次から次へと赤く腫れた頬を伝っていく。
「そんなことを、言わないでください。あなたが王太子だからではありません」
エリオスが目を見開く。
「国に必要な方だからでも、あなたの命が私の命より重いからでもありません。私の命が軽いからでもありません」
エリオスは、口元を覆う手を振り払えなかった。
「あなたが、あなただからです」
リリアナの唇が震える。
「あなたがエリオスだから、死んでほしくないんです。生きていてほしいんです。あなたが無事で、本当によかった」
涙がエリオスの胸元へ落ちた。
「だから、いらないなんて言わないでください。お願いです。あなたの命を、そんなふうに言わないで」




