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第21話 見落としていたもの(1)

「王立医療院から照会が来ています」


生徒会副会長のエリックが、

机の上の書類を見下ろしていた。


王立医療院では近ごろ人手が足りず、

地方施療院へ回せる人材を探しているらしい。


その手がかりとして、

学院で薬理や医療分野の研究補助に入った学生や、

関わった教員の記録を確認したいという照会だった。


必要なのは、

研究棟の利用申請書。

研究内容の控え。

資料の貸出記録。


誰が、どの研究室で何の研究をしていたのか。

誰が補助に入り、

どの資料を借り出したのか。


そのあたりの記録だった。


生徒会室に残っているのは、

直近五年分だけ。


それ以前の記録は、

研究棟の資料保管区画にある。


「会長、すみません。

 研究棟の方はお願いしてもいいですか。

 私はこの五年分をまとめておきます」


机の上には、

王立医療院から届いた照会状と、

五年分の申請書、補助員名簿が広がっていた。


エリックは少し考えてから、

リリアナの方を見る。


「研究棟の資料区画でしたら、

 バルディエ嬢もお分かりになるのでは。

 最近、ノア殿下と調べ物をされていましたし」


ノアはまだ来ていない。


統治学課程の討議が長引いていて、

生徒会室に顔を出すのは遅れるらしい。


リリアナは顔を上げる。


エリックが広げている書類は、

この前、生徒会室で調べそこねたものだった。


過去の補助申請。

研究内容の控え。

資料の貸出記録。


後日改めて確認したが、

過去五年分の中には、

呪いや禁忌に近い研究に関わった学生や教員の記録はなかった。


それ以前のものが研究棟にあるのなら、

王立医療院へ貸し出される前に確認しておきたい。


「私でよろしければ、

 同行いたします」


声は、

いつも通りに出た。


エリオスがこちらを見る。


ほんの一瞬、

気まずそうに目を伏せた。


それから、

短く頷く。


「……では、バルディエ嬢。

 ついてきてくれ」


「承知しました」


そうして、

二人で研究棟へ向かうことになった。


研究棟の資料保管区画は、

相変わらず薄暗かった。


古い紙と埃の匂い。

高い棚。

積み上げられた木箱。

束ねられた記録簿。


二人は木箱に貼られた年代と分類の札を確かめながら、

該当しそうなものを順に開いていった。


思ったより手間はかかったが、

必要な記録は見つかった。


過去の研究補助員名簿。

研究室ごとの補助申請。

教員の署名が入った控え。

資料の貸出記録。


「これだけあれば足りるか」


エリオスが、

机に積んだ記録の束を見る。


「はい。

 おそらく」


王立医療院の照会に使うものとしては、

十分だった。


だが、

リリアナの頭は別の方へ向かっていた。


貸し出される前に、

この記録を確認しなければならない。


申請内容。

借り出された資料。

研究室名。

教員の署名。


呪い。

禁忌。

王国史。

古い王家の記録。


はっきりした言葉でなくてもいい。


何か、

引っかかるものがあれば。


その研究に関わった者を、

たどれるかもしれない。


「バルディエ嬢」


ふと声をかけられ、

リリアナは顔を上げた。


エリオスが、

少し言いにくそうにこちらを見ている。


「……この前のことだ」


その声音に、

リリアナの指が止まった。


「ノアの件で、

 言い過ぎた」


エリオスは、

視線を少しだけ落とす。


「君を責めるような言い方をした。

 悪かった」


リリアナは、

すぐには答えられなかった。


謝られるとは思っていなかった。


エリオスは続ける。


「ノアは、

 滅多に人に気を許さない」


少しだけ間が空く。


「でも、あいつは君のことを、

 読書仲間だと言っていた」


「……」


「あいつがそんなふうに言う相手は、

 初めてだった」


エリオスは、

言葉を選ぶようにして続けた。


「だから、

 あの言い方は間違っていた」


「これからも、

 ノアと変わらず接してやってほしい」


そう言うエリオスの表情は、

王太子というより、

弟のことを案じる兄のものに見えた。


リリアナは、

指先に力が入るのを感じた。


「……はい」


ようやく出た声は、

自分でも驚くほど静かだった。


「承知しました」


そう言って、

申請書の束へ視線を戻す。


それ以上、

何を返せばいいのか分からなかった。


確認した記録を、

生徒会室へ運ぶ箱へ移していく。


必要なものは揃った。

あとは、

周囲を片づけるだけだった。


リリアナが、

片づけをしているエリオスの方へ近づいた時。


ぎ、と。


嫌な音がした。


エリオスのそばにある古い棚が、

わずかに傾きだしている。


息を呑む。


リリアナは反射的に駆け出した。


「危ない!」


倒れる。


そう思った時には、

もう手を伸ばしていた。


エリオスを安全な方へ押し出そうとする。


けれど、

伸ばした腕を逆にエリオスが掴んだ。


身体が強く引かれる。


エリオスはリリアナを胸の中へ抱き込み、

棚とは反対側へ身を投げた。


床へ倒れ込む。


そのすぐ背後で、

棚が倒れた。


記録の束が落ち、

木箱が床へ叩きつけられる。


鈍く大きな音が、

資料区画に響いた。


リリアナは、

エリオスの腕の中にいた。


エリオスは、

腕の中のリリアナを見下ろした。


「……大丈夫か」


かろうじて、

そう問う。


目立った怪我はない。


それを確かめて、

エリオスはようやく息をついた。


その時になって、

距離の近さに気づいた。


倒れ込んだまま、

向き合うように抱え込んでいる。


リリアナが、

ゆっくり顔を上げた。


近い。


近すぎる。


リリアナの睫毛が震えるのが分かるほど、

近かった。


どくん、と、

心臓が跳ねた。


リリアナは一瞬、

何が起きたのか分からない顔をしていた。


そして状況を理解した瞬間、

真っ青になった。


「エリオス!」


声が震えていた。


殿下でも、

王太子でもない。


名前だった。


完全に、無意識だった。


「怪我は……!?」


リリアナの瞳が揺れている。


ひどく動揺しているのが分かった。


エリオスも、

その声に揺らされた。


その直後、

リリアナの視線が彼の肩口に落ちる。


シャツの左肩のあたりの布が裂れていた。


棚の角か、

落ちた木箱の金具か。


肩口から上腕にかけて、

赤い色が布ににじんでいる。


「血が……」


「このくらい、

 大したことはない」


そう言ってから、

もう一度リリアナの顔を見る。


泣きそうだった。


まるで、

大きな事故にでも遭ったみたいに。


それを見て、

言葉が止まる。


こんな顔を、

自分に向けるのか。


いつもの、

一歩引いた静かな顔ではない。


目の前にいるのは、

本当に自分のことを心配している顔だった。


「大したことです」


リリアナの声が、

思ったより強く出た。


「医務室に行きましょう」


「そこまでではない」


「行きます」


そこで、

まだ抱き込んだままだと気づいた。


抱き込んだ身体は、

思ったより細くて、あたたかい。


淡く甘い香りがして、

エリオスは少しだけ息を詰める。


「……すまない」


腕を緩める。


名残惜しいと思ったことに、

自分で気づかないふりをした。


リリアナは立ち上がり、

すぐにエリオスの肩を確認した。


顔色はまだ戻っていない。


「医務室へ」


言い切られ、

エリオスは黙るしかなかった。


医務室に医務官はいなかった。


他の棟へ呼ばれているらしい。


リリアナは少しだけ迷ったあと、

棚から消毒液と包帯を取り出した。


「応急処置だけ、

 先にいたします」


「できるのか」


「簡単な処置でしたら」


少し間を置いて、

リリアナは小さく言った。


「……失礼します」


シャツのボタンを外す手が、

ほんのわずかにためらう。


ボタンを幾つか外し、

左肩の布だけをそっとずらす。


リリアナの手つきは慎重だった。


傷に布が触れないよう、

気をつけながら。


露わになった肩の外側に、

浅い切り傷が走っていた。


リリアナは傷口を確かめるように、

エリオスの肩へ触れた。


白い指先は、

少し冷たかった。


その冷たさが触れた瞬間、

体の真ん中がずくんと熱を持つ。


手当をしてもらっているだけだ。


そう分かっているのに、

冷静でいるのが難しかった。


消毒液がしみる。


痛いはずなのに、

痛いのか熱いのか分からなかった。


傷のせいか。

リリアナに触れられているせいか。


エリオスは黙って、

包帯を巻くリリアナの横顔を見ていた。


擦り傷に近い。


命に関わるものではない。


そんなことは、

リリアナにも分かっているはずだった。


それでも、

彼女は本当に泣きそうな顔をしていた。


「……なぜ、庇ったのですか」


リリアナが小さく言う。


「先に動いたのは君だ」


「私は――」


言いかけて、

リリアナは唇を結んだ。


エリオスは視線を落とす。


「俺を突き飛ばして、

 自分が代わりになるつもりだったのか」


リリアナは答えない。


その沈黙が、

答えのようだった。


「君こそ、

 危ない真似をした」


「殿下に怪我でもあれば、

 大事になります」


殿下。


その言葉に、

胸の奥が沈んだ。


王太子が怪我をすれば、

周囲はいつだって大げさになる。


ほんの小さな傷でも、

宮廷医が呼ばれ、

護衛が動き、

報告書が増える。


慣れている。


それが自分の立場だということも、

分かっている。


一瞬だけ、

遠い日のことが頭をよぎった。


かつて自分の代わりに傷を負った、

名も知らない子どものこと。


守られる側でいることの苦さは、

昔から知っている。


けれど。


リリアナの顔は、

それとは違って見えた。


青ざめて、

声を震わせて、

まるで本当に何かを失いかけたような顔をしていた。


たとえそれが、

王太子に向けられた心配だったとしても。


あの瞬間、

彼女は確かに自分の名を呼んだ。


殿下でも、

王太子でもない。


ただのエリオスとして。


その声が、

まだ耳に残っている。


本来なら、

訂正しなければならない呼び方だった。


それなのに、

もう一度その名を呼んでほしいと思ってしまった。


そして彼女がこれほど取り乱しているのに、

その心配が自分だけに向けられていることを、

嬉しいとも思ってしまった。


少しだけ、

不謹慎だった。


それでも、

自分だけに向けられたあの声と、

あの顔を思い出すと、

胸が締めつけられる。


「念のため、

 今日は無理をなさらないでください」


リリアナが言う。


「分かった」


「本当にです」


「分かった」


「医務官が戻られたら、

 必ずもう一度診ていただいてください」


エリオスは、

少しだけ目元を和らげた。


「君はずいぶん心配性なんだな」


その言葉に、

リリアナは一瞬だけ息を止める。


「……心配くらい、します」


小さな声だった。


それだけ言って、

リリアナは立ち上がり、

静かに礼をした。


「私は、先に戻って、

 研究棟の件を報告してまいります」


そう言って、

医務室を出ていった。


扉が閉まったあと、

部屋には静けさが残る。


エリオスは、

包帯を巻かれた左肩を見下ろした。


大した傷ではない。


そう分かっている。


それなのに、

包帯を巻いた肩がいつまでも熱い。


抱き寄せた時の軽さ。

淡く甘い香り。

泣きそうな顔。

震えた声。

傷に触れた冷たい指。

自分の名を呼んだ唇。


心配くらい、します。


その感触も、

その言葉も、

まだ残っている。


ふと、

右手が動いた。


左手中指の指輪に触れる。


昔からそこにあるもの。


理由は分からない。


けれど、

落ち着かない時ほど、

気づけば触れている。


今日も同じはずだった。


けれど。


指輪に触れても、

少しも落ち着かなかった。


傷よりも、

彼女に触れられた場所の方が、

いつまでも熱かった。


その熱は、

時間が経っても収まりがつかなかった。

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