第24話 軋む鉄路(3)
意識が戻った時、リリアナの頬は冷たい床に触れていた。頭の横が、脈を打つたびに痛む。最後に覚えているのは、人を呼ぼうとして談話室を出たところまでだった。扉のすぐ脇で黒い影が動き、振り向くより先に、硬いものが頭の横へ当たった。その先の記憶はない。
息を吸おうとして、口の中に布を押し込まれていることに気づいた。両手首は背中側へ回され、荷包みを括るための細い麻紐が何重にも巻かれている。足首も同じだった。手近にあったものを使ったのか、巻き方は乱れているが、きつく締め上げられていた。
リリアナは目だけを動かした。ここは研究棟二階の談話室だ。暖炉の周りに積まれていた古い布や紙束は、すでに運び出してもらった。暖炉にも覆いをかけ、使えないようにしてもらった。あの火事は防いだ。そのはずだった。
けれど、壁際には古い棚や工具、木箱、使われなくなった実験器具が積み上げられ、その奥には金具で補強された小さな箱がいくつも並んでいた。工事用の火薬を運ぶ箱だった。
火事を防いだ場所へ、今度は火薬が持ち込まれている。前よりも、ずっと悪い。
「目が覚めたか」
扉の近くから男の声がした。
「まさか、あの時の灰色の髪の貴族だったとはな」
以前、廊下で荷車とぶつかりかけた作業員だった。
あの時は一瞬すれ違っただけだった。それでも今、土に汚れた頑丈な短靴と黒ずんだ袖を見た途端、鼻をかすめた臭いまでよみがえった。汗と土の臭いに混じっていた、何かが焦げたような臭い。
やはり、この男だったのだ。
上着の前が不自然に膨らんでいる。胸から腹にかけて、厚い布で包まれたものがいくつも括りつけられていた。奥の箱から抜かれた火薬の包みだ。
まさか、この男は自分ごと吹き飛ぶつもりなのだろうか。
なぜ。何のために、こんなことを。
男の体に括りつけられた火薬だけでも、この部屋にいる者は助からない。さらに、その爆発が壁際の箱へ届けば、残りの火薬まで一斉に爆ぜる。研究棟だけでは済まない。大講義室のある講義棟や、二つの建物をつなぐ渡り廊下まで吹き飛ぶかもしれない。
どれほどの間、気を失っていたのか分からない。リリアナは昼休みのうちに教室へ戻るつもりで、ここへ来た。もしすでに午後の講義が始まっているのなら、講義棟には大勢の生徒が集まっている。
そこにエリオスがいたなら、ひとたまりもない。
危険を一つ取り除いても、別の形で現れる。エリオスを死なせる結果だけが、姿を変えながら追ってくるようだった。
リリアナは手首をひねり、麻紐の結び目を探った。引いても緩まない。誰かが気づくのを待ってはいられなかった。何があっても、ここで爆発させてはいけない。
男は立ち上がると、リリアナの前へしゃがんだ。
「これが何か分かるか」
腹へ括りつけた包みを指で叩く。
「火薬だ。ああ、お嬢さんには馴染みがないか」
男は口元を歪めると、上着のポケットから小さな金属製の発火具を取り出した。親指で金具を擦ると、先端に小さな炎が立つ。
リリアナの体が強張った。
男はその反応を確かめてから炎を消し、発火具を再びポケットへしまった。
「これが導火紐に触れれば、お前も、この学院も粉々だ」
それから、リリアナの口元へ手をかける。
「今から口の布を外す。騒げば、その場で火をつける」
リリアナがうなずくと、男は布を乱暴に引き抜いた。喉がひりつき、咳が漏れる。手が使えないため、肩を床へ押しつけながら体を起こし、どうにか壁へ背を預けた。
「何をするつもりですか」
「見れば分かるだろ」
男は窓際へ歩いた。背の高い窓は閉じられ、内側から留め金がかかっている。その向こうには、外壁に取りつけられた古い鉄柵が見えた。
男の向こう、窓越しに、昼食を終えたらしい生徒たちの姿が小さく見えた。何も知らず、友人たちと話しながら、大講義室のある棟へ向かっている。
男はしばらく、その姿を黙って見下ろしていた。
「どうせ、もうすぐ全部終わる」
やがて独り言のように続ける。
「まあ、教えてやってもいい。最後に一人くらい、知ってる奴がいてもいいだろ」
「何をですか」
「親父が、どうやって死んだかを」
男は窓の外を見たまま話し始めた。
「俺も親父も、南の岩場で働いていた。鉄路を通すために、岩を切り崩す工事だ。最初から無茶な日程だった。遅れを取り戻せ、もっと早く進めろって、そればかりだった」
リリアナは黙って聞いた。男は返事を求めることもなく、話を続けている。その間に、発火具をしまったポケット、扉までの距離、壁際に積まれた道具を順に見る。拘束を切れそうなものは見当たらなかった。
「岩盤には大きな亀裂が入ってた。このまま発破をかければ、切り崩す場所だけじゃなく、上の斜面まで崩れる。親父たちは何度もそう言った。それでも止めなかった」
男の手に力が入る。
「予定どおり発破をかけた。狙った岩だけじゃない。上の斜面ごと崩れた」
父親は命じられた持ち場にいた。逃げる間もなく、落ちてきた岩の下敷きになった。
「なのに、死んだ後は、勝手に持ち場を離れたことにされた。親父は、言われた場所で働いてただけなのにな」
男の声は、かえって不自然なほど平らだった。
「次の日には、親父が死んだ場所へ別の人夫を入れて、また工事を始めた。代わりはいくらでもいるとでも言うみたいにな」
男が乾いた笑いを漏らす。リリアナは箱の陰や、積まれた道具へ視線を走らせたが、刃物になりそうなものは見えない。
「ここには、貴族の子どもが大勢いる。何十人か死ねば、さすがに小さな事故じゃ済まないだろ」
「ここにいる生徒は、その事故とは関係ありません」
「関係がない?」
男が振り返った。
「あの工事を急がせた連中も、事故を握り潰した連中も、みんな貴族だ。ここにいるのは、そいつらと同じ場所で生きてる奴らだろ」
「それでも、まだ何もしていない人たちです」
「こいつらも、いずれ親と同じ席に座る。人に命令して、誰かが死んでも、紙の上から消して終わりだ」
「だから、その人たちまで殺すのですか」
「俺の親父が死んでも、誰も何とも思わなかった。ここの連中が死ねば、少しは分かるだろ」
男の視線が、窓の向こうにある講義棟へ移る。
「この学院には、王太子もいるんだろ」
リリアナの背筋が冷えた。
「王太子が死ねば、今度こそ国中が調べる。親父の死みたいに、小さな事故でしたじゃ済まない」
この男は、王太子まで巻き込むつもりなのだ。エリオスへ知らせる手段はない。ならば、何としてもここで止めるしかない。
「私は、バルディエ商会の娘です」
リリアナは男の目を見た。
「商会の帳簿を調べられます。火薬の納品記録も、現場へ誰が命令を出したのかも追えます。必要なら、王宮へ訴えることもできます」
男の眉が動いた。
「あなたの望みを、すべてかなえられるとは言いません。それでも、何があったのかを調べることはできます。お父様の事故を、なかったことにはさせません」
「嘘をつくな!」
男の怒声が部屋の中へ響いた。それまで平らだった顔が激しく歪む。
「工事を仕切ってた奴も、同じことを言った! 事故は必ず調べる。家族にも説明する。だから待てってな!」
男が一歩、リリアナへ近づく。触れてはいけない場所へ、足を踏み入れてしまった。
「待ってる間に、全部消した。事故から三日もしないうちに、亀裂を報告した書付はなくなった。帳簿は書き直されて、現場に残ってたものも運び出された。親父と同じ持ち場にいた奴らには、余計なことを言うなと口止めした」
握りしめた拳が震えている。
「家族に渡されたのは、わずかな弔慰金だけだ。それで全部終わったことにされた」
男は、腹へ括りつけた包みを叩いた。
「現場じゃ、火薬の数さえまともに合ってなかった。減っていれば帳簿を書き直して、足りない分をまた取り寄せる。それで終わりだ。俺が何箱持ち出しても、誰も気づかなかった」
壁際に積まれた箱へ目を向ける。
「調べると言って、その間に全部消したんだ。今さら何を調べる。残ってるのは、あいつらに都合のいいものだけだ!」
「私は――」
「貴族も役人も、口では何とでも言う! 証拠を消した後で、そんな事実はありませんでしたってな!」
「私は、何があったのかを――」
「お前に何が分かる!」
「分かりません」
リリアナが答えると、男が言葉を止めた。
「お父様を失ったあなたの気持ちは、私には分かりません。けれど、ここで大勢を殺せば、お父様の死は、あなたが人を殺した理由としてしか残りません。本当に知ってほしかったことは、何も伝わらなくなります」
「親父を」
男の頬が引きつった。
「お前の口で語るな」
男の手が振り抜かれた。頬へ強い衝撃を受け、リリアナの体が横へ倒れる。肩が壁際の木箱へぶつかり、中に置かれていた古い硝子器具が床へ転がり落ちた。
甲高い音を立てて割れ、透明な破片が散らばる。背中側へ回された左手が、その上へ押しつけられ、手袋が裂けた。掌へ鋭い痛みが走り、息が詰まる。
「余計なことを言うな」
男は倒れたリリアナを見下ろした。
「お前には恨みはない。運が悪かったと思え」
男は再び窓の方へ向いた。
リリアナは顔を伏せたまま、左手の指を動かした。指先へ、細長い硝子片が触れている。握れば、傷はさらに深くなる。それでも、ほかに使えるものはなかった。
声を漏らさず、硝子片を掌の中へ引き寄せた。
◇
昼休みの初め、エリオスは渡り廊下の先に灰色の髪を見つけていた。食堂へ向かう生徒たちの流れとは逆に、リリアナは一人で研究棟の方へ歩いていく。
何の用だろう。
近頃、見ないようにしていても、視界の端に灰色が入れば、考えるより先に目がそちらへ向いた。見つけてしまえば、今度は姿が消えるまで追ってしまう。
人の間を抜けていく細い背中を見る。リリアナが研究棟へ曲がる直前、肩へ落ちた髪が光を受け、わずかに銀色を帯びた。エリオスがいることにも気づかないまま、角の向こうへ消えていく。
それでも、すぐには前を向けなかった。
何をしているんだ。
自分を咎めるように視線を戻す。彼女の姿を探すことを、これ以上当たり前にしてはいけない。自分が目で追っていい相手ではないのだ。
そう言い聞かせても、灰色の髪が消えた場所だけが目に残った。
エリオスは王族用の小食堂へ向かった。昼休みの終わりが近づくと、講義棟の大講義室で行われる午後の合同講義へ向かった。
中庭を回る道もあったが、一年生の民政科の教室前を通る方が、ほんの少しだけ近い。最近、こちらを通ることが増えていた。距離のせいだと思えば、自分にも言い訳ができた。
廊下に面した教室の扉は開いていた。前を通りながら、ほんの一瞬だけ中へ目を向ける。普段なら、休み時間にも教本を開き、真面目な顔で次の授業の予習をしているリリアナがいる。周囲が話していてもほとんど顔を上げず、エリオスが前を通っても気づいたことはない。
この人には、何も考えずに休む時間があるのだろうか。前を通るたび、何度かそんな余計なことを考えた。
今日は、灰色の髪が見えなかった。
「リリアナさん、まだ戻ってこないわね」
教室の中から、女子生徒の声が聞こえた。
「次の講義、私が当てられる番なの。ここだけ分からないから、聞こうと思っていたのに」
「いつもなら、この時間には必ず席についているのに。どうしたのかしら」
エリオスは、そのまま数歩進んだ。午後の講義へ向かうべきだった。リリアナは、自分が提案した談話室の改修がどうなったか、確かめに行っただけかもしれない。まだ戻る途中なのかもしれない。
自分が捜しに行くほどのことではない。
そう考えようとしたが、以前の出来事が頭をよぎった。
リリアナが研究棟の空き部屋へ閉じ込められた時、扉を破って入ったエリオスが見つけたのは、濡れた髪を頬へ張りつかせ、冷たい床へ倒れている彼女だった。抱き上げた体も、握った指先も、ひどく冷たかった。
また、助けも呼べない場所で倒れていたら。
何もなければ、それでいい。ただ確認するだけだ。
そう結論づける前に、足はすでに大講義室とは反対の方向へ向かっていた。
研究棟が近づくにつれ、歩みが速くなる。考えすぎだと思いながらも、足を止めることができなかった。
気づけば、研究棟の前まで来ていた。搬出作業員たちも昼食へ出ているのか、荷車だけが壁際へ寄せられている。辺りに人の姿はない。
ただ確かめるためだけにここまで来た自分を持て余し、エリオスは足を止めた。その時、研究棟の中から硝子が割れる甲高い音がした。
二階の、談話室がある辺りだった。
エリオスは研究棟の扉を開け、階段を駆け上がった。
◇
リリアナは倒れた姿勢のまま、足首を縛っていた麻紐へ硝子片を当てていた。男に気づかれないよう、背中側で少しずつ動かす。
硝子が掌の傷へ食い込み、裂けた手袋の内側へ血が広がった。刃先が滑り、足首の皮膚をかすめる。痛みで指が震えたが、手は止めなかった。
説得できないなら、発火具を奪う。扉まで走り、誰かを呼ぶ。それも無理なら、男へ体当たりしてでも止める。
足首の麻紐が少しずつ細くなり、やがて切れた。リリアナはまだ縛られているように両足を揃えたまま、次は背中側の手首へ硝子片を当てる。
その頃、エリオスは二階の廊下を進んでいた。談話室の手前に、白いものが落ちている。
拾い上げると、薄い絹のハンカチだった。以前、サラが新しい衣装の布地を見せ、バルディエ商会でしか扱っていない絹だと話したことがある。その時に指先へ触れた、なめらかな感触によく似ていた。
白い布の片隅には、かすれた黒い筋と、薄くなった染みが残っている。その一部に重ねるように、淡い緑の葉が一枚だけ刺されていた。
リリアナのものかもしれない。
白い布を握る指へ力が入った。
談話室の扉は閉じていた。中から声は聞こえない。廊下の奥を見ても、搬出作業員や教師の姿はなかった。
先ほどの音。床に落ちていたハンカチ。研究棟へ向かったまま戻っていないリリアナ。
何もなければ、それでいい。
エリオスは取っ手を回し、扉を押した。
床に崩れるように座ったリリアナが顔を上げた。背中側へ縛られた両手。赤く腫れた頬。乱れた髪の向こう、腰の後ろからは裂けた手袋と血に濡れた指先がのぞき、床へ赤い雫が落ちている。
その姿を見た瞬間、エリオスの呼吸が止まった。何があったのかを考えるより先に、焼けつくような怒りが胸の奥から突き上げる。
誰が、彼女をこんな目に。
視線が、部屋にいる男へ向いた。リリアナから引き離そうと、足が前へ出る。
「来ないでください!」
リリアナの声が、エリオスを止めた。
男の胸から腹には、いくつもの包みが括りつけられている。そこから短い導火紐が垂れ、壁際には同じ火薬の箱が積まれていた。
自分ごと、この場所を吹き飛ばすつもりなのか。
エリオスは踏み出した足を止め、室内を見渡した。男が何をきっかけに火をつけるのか分からない。下手に近づけば、追い詰められたと思わせるかもしれなかった。
男の体に括りつけられた火薬が爆発すれば、壁際の箱へも火が届く。
巻き込まれるのは、リリアナだけではない。この建物にいる者すべてだ。
エリオスは奥歯を噛み、その場にとどまった。




