第25話 想いを胸に(2)
事件から数日後、エリオスはバルディエ邸を訪れた。
応接室で待っていたリリアナの頬からは、腫れも赤みもすっかり消えていた。ただ、左手にはまだ白い包帯が巻かれている。何より目についたのは、その髪だった。腰まで届いていた灰色の髪は、肩甲骨のあたりで切り揃えられている。爆発の熱で傷んだ部分を落としたのだろう。見慣れた長さではなくなったことで、細い首筋が以前よりはっきりと見えた。
見舞いの挨拶を終えると、アルマンとレオンは二人を残して応接室を出た。エリオスは向かいの長椅子ではなく、リリアナの隣へ腰を下ろす。
「手の傷は?」
「もう、ほとんど痛みません」
「見せてくれ」
リリアナは一瞬ためらったものの、包帯を巻いた左手を差し出した。エリオスはその手首を支え、傷へ触れないよう指先の色を確かめてから、ゆっくり動かすよう促す。
「まだ少し腫れている」
「先生には、後遺症も残らないだろうと言われました」
「そうか」
指がすべて動くことを確かめ、エリオスはようやく表情を緩めた。それでも、すぐには手を離せなかった。あの日、赤く染まっていた掌を思い出す。指の間から血が流れ、細い輪まで赤く濡れていた。
今こうして、自分の手の中で指が動いている。もう一度それを確かめるように手首を支えてから、エリオスは短くなった髪へ目を移した。
「髪も切ったんだな」
「焦げたところだけを切ると、長さが揃わなかったので」
リリアナは肩へかかった毛先を指でつまんだ。
「もともと、こんな色ですから。短くなっても、惜しむほどのものではありません」
「そんなことはない」
リリアナの指が止まった。思いがけない言葉を聞いたように、何も言わずエリオスを見る。
「俺は、君の髪をきれいだと思っている」
リリアナの唇がわずかに開いたが、声は出なかった。
好きだと認めてから、エリオスは、胸に浮かんだ言葉を以前のように飲み込めなくなっていた。
「月の光に似ている。長くても、今の長さでも、きれいだ」
リリアナの指から毛先がするりと落ちた。淡い瞳が揺れ、見る間に潤んでいく。泣くのをこらえているのか、眉間には小さく皺が寄っていた。
思えば、彼女は泣きそうになる時、決まって少し難しい顔をする。何も感じていないのではない。ただ、それを見せないようにしているのだ。これまでの自分は、そのわずかな変化にも気づいていなかった。
リリアナは目を伏せ、支えられたままの左手をわずかに引いた。エリオスが手を離すと、包帯の巻かれた手を膝の上へ戻した。
「それと……これからは、リリアナと呼んでもいいだろうか」
男に捕らえられた彼女へ呼びかけ、身代わりになろうとする彼女を止め、窓から落ちかけた身体へ手を伸ばしながら、何度もその名を叫んだ。
その前にも、冷たい床へ倒れていた彼女を見つけた夜、考えるより先にその名が口からこぼれている。
そして、熱に浮かされたリリアナが、リリーと呼んで、と願った夜のことも。本当は、あの名で呼びたい気持ちもある。けれど、あの時の彼女が誰を見ていたのか、エリオスには分からなかった。自分へ向けられたものではないかもしれない呼び名を、勝手に使うことはできない。
だから今は、せめてリリアナと呼ばせてほしかった。
エリオスがそう尋ねると、リリアナは伏せていた顔を上げた。まだ潤んだままの瞳が大きく揺れ、すぐにまた下を向く。返事はなかなか聞こえなかった。
「……だめだろうか」
「いえ」
リリアナは小さく首を横へ振った。
「だめでは、ありません」
かすかに震えた声だった。
「リリアナ」
初めて許しを得て呼んだその名は、あの部屋で叫んだ時よりもずっと静かだった。リリアナの肩が、ほんのわずかに揺れる。
エリオスは目元をやわらげた。
「ありがとう」
自分でも驚くほど、やさしい声になった。
リリアナは何も答えず、右手の指で包帯の端をきゅっとつまんだ。その仕草を追ったエリオスの視線が、包帯の隙間からのぞく細い指輪へ落ちる。
聞いてはいけない気もした。けれど、今日を逃せば、もう二度と尋ねられないような気もした。
「その指輪について、聞いても?」
リリアナの左手がわずかに強張った。
「以前から、手袋の下につけていたものだろう」
「はい」
「誰かから贈られたものなのか」
リリアナはすぐには答えなかった。銀色の輪へ目を落とし、右手の指先でそっと触れる。
「大切な人にいただいたものです」
エリオスは何も言えなかった。
「もう会うことはできませんけれど、今も、ずっと大切な人です」
「……そうか」
もう会うことはできない。その言い方から、相手はすでにこの世にいないのだろうかと思った。
胸の奥に、ほんの一瞬だけ安堵が生まれる。少なくとも、今もリリアナのそばにいる誰かではない。その安堵を、エリオスは浅ましく思った。
どこで出会い、どんな時間を過ごしたのか。その人も、リリアナを同じように大切にしていたのか。熱に浮かされた夜、リリーと呼んでほしいと願った相手も、その人だったのかもしれない。先ほど自分が名を呼んだ時、彼女が泣きそうになったのも、その人を思い出したからだろうか。
聞きたいことはいくつも浮かんだ。けれど、そのどれも尋ねられないまま、エリオスは気づいた。
自分は、リリアナのことを何も知らない。
生徒会の仕事を誰より正確にこなし、授業にも手を抜かない。知識が豊富で、礼儀作法にも隙がない。叔父の商会を手伝い、国の仕組みにまで目を向けていることも知っている。
だが、知っているのは外から見えることばかりだった。
どんなふうに育ち、どんな言葉を受けて今日まで生きてきたのかは知らない。なぜあれほど学ぶのか。何のために力をつけ、商会を支え、国のことまで考えているのか。何を支えに生き、この先どんな人生を望んでいるのか。
何一つ、知らなかった。
いつから惹かれていたのかも分からない。初めて会った時から、なぜか目を離せなかった。灰色の髪も、淡い瞳も、触れた冷たい指先も、気づけば忘れられなくなっていた。話せばもっと知りたくなり、姿が見えなければ探し、危険に遭えば失うことばかりを恐れた。
そうしていつの間にか、好きになっていた。
けれど、自分の知らないところにもリリアナの人生はある。その中には、もう会えなくても指輪を外さず、今も大切だと言えるほどの人がいる。そこへ自分が入り込めるとは思えなかった。
何より、自分にはサラとの婚約がある。
ならば、もう答えは出ている。
諦めがついたわけではない。好きだと認めてから、まだ数日しか経っていない。顔を見ればそばにいたいと思う。名を呼べば、もっと呼びたくなる。
それでも、この恋は諦めるべきものなのだと思った。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。ノア殿下がお見えです」
リリアナが驚いたように顔を上げ、エリオスを見る。
「ノア殿下がこちらに? 視察から戻られたのでしょうか」
「そうだろう。入ってもらおう」
リリアナはうなずいた。
「お通ししてください」
ほどなくして扉が開いた。入ってきたノアは旅装のままだった。視察先から戻ったばかりらしい。
「エリオス」
ノアはまず、エリオスの前まで来た。
「先ほど王宮へ戻って、学院で起きたことを知らされた。エリオスがこちらへ向かったというから、そのまま来た」
「そうか。どこまで聞いた?」
「研究棟で火薬が爆発したことも、二人が中にいたことも」
ノアは、エリオスの姿を確かめるように見た。
「エリオスは無傷だと聞いているけど」
「ああ。何ともない。心配をかけたな」
「……無事ならいい」
ノアはようやく息をつき、今度はリリアナへ顔を向けた。
「リリアナ」
「ノア殿下」
リリアナの声が、ほんの少しだけやわらかくなった。ノアも彼女の姿を見て表情を緩め、包帯の巻かれた左手へ視線を落とす。
「手……痛む?」
「少しだけです」
ノアの眉がわずかに寄ったが、それ以上は聞かなかった。リリアナも、心配はいらないと伝えるように小さく笑う。
「リリアナも無事でよかった」
「ご心配をおかけしました」
「ほんと、心配した」
ノアの視線が、肩甲骨のあたりまで切られた髪へ移る。
「髪、短くなってる」
「傷んだところを切りました」
「そっか」
言葉はそれだけだったが、二人にはそれで十分なのだろう。
ノアは、リリアナが無理をしやすく、それを表に出さないことを知っている。リリアナも、ノアが何かを責めているのではなく、ただ心配していたのだと分かっているようだった。
二人は学院へ入る前から、読んだ本について話し、興味を持ったことを一緒に調べてきた。そうして積み重ねてきた時間がある。今では、相手の顔を見れば、言葉にしないことまである程度分かるのかもしれない。
先ほどまで涙をこらえていたリリアナの顔から、少しだけ力が抜けていた。
エリオスは、それを黙って見ていた。
以前、リリアナのことをめぐってノアと言い合った日の言葉がよみがえる。
『お前には、いつもあんな顔をするのか』
『俺には、あんな顔をしない』
あの時は、自分が何に腹を立てているのか分からなかった。
今は分かる。
嫉妬していたのだ。
ノアへ向けられる笑みに。自分の知らないリリアナを、弟が知っていることに。
以前なら、胸に湧いたものを苛立ちへ変えていたのかもしれない。けれど今は、ただ痛かった。
二人はよく似合っている。
そう思った。
リリアナには、今も大切にしている人がいる。そして、今のリリアナを知り、同じものを見て歩いているのはノアだった。
自分が割り込む場所など、初めからなかったのかもしれない。
エリオスは立ち上がった。
「俺はそろそろ戻る」
ノアが顔を上げる。
「エリオス、もう帰る?」
「ああ。今日は見舞いに来ただけだから」
リリアナも立ち上がろうとしたが、エリオスは手で制した。
「そのままでいい」
「来てくださって、ありがとうございました」
エリオスは一度だけ、短くなった灰色の髪と、包帯の巻かれた左手を見た。
「本当に、無事でいてくれてよかった」
それだけを残し、応接室を出た。
廊下へ出ても、胸の痛みは少しも引かなかった。
諦めがついたわけではない。つくはずもなかった。好きだと分かった以上、以前のように別の理由をつけて、ごまかすこともできない。
消せないのなら、そのまま胸の内に抱えていくしかない。
それでも、この恋は諦めるべきものなのだと思った。
そうしなければ、王太子として正しい場所へ戻れない気がした。




