第19話 君の色(2)
数日後の放課後、中庭近くの回廊は、授業を終えた生徒たちの足音が少しずつ校舎の外へ流れていく時間だった。
昼間より人は少ない。
そのぶん、立ち止まって交わされる視線や、ひそめた声だけが妙に耳につく。
資料を抱えたリリアナが角を曲がると、
空気がわずかに変わった。
視線がいくつも刺さる。
あからさまではない。
もっと柔らかく、もっと曖昧で、
だからこそ逃げにくい種類の視線だった。
笑いを含んだ囁きが重なる。
――またか。
リリアナは足を止めない。
歩幅も乱さない。
ここは、そういう場所だ。
そう言い聞かせるように進んだ先で、
また数人の令嬢たちが通路を塞ぐように立っていた。
中心にいるのは、公爵令嬢イザベラ。
髪も、
姿勢も、
仕草も、
非の打ちどころなく整っている。
そして、その笑みだけが妙に整いすぎていた。
崩れない。
本心を見せない。
だからこそ、その微笑みは薄く冷たく見えた。
「バルディエ様」
やさしい声だった。
けれど、温度がない。
リリアナは立ち止まり、
片手に資料を抱えたまま礼を返す。
「ご用件は」
「まあ、堅いのね」
イザベラはわずかに首を傾げ、
上品に笑った。
「生徒会でのご活躍、伺っておりますわ」
「ありがとうございます」
形式通りの返答だった。
その返事を待っていたように、
イザベラは続ける。
「でも、驚きましたわ」
笑みは崩さない。
「だって、生徒会って――
“選ばれる側”の場所でしょう?」
「それが民政課程から、
しかも、商会の家の方だなんて」
小さく息をつく。
「最近は、いろいろなことを仰る方がいらして」
取り巻きたちが、
その先を待つように目を見交わす。
イザベラは困ったように微笑んだ。
「ほら……
金にがめつい家ですとか、
金のことしか頭にないのではとか」
「そんな、ひどい言い方をなさる方もいらっしゃるでしょう?」
声音はあくまでやわらかい。
「わたくし、ああいう言い方はあまり好きではありませんの」
そう言いながら、
少しも止める気はない。
むしろ、
“自分は違います”という顔をしたまま、
いちばん丁寧に貶していた。
「けれど、そういうふうに見られてしまうお立場というのも、
おつらいことですわよね」
取り巻きの一人が、
すぐに同調するように口を挟む。
「たしかに……
誤解されやすい家というのはありますわよね」
「ええ。
しかも生徒会でしょう?」
別の令嬢が扇の陰で笑う。
「手を回したのではとか、
お金を積んだのではとか、
そういうことを言う方までいるくらいですもの」
「まあ、ひどい」
言いながら、
誰一人ひどいとは思っていない顔だった。
直接は言わない。
けれど、意味だけはきれいに残す。
そのぶんだけ、
悪意は長く空気に留まった。
リリアナは視線を逸らさない。
指先に入っていた力だけを、
意識して少し抜く。
ここで感情を見せれば、
相手が喜ぶだけだ。
「選考は会長と顧問の判断です」
静かに言う。
「私の家が関わる余地はありません」
「ええ、もちろん」
イザベラはすぐに頷く。
「そのようなこと、
わたくしはひと言も申しておりませんわ」
それが、かえって露骨だった。
その視線が、
今度はリリアナの髪へ滑る。
「……それに」
少しだけ間を置く。
「最近は、
ノア殿下と随分とご一緒ですのね」
ざわ、と空気が揺れた。
「生徒会でも、
研究棟でも」
「まあ……
あの方はお優しいから」
やわらかな声のまま続ける。
「殿下に気にかけていただけるのは、
とてもありがたいことでしょうけれど」
少し置いてから、
イザベラは声を落とした。
「人気のない場所で、
男女お二人で過ごされるとなると……
周囲はいろいろ考えてしまいますものね」
取り巻きの令嬢たちが、
口元を隠して微笑む。
イザベラは困ったように眉を下げた。
「こういうことは申し上げたくないのですけれど」
「リリアナ様のお色を、
気になさる方は昔からおりますでしょう?」
「口に出すのは品がないと思いますの。
ですから、わたくしは申しませんけれど」
言っているのと同じだった。
「ただ……
殿下のお立場を思うと、
わたくし、少し心配で」
「何かよくないことが起きてからでは、
遅いではありませんか」
取り巻きの一人が、
わざとらしく息を呑む。
「まあ、イザベラ様、お優しい」
「でも分かりますわ。
誰かが申し上げないといけませんもの」
「殿下はお優しいから、
ご自身では仰りにくいでしょうし」
イザベラはそこで、
さらにやわらかく微笑んだ。
「ええ。だからこそ、
周りが気をつけて差し上げないといけませんわね」
その言い方に、
取り巻きたちの肩が小さく揺れた。
分かっていて、楽しんでいる。
その気配だけが、妙に濃かった。
リリアナの指先が、
ほんの少しだけ白くなる。
言い返せる。
否定もできる。
でも。
髪の色。
瞳の色。
それを見て何かを言いたがる人間には、
もう飽きるほど出会ってきた。
――不吉。
そう思われること自体は、
もうどうでもよかった。
自分が何を言われようと、
あの人に何もなければそれでいい。
そう決めている。
けれど。
今ここで、
ノア殿下までそういうものに触れるみたいに言われるのは、
嫌だった。
リリアナは息を整える。
「ご心配には及びません」
声は低く、
必要な分だけ落ち着いていた。
「殿下は、ご自身で危険を判断なさる方です」
イザベラは目を細める。
「まあ。ずいぶん信頼していらっしゃるのね」
そのときだった。
足音がした。
迷いのない一歩で、
ノアが間に入る。
令嬢たちの視線が一斉に向く。
「その話は俺のことだろう」
声音に感情は乗っていない。
だからこそ、余白がなかった。
イザベラの笑みが、
ほんの一瞬だけ固まる。
「ノア殿下……」
ノアは表情を変えないまま言った。
「生徒会の選考は正式な手順を踏んでいる」
「それを疑うなら、
会長と顧問の判断まで疑うことになる」
短く、淡々と続ける。
「そもそも」
少しだけ声を落とす。
「色に理由をつけて人を測るような話を、
俺は信じない」
取り巻きたちの表情が揺れる。
イザベラの口元も、わずかに引きつった。
「……誤解があってはいけませんから、
少しお話していただけですわ」
「そうか」
ノアはそれ以上広げなかった。
それからリリアナを見る。
「行こう」
短い声だった。
「研究棟へ行くんだろう」
リリアナは一瞬だけ目を上げる。
「……ええ」
「ここにいても不快になるだけだ」
そう言って、
ノアは迷いなくリリアナの手を取った。
ノアはそのまま歩き出す。
リリアナは一歩遅れず、
その隣についていった。
背を向けたあとも、
イザベラの視線はそこに残っていた。
その目はまずノアを追う。
一瞬だけ、
はっきり傷ついた顔になった。
それはすぐに消えたが、
遅かった。
痛みを押し殺したような、
きつい目だった。
それから、
ゆっくりとリリアナへ移る。
唇は笑っていた。
けれどそこにあったのは、
先ほどまでの上品さではない。
飲み込みきれない屈辱と、
忘れないと決めた者の冷たさだった。
やがて足音が遠ざかり、
回廊に静けさが戻る。
その少し離れた渡り廊下の先に、
エリオスはいた。
最初からではない。
だが、途中で気づいた。
人だかりの中に、
リリアナの色を見つけたとき、
足はもうそちらへ向いていた。
侮蔑を含んだ囁きと、
笑い声が聞こえたときには、
身体も動いていた。
けれど、
少し遠かった。
間に合うと思った瞬間には、
ノアの方が先に中へ入っていた。
短い断言。
迷いのない立ち位置。
そして、
リリアナの手を取ってそのまま連れ出していく動き。
あれで十分だった。
十分だと、
分かっている。
エリオスは速めていた足を止める。
伸ばしかけた手を、
静かに下ろした。
よかった、と思う。
少なくとも、
あの場でこれ以上リリアナが言葉を向けられずに済んだ。
自分が出るより早く、
ノアが間に入れたことも。
それでよかったはずなのに。
ノアに連れられて去っていく後ろ姿から、
目が離せなかった。
怒りではない。
助けられなかった悔しさとも、
少し違う。
もっと曖昧で、
もっと言葉にならないものだった。
足を向けた。
手も伸ばしかけた。
それなのに、
最後にそこへ届いたのは自分ではなかった。
ただそれだけのことなのに、
胸の奥に残るものが妙に重い。
エリオスはゆっくりと踵を返す。
何事もなかったように。
王太子らしく、
乱れのない歩幅で。
けれど、
引き返したあとも、
下ろした手の感覚だけが消えなかった。
触れてもいないはずの手のひらが、
なぜかひどく空いていた。




