第26話 王太子と灰色の女の伝承(3)
王都西門を出て、古橋通りをしばらく進んだ先に、その古書店はあった。
道に面した間口は狭く、色褪せた看板には店名すらない。古書を示す本の絵だけが、雨風に削られながら残っていた。
護衛を店の外に残し、ノアとリリアナが中へ入る。店主らしい老人は二人を見ると、何も尋ねず、書棚の奥を指した。狭い通路を抜けた先には、小さな卓と三脚の椅子が置かれている。その一つに、二十代後半ほどの男が座っていた。身なりは簡素だったが、襟元や袖口に乱れはない。卓上には数冊の本と、古びた紙包みが置かれていた。
二人が近づくと、男は席を立った。ノアを見たあと、その視線がリリアナへ移る。
灰色の髪。そして、色の薄い瞳。
男の目が見開かれた。
「……本当に」
小さく漏れた声に、リリアナが男を見る。
「失礼しました。灰色の髪と色の薄い瞳を持つ方に、実際にお会いするのは初めてで」
男はすぐに表情を戻した。
「レオニード・ヴェルナーだな」
「はい。手紙をくださった方でしょうか」
「そうだ」
レオニードは改めてリリアナを見た。
「その方が、問い合わせに書かれていた方ですね」
「ああ」
「……来てくださったのですね」
声にはまだわずかに熱が残っていた。レオニードは二人に椅子を勧め、自分も腰を下ろす。
「お話しする前に、一つ伺ってもよろしいですか。私のことを、どこでお知りになったのですか」
「王立学院に残っていた研究補助の記録だ。七年前、サヴィーヌ教授の研究室にいたことも聞いた」
レオニードの表情が変わった。
「先生から、私のことをお聞きになったのですか」
「聞いた」
「……先生は、お変わりありませんか」
「今も学院で教えてる」
「そうですか」
レオニードは少し目を伏せたあと、卓上へ視線を戻した。
「では、私が当時何を調べていたのかも、ある程度はご存じなのですね」
「ああ。第一王子が若くして亡くなる例だけじゃない。災厄鎮めも、灰色の髪の女も、時の指輪についても調べていたと聞いた。治療院から古い診療記録を取り寄せていたことも分かってる」
「時の指輪についても?」
「ああ」
レオニードは少し目を伏せた。
「……先生は、そこまで話されたのですね」
「何か見つけたのか」
「いいえ。指輪については、最後まで実在を示す記録には辿り着けませんでした」
リリアナは、膝の上で左手を握った。
手袋の下には、その指輪がある。
「ですが、災厄鎮めについては別です」
レオニードがノアを見る。
「王宮勤めだった者の古い傷や、黒く残る傷、原因の分からない熱。王太子の近くで怪我をした者についても調べていたのだろう」
「……そこまで辿られていたのですね」
「ああ」
「では、王太子本人が助かる代わりに、周囲の者が災いを受けたように見える例については?」
「先王の王太子時代の記録は見つけた。側近が三人、先王を守る形で死んでる。それとは別に、薬師から、王太子を庇った者に普通とは違う傷が残った例も聞いた」
「第二十七代国王ですね」
「そうだ」
レオニードは頷いた。
「そこまで分かっているのであれば、その話は省きましょう」
紙包みを引き寄せて紐を解く。中から出てきたのは、糸で綴じられた薄い冊子だった。紙は黄ばみ、端が擦れている。
「私がお見せしたかったのは、その先です」
レオニードが頁を開いた。
「調べていくうちに、私は亡くなった王太子だけを追うのをやめました」
リリアナが顔を上げる。
「亡くなった方だけではないのですか」
「はい。若くして亡くなった方に何が起きたのかだけを追っていても、災いを止める方法までは分からない。それなら、生き延びた王太子の方に違いがあるのではないかと考えました」
レオニードの指が冊子の上を辿る。
「生き延びた方の多くも、何事もなく王位を継いだわけではありません。本人は助かっても、王太子でいる間に、近くの側近や使用人が死んだり、大きな怪我を負ったりしている例がいくつもあります」
「先王のように?」
「はい。ですが、その中に三人だけ、明らかに違う方がいました」
指が一つの頁で止まる。
「三人とも、王太子本人か、その周囲で異変が続いていました。ところが、ある時期を境に、それらがぱったりと途絶れているのです」
「そのあとは、本人にも周りにも?」
「はい。同じような病や事故も、王太子を庇って誰かが犠牲になったという記録もありません。三人ともその後王位を継ぎ、長く生きています」
「誰かに移ったような記録もない?」
「この抄本を読む限りでは、ありません」
リリアナも冊子へ身を寄せた。
「その三人に、何があったのですか」
「共通する人物がいました」
レオニードが顔を上げる。今度は迷いなくリリアナを見た。
「灰色の髪を持つ女性です」
最初の一人は、のちに第十二代国王となった王太子だった。
十八歳の頃から、原因の分からない高熱を何度も繰り返していた。数日寝込んでは熱が下がり、しばらくするとまた発熱する。それが三か月近く続き、次第に熱を出す間隔も短くなっていった。この状態が続けば二十歳を迎えるのは難しいと、当時の侍医が記しているという。
リリアナは、その話に覚えがあった。
「……三か月ほど熱を繰り返していた王子」
ノアも気づいた。
「この前の伝承か。灰色の髪の女が離宮を訪れたあと、王子が回復したっていう」
「ご覧になったのですね」
「でも、あれには王子の名前も年代もなかった」
「はい。民間に伝わるうちに形が変わったのでしょう。発熱が続いた期間と、灰色の髪の女性が現れた時期が一致しています」
抄本には、伝承にはなかったことまで残されていた。北方から来た灰色の髪の侍女が離宮を訪れ、その夜、王太子の寝所へ入っている。
「翌朝には熱が下がり、それ以降、同じ症状を起こした記録はありません」
それ以上追いようのなかった伝承が、王家の記録とつながった。
「二人目は、のちの第十八代国王です」
十九歳の頃、落馬や火災、狩猟中の事故が相次いでいた。そのさなか、地方の小貴族の娘が王宮へ召されている。灰色の髪を持つ娘だった。
「侍従の日誌には、娘が夜半に王太子の寝所へ入り、翌朝まで退出しなかったとあります」
「それからは?」
「事故の記録が途絶えています」
レオニードがさらに頁をめくる。
「三人目は、のちの第二十四代国王です」
十九歳の頃、原因不明の発熱や、身辺での事故が立て続けに起きていた。
「この方については、少し変わった記述があります。『古き災厄鎮めの例に倣い、灰なる女を召す』」
「災厄鎮め……?」
リリアナは顔を上げた。
サヴィーヌ教授が口にしていた言葉だった。
「はい。この一件に関わった誰かが、過去にも同じように災いが止まった例があることを知っていたのでしょう」
「王家で代々知られていたわけではない?」
「その形跡はありません。少なくとも、この一件に関わった者が、どこかに残っていた古い記録を見つけたように読めます」
灰色の髪を持つ女性が王宮へ呼ばれ、その夜、王太子の寝所に入った。それ以降、病や事故についての記述は途絶えている。
三人とも、灰色の髪を持つ女性が現れたあと、それまで続いていた異変が止まっていた。
「私は、灰色の髪そのものが災いを呼ぶのだとは考えていません」
レオニードが言った。
「むしろ逆です。呪いをかけた者と近い性質を持つからこそ、その災いに触れられるのではないかと考えました」
リリアナは顔を上げた。
「災いに、触れられる……」
「はい。地方に残る伝承にも、それに近い記述がいくつかありました。灰色の者が災いを呼ぶのではなく、災いを鎮める側として現れるものです」
「その女性たちは、そのあとどうなったのですか」
「この抄本では、最初の侍女は十分な褒賞を受け、本人の希望で北方の故郷へ戻ったとあります。二人目の娘には王家から生涯の扶持が与えられ、親族のもとへ帰った。三人目の女性は、新しい名と身分を与えられ、王都を離れたと記されています」
「三人とも、王妃にはなっていないのですね」
「はい。王太子たちはその後、それぞれ別の女性と正式に婚姻しています」
リリアナは冊子を見つめた。
自分にも、エリオスを救うためにできることがあるのかもしれない。
レオニードが最初の頁へ戻った。
「三人の記録には、もう一箇所、見ていただきたいところがあります」
該当する行を指す。
「第十二代です。『王嗣、灰なる女と契る』」
次の頁を開く。
「第十八代には、『灰なる髪の娘、王嗣の寝所に入り、契りを結ぶ』」
さらに頁をめくった。
「第二十四代には、『古例に倣い灰なる女を召し、寝所にてこれと契る』」
三件とも、同じ言葉が残っていた。
「ここでいう『契り』は、婚姻を指すものではないと考えています」
レオニードが続ける。
「三人とも、その女性とは婚姻していません。女性が寝所へ入り、翌朝まで共にいたという記述も残っています」
ノアが冊子から目を上げた。
「身体を重ねたという意味か」
「はい」
レオニードは冊子の後ろを開いた。
「三件をまとめた記述にも、こうあります」
『三人の王嗣、いずれも灰なる女と契りを結びし後、災い止む』
三人とも、灰色の髪を持つ女と身体を重ねたあと、厄災が鎮まっている。
兄上が助かる。
ノアの頭に真っ先に浮かんだのは、それだった。
リリアナが兄と契りを結べばいい。それで兄が生きられる。
そこで、向かいに座るリリアナへ目が向いた。冊子に目を落とす横顔を見た瞬間、ノアははっとした。
何を考えてるんだ、俺は。
ノアは冊子へ視線を戻した。
「これは原本じゃないんだな」
「はい。後世に作られた抄本です」
「いつのものだ」
「この抄本自体が作られた時期は分かりません。ただ、元になった『王太子災厄録』は、第二十四代の一件よりあとに作られたものだと考えています。そこで過去の二例まで遡り、三件がまとめられたのでしょう」
レオニードが末尾を示した。
「ここに『王家所蔵の記録より写す』とあります」
「原本を書いた者は?」
「分かりません。この抄本には名まで写されていません」
「原本は、王家に残っていると思うか」
「分かりません。ただ、これを書き写した時点では、王家で保管されていた記録をもとにしたのでしょう。その後どこへ移されたのかまでは追えませんでした」
「それなら、こちらで探せるかもしれない」
レオニードがノアを見る。
「あなたは……」
「ここから先は、名乗っておいた方がいいな。ノア・アストレア。第二王子だ」
レオニードの顔から血の気が引いた。冊子に置かれていた手も止まる。
「第二王子殿下……」
「警戒しなくていい。王家の不審死や、呪いにまで踏み込んで調べていたことを咎めるつもりはない。俺も兄上を助けたい」
「……第一王子殿下を」
「ああ」
「第二王子殿下とは知らず、失礼しました」
「名乗らなかったのはこちらだ。気にするな」
レオニードは一度ノアを見たあと、リリアナへ目を向けた。
「では、こちらの方も、第一王子殿下をお救いするためにここへ?」
「はい」
リリアナが答える。
レオニードはそのまま彼女を見ていた。
灰色の髪と、色の薄い瞳。
最初にリリアナを見た時と同じ熱が、再びその目に宿った。
「……そうですか」
短く答えて冊子へ戻ったが、何かを考え始めているのは明らかだった。
ノアが尋ねる。
「三人がその後長く生きたことは、年代記でも確かめたんだな」
「はい。三人ともその後王位を継いだことは、公式の年代記とも一致しています」
「ただ、契りを結んだから災いが止まったと証明されたわけじゃない」
「もちろんです。確認できるのは、三件とも契りを結んだあとに異変が途絶えていることまでです。それが原因だったと断定することはできません」
「そうか。その抄本、借りられるか」
「申し訳ありません。これは持ち出せません。ただ、必要な箇所を書き写していただくことはできます」
二人は三人それぞれの記録と、最後に残された一文を書き写した。その間、レオニードは口を挟まなかったが、何度かリリアナへ目を向けていた。
ノアが最後の一文を書き終える。
「……やはり、今なら確かめられます」
リリアナが顔を上げた。
「何をですか」
「この記録が示していることです」
レオニードはもう一度リリアナを見る。
「これまで私は、すべてが終わったあとの記録を追うことしかできませんでした。ですが今は、第一王子殿下も、灰色の髪と色の薄い瞳を持つ方もいる。事が起きる前から経過を残せます」
話すうちに、声が速くなっていった。
「なら、契りを結ばれる前から記録を取っておいた方がいい」
卓上の紙を引き寄せる。
「第一王子殿下の体調と、その周囲で起きた事故や負傷者の有無。それから――」
リリアナへ向き直った。
「あなたご自身の体調も、今から毎日残してください。契りを結んだ当日、翌朝、三日後、一週間後。その間に第一王子殿下の周囲で何が起きたのかも必要です。災いがどの時点で途絶えるのか、あなたの身体に変化が現れるのか、そのあと一月、二月と追えば――」
「レオニード」
ノアの声が割って入った。
レオニードの口が止まる。
ノアは何も続けず、ただ彼を見ていた。
数秒して、レオニードの目から先ほどまでの熱が引いた。
「……失礼しました」
リリアナへ向き直る。
「七年間、記録の中でしか追えなかったことでしたので……実際の経過を確かめられるかもしれないと思うと、先のことまで考えてしまいました」
ノアはそれには答えなかった。
「この三件に関わる記録がほかにも見つかったら、知らせてくれ」
「はい。殿下の方でも、元になった記録が見つかりましたら」
「ああ」
二人は控えた紙をしまい、席を立った。
古書店を出る頃には、日が西へ傾いていた。




