第24話 軋む鉄路(4)
「分かった。動かない」
エリオスは両手をゆっくりと体の脇へ下ろし、その場に立った。
どうして、この人が来てしまったのか。もし男が火をつければ、エリオスが死ぬ。それだけは嫌だった。
男がエリオスの顔を見る。その目が、わずかに見開かれた。
「……王太子か」
誕生祭のたび、王太子は王宮前広場で民衆の前へ姿を見せる。男も、その顔を見たことがあるのだろう。口元がゆっくりと歪んだ。
「探す手間が省けたな」
エリオスは答えなかった。
男の視線が、整えられた髪から汚れひとつない制服へ、ゆっくりと下りていく。
「きれいなもんだな、王太子様は。俺らとは、えらい違いだ」
男は土と煤に汚れた袖で、自分の頬を拭った。汚れは落ちず、黒い筋が横へ広がっただけだった。
「彼女を放せ」
「命令か?」
「取引だ。彼女を外へ出せ。代わりに俺が残る」
「駄目です。早く、ここから離れてください」
「黙れ」
男は二人を見比べ、低く笑った。
「王太子。お前、この女を助けに来たんだろ。それなのに、捕まってる方がお前を逃がそうとしてる」
エリオスは答えず、男を見据えた。
男が何を望み、何をきっかけに火をつけるのか、まだ分からない。下手に動くことはできない。まずは話をさせ、その目的と、火をつけさせずにリリアナを助ける方法を探るしかなかった。
「俺を探していたのなら、要求を言え」
男の顔から笑みが消えた。
「知ってるか。南の鉄路工事で事故があった。俺の親父が死んだ事故だ」
男は、先ほどリリアナへ語った事故の経緯を、今度はエリオスへ吐き捨てるように話した。
作業員たちが斜面の亀裂を訴えたにもかかわらず発破が行われ、父親が崩れた岩の下敷きになったこと。事故の責任を死んだ父親へ押しつけるため、報告の書付も帳簿も書き換えられ、家族にはわずかな弔慰金しか残されなかったこと。
「南部鉄路か」
エリオスの声が低くなる。
「王家も後ろ盾になり、国庫からも金を出している。だが、その事故については報告を受けていない」
男の顔が歪んだ。
「国を挙げて進めてる工事で、人が死んだことすら上には届かないっていうのか」
「知らなかった」
「それで済むのか」
「済ませない」
エリオスは男から目を逸らさなかった。
「事故について調べる。消された記録も追う。王家にも責任がある。関わった者には責任を取らせる」
「あいにくだな。もう、貴族の言葉は信じない」
男は窓の外へ目を向けた。
「親父は死んだ。何を訴えたって、都合が悪けりゃ消される。こんな世界で生きてたって、何になる」
「口約束では信用できないというのなら、私の身柄を預けます」
リリアナが言った。
「私を人質にしてください」
エリオスが彼女を見る。
「リリアナ」
「私はもう、お前を捕まえてる」
「今の私は、ただ一緒に吹き飛ばされるだけの巻き添えです。そうではなく、あなたの要求を通すための人質にしてください」
男の視線がリリアナへ向いた。
「私をここに残したまま、殿下に要求してください。王宮と、鉄路事業を管轄する役所を動かせば、記録を出させることも、事故に関わった者を調べさせることもできます」
男は黙ったまま、リリアナを見ている。
「バルディエ家の当主にも連絡を取らせてください。商会の帳簿を調べれば、火薬の納品先も、現場へ命令を出した者も追えます」
「リリアナ!」
エリオスの声が鋭くなった。それでもリリアナは、男から目を逸らさなかった。
「記録が出され、調査が始まるまで、私はここに残ります。だから今は、火をつけないでください」
男の目が細くなる。
「自分を人質にして、王太子に要求を突きつけろっていうのか」
「そうです」
「王太子は外へ出せと?」
「殿下には外から、あなたの要求を実行していただきます。ここに残す必要はありません」
男は胸元に括りつけた火薬を指で叩いた。
「要求が通らなければ、お前もここで吹き飛ぶ。命はないぞ」
「分かっています」
リリアナはエリオスへ顔を向けた。
「お願いです。ここから出てください」
「君をここに置いていけるわけがない」
男はしばらく二人を見比べた。
縛られ、殴られ、血を流しているのはリリアナだ。火薬のすぐそばにいるのも彼女だった。それでも、自分を助けてほしいとは一度も言わず、エリオスをこの部屋から出そうとしている。
「自分が吹き飛ぶのは構わないのか」
リリアナは答えなかった。
男の口元が歪む。
「立派な臣民だな。王太子が助かるなら、自分はここに残ってもいいらしい」
「リリアナ、やめろ」
エリオスの声が大きく揺れた。
「俺を助けるために、自分を差し出すな」
男が鼻で笑った。
「王太子様の命は、そこまでして守る値打ちがあるらしいな」
その笑みが消える。
「俺の親父が岩の下で死んだ時は、誰も助けなかった。死んだ後も、名前さえ残らなかった。勝手なことをして死んだ奴にされて、わずかな金で終わりだ」
男は胸元の火薬を指で叩き、エリオスを真正面から見た。
「あいつらにとって、親父の命は銅貨一枚ほどの値打ちもなかった。じゃあ、王太子様」
男は上着のポケットへ手を入れ、小さな発火具を取り出した。
「お前の命は、金貨何枚分だ」
リリアナの息が止まった。男の親指が、発火具の金具へかかっている。
「お前は何もしなくても、誰かが先に危険に気づく。誰かが前に出て、お前の代わりに傷つく」
男の視線がリリアナへ移った。
「そうやって、誰かが傷ついて、誰かが命を差し出す。その犠牲の上に、お前は立ってるんだな」
「違います。殿下は、誰にも犠牲になれなどと求めていません」
「求めなくても、差し出す奴がいる」
男はリリアナを見た。
「お前みたいにな」
「お願い、やめて」
男の指が、発火具の金具をわずかに動かした。
「その人には何もしないで。私はどうなってもいいから。お願い……」
リリアナは、発火具を握る男の手を見つめていた。目を離した隙に指が動くのではないかと思うと、まばたきさえできなかった。
声が震えている。
その顔に浮かんでいたのは、自分が死ぬことへの恐怖ではなかった。目の前でエリオスを失うことへの恐れだけが、隠しようもなく表れていた。
男の指が止まった。
父親が崩れた斜面に呑まれ、手を伸ばしてもどうすることもできなかった日の恐怖は、今も男の胸に残っている。目の前のリリアナが抱えているものが、その痛みと重なったのだろう。
顔から嘲るような笑みが消えた。発火具を握る手から少しずつ力が抜け、怒りに濁っていた目に迷いが浮かぶ。
「……本当に、親父のことを調べるのか」
「調べます」
リリアナは迷わず答えた。
「失われたものをすべて戻せるとは言いません。それでも、お父様がどこで、誰の命令によって亡くなったのかを、なかったことにはさせません」
男の視線が揺れる。
「父親の名を教えてくれ」
エリオスも静かに続けた。
「記録に戻す。事故に関わった者も調べる」
発火具を持つ手が、ゆっくりと下がり始めた。
「親父の名は――」
男の唇が動く。
だが、名前になる前に、瞳からふいに焦点が抜け落ちた。
「……嘘だ」
男の声に、別の細い声が重なった。リリアナには、女の声のように聞こえた。
「どうせ、嘘だ」
エリオスも、男の声に混じった異様な響きに眉を寄せた。
男の目はエリオスへ向いている。けれど、今ここにいる彼ではなく、その向こうにいる別の誰かを見ているようだった。
「そんなことを言っても、私を忘れる」
男の声と、細い女の声が重なる。
「私を忘れて、ほかの女を選ぶ」
「お前だけ幸せになるなんて、許さない」
下がりかけていた男の手に、再び力が入った。
「やめて!」
リリアナの声が響き、エリオスが床を蹴る。
男の親指が動いた。
金具が擦れ、火花が散る。細い導火紐の先に火がついた。
その瞬間、リリアナは背中側で握っていた硝子片を、麻紐へ深く食い込ませた。それまで少しずつ傷をつけていた箇所へ、残った力を一気にかける。
ぷつり、と麻紐が切れた。
自由になった両手を前へ引き抜き、硝子片を投げ捨てる。そのまま床を蹴った。
男は反応しなかった。焦点の合わない目で、導火紐を走る火を見下ろしている。
男のすぐそばにいる自分の方が、エリオスよりも早く届く。
「リリアナ!」
エリオスの声と同時に、リリアナは男の脇腹へ、肩から体ごと思いきりぶつかった。
男の体が大きくよろめいた。押し込んだ勢いのまま、リリアナと男は背の高い窓へ突っ込む。
硝子が激しい音を立てて砕けた。二人の体は、その向こうにある古い鉄柵へ叩きつけられる。
壁へ打ち込まれていた片側の留め具が、鈍い音を立てて外れた。鉄柵が二人の重みを受けたまま、外側へ大きく傾く。
男の体が先に柵を越えた。傾いた鉄柵に支えを失い、リリアナの体もその上を滑るように窓の外へ投げ出される。
足先が窓枠を離れた。
「リリアナ!」
エリオスが、落ちていく彼女へ手を伸ばした。




