第24話 軋む鉄路(2)
翌朝、身支度を終えたリリアナは、机の上のハンカチに目を留めた。
淡い緑の葉が一枚。その周りには、洗っても落ちなかった黒い跡が残っている。昨夜も気にかかっていたが、結局、何の汚れなのかは分からなかった。
置いていこうとして、少し迷う。
リリアナはハンカチを折り畳み、制服のポケットへ入れた。
午前中は、民政課程と王政課程がともに受ける共通講義だった。
リリアナはいつもの前列の席へ座る。普段なら、その一つ後ろにはノアがいるが、今日は空いていた。
今頃、例の治療院で何を確かめているのだろう。
王家の第一王子に繰り返されてきた早世の理由や、レオニードが調べていた、灰色の髪を持つ者と厄災鎮めについて、ささいなものでも手がかりが見つかってほしかった。
記憶にある危険は、これまで先回りして避けてきた。
それでも、エリオスが二十歳を迎える前に命を落とす未来そのものが、消えたと確かめられたわけではない。最近は、リリアナの記憶にはなかった出来事も増え始めている。
避けたはずの危険が、別の形でエリオスへ近づいているのだとしたら。
そう考えると、もう一度確かめておきたい場所があった。
研究棟二階の談話室だ。
時が戻る前、ちょうど今頃、長く使われていなかった暖炉に火が入れられた。その火が近くに積まれていた古い布や紙束へ燃え移り、部屋の半分近くを焼いた。研究棟もしばらく使えなくなった。
今度は同じことが起きないよう、資料区画の改修と合わせて、周辺の部屋も片づけるようリリアナが提案していた。布や紙束は運び出され、暖炉も使われないようになっている。
その後、ノアから片づけは終わったと聞いた。ただし、談話室は近くの実験室や薬品棚から運び出した品の仮置き場になっているらしい。それももう片づいただろうか。
昼休みになると、生徒たちは食堂や中庭へ向かい始めた。廊下には話し声があふれ、窓の外からも笑い声が聞こえてくる。
リリアナは教本を置き、研究棟へ向かった。
渡り廊下では何人もの生徒とすれ違った。教師の姿もあり、窓の外では庭師が作業をしている。
けれど研究棟へ入ると、周囲の声は少しずつ遠くなった。作業員たちも昼食へ出ているのか、二階へ続く廊下には誰もいない。
談話室の扉には、搬出品仮置き中につき、用のない者は入らないように、と書かれた札が掛けられていた。
扉は半分ほど開いている。
リリアナはそこから室内を覗いた。
暖炉の近くにあった古い布や紙束は、きれいになくなっている。暖炉にも蓋がされていた。
けれど、そのあと近くの実験室や薬品棚から運び出された古い棚や工具、木箱が壁際へ置かれ、談話室は再び物で埋っていた。空の硝子瓶や使われなくなった器具も、浅い箱へまとめられたままだ。
仮置き場にされてからは、ほとんど手をつけられていないようだ。
リリアナは室内へ入った。
その背後、廊下側の壁に沿うように、談話室の扉のすぐ脇へ黒い影が潜んでいた。
影がわずかに身じろぎする。
だが、リリアナはそれに気づかないまま、室内に残された荷物へ目を向けていた。
火を使わないとはいえ、古い棚も木箱も燃えないわけではない。このまま長く置いておくのはよくない。
今日中に、担当の教師へ話そう。
そう決めて引き返しかけた時、部屋の奥に掛けられた布が目に入った。
荷を包むための粗い布だった。乱雑に掛けられているようでいて、奥の一角だけを覆い隠すように、端が床まで垂れている。
リリアナは近づき、布の端をめくった。
金具で角を補強された木箱が、五つ固めて置かれていた。
古い実験器具を収めたものより頑丈な作りをしている。中身や搬出元を記した札もない。
どこかで見た箱だった。
あの日、廊下でぶつかりかけた作業員の荷車に積まれていたものではないだろうか。
蓋の縁には、細かな黒い粉がついていた。
リリアナはポケットからハンカチを取り出し、淡い緑の葉の周りに残る黒い跡と見比べた。
色はよく似ている。
汚れていない端で箱の縁を拭うと、白い薄絹に細い黒い線がついた。
あの時、男の袖から移ったのも、これだったのだろうか。
五つのうち、一つだけ蓋がわずかにずれていた。
リリアナはその蓋を持ち上げた。
中には、厚い紙で包まれた小さな包みが並んでいる。水気を避けるための紙に紐をかけ、包みの間には衝撃を和らげる詰め物が入れられていた。
上段には、包みがいくつか抜かれた跡がある。
その包み方を見た瞬間、心臓が強く打った。
「……火薬」
商会で、工事用の火薬を運ぶ時に使う梱包だった。
火薬そのものは、燃える前には、はっきり分かるほどの匂いをほとんど持たない。だが、発破のあとには、硫黄を含んだ煙と煤の独特な臭いが残る。
その時、あの日の作業員が脳裏に浮かんだ。
男とぶつかりかけた際、土や汗に混じって、焦げたような臭いがわずかにした。
あれは火薬そのものの匂いではない。発破のあとに立ち込める煙や煤が、男の上着へ染みついていたのだ。
黒く汚れた袖。土のついた頑丈な短靴。見た目以上に重そうだった木箱。
あの時には分からなかった引っかかりの正体が、姿を現してきた。
あの男は、学院へ来る前、火薬を使う工事現場で働いていたのではないか。
リリアナは残りの箱へ目を向けた。
すべて同じ形をしている。
そして、開いた箱からは、いくつかの包みが持ち出されていた。
その火薬は、今どこにあるのか。
昨日、商会で見た書類が頭に浮かんだ。
十日前に一度目を納めたばかりなのに届いた、二度目の火薬の依頼。報告のなかった使用量と残量。記されていなかった受取人と保管場所。
そして、南の岩場で起きたという事故。
箱の側面には、バルディエ商会の焼き印がない。
十日前に商会が納めた火薬ではない。二度目の分も、まだ手配には回していない。
ならばこれは、バルディエ商会が鉄路事業へ関わる前から、現場にあった火薬なのではないか。
現場から火薬が消えたため、追加の依頼が届いたのだとしたら。
南の事故と、数の合わない火薬。
あの作業員と、学院へ運び込まれた木箱。
ばらばらだったものが、次々につながり始める。
まだ、どれも推測の域を出ない。
だが、目の前に大量の火薬があることだけは間違いない。
何のために、これほどの量を学院へ運び込んだのか。
背筋が冷える。嫌な予感がする。
この量が一度に爆発すれば、研究棟はひとたまりもない。
渡り廊下が崩れ、その先の本館や講義棟まで爆風が及ぶ。昼休みの生徒が集まっている食堂や、中庭にいる者まで巻き込まれる。
学院の半分が崩れ、大勢が命を落とす。
一刻も早く知らせなければ。
リリアナは木箱の蓋を戻し、ハンカチを握ったまま立ち上がった。
教師か警備の者を呼ばなければ。
急いで扉へ向かい、廊下へ足を踏み出した、その瞬間だった。
扉のすぐ脇に潜んでいた影が動いた。
避ける間もなかった。
頭の横へ、硬いものが振り下ろされる。
視界が白く弾け、足元から力が抜けた。
リリアナは廊下へ倒れた。
ハンカチが指先から滑り、くしゃりと床へ落ちる。白い布の端から、淡い緑の葉が覗いていた。
そこで意識が途切れた。
「余計なものを見たな」
男の声は、もうリリアナには届かなかった。
男は倒れたリリアナの両足首をつかんだ。制服の背や裾が床を擦り、頭が小さく揺れながら、体が談話室の中へずるずると引きずり込まれていく。
男は一度、廊下の左右を確かめると、扉を静かに引き寄せた。細く残っていた隙間が消え、談話室の扉が閉じた。
廊下には、淡い緑の葉を刺した白いハンカチだけが残された。




