第25話 想いを胸に(4)
王宮へ戻ったあと、エリオスは湯を使い、厚手の夜着の上に冬用の室内着を重ねて、私室の長椅子へ腰を下ろした。
暖炉には火が入っていたが、窓の外から伝わる冷えは、厚い硝子越しにも感じられた。
今日はもう、書類を見る気にはなれなかった。
目を閉じれば、短くなった灰色の髪と、潤んだ淡い瞳が浮かぶ。許しを得て呼んだ名も、指輪について尋ねた時の答えも、まだ耳の奥に残っていた。
ふと、脱いだ外衣のポケットから、白い布がのぞいていることに気づいた。
取り出したのは、白い絹のハンカチだった。隅には淡い緑色の糸で、小さな葉が一枚縫われている。
研究棟の廊下に落ちていたものだ。
リリアナのものだろう。本人に確かめたわけではないが、あの日、彼女が連れ去られた先へ続くように落ちていた。
返すつもりで、今日も持っていった。
けれど、君のものかと尋ねることも、差し出すこともできなかった。
火薬か煤が染みついたのか、洗わせても黒い染みが薄く残っている。これを見れば、男に捕らえられた時のことを思い出すかもしれない。持ち主を確かめる必要もなく、このまま処分した方がいいのだろう。
そう思いながら、エリオスはしばらくハンカチを見つめていた。
だが、捨てようとは思えなかった。
あの日、これが廊下に落ちていなければ、リリアナのいる部屋へたどり着くのが遅れていたかもしれない。
指先で小さな葉の刺繍をなぞった時、扉が叩かれた。
「エリオス。入っていい?」
ノアの声だった。
エリオスはなぜか、手にしているものを見られてはいけないような気がした。
盗んだわけではない。ただ、持ち主を確かめそびれ、返す機会も逃しただけだ。
それでも説明のつかない後ろめたさを覚え、机の引き出しを開ける。奥には、レインボームーンストーンのブローチを収めた小箱があった。
エリオスはためらったあと、その隣へハンカチをしまい、引き出しを閉じた。
「いいよ」
扉を開けて入ってきたノアは、エリオスの向かいへ腰を下ろした。手には何枚かの紙を持っている。
「話がある」
「何?」
ノアはすぐには紙を広げなかった。
「俺とリリアナが調べていることについて、少し話しておきたい」
その言葉に、エリオスはノアの手元へ目を向けた。
以前、ノアは調べていることがあると言っていた。一段落したら話すとも。
「分かった」
ノアは卓上へ紙を広げた。
歴代の国王と、王太子となった第一王子たちの名が、年代順に並べられている。
「俺たちは、王太子の早世について調べている」
「王太子の?」
「ああ。最初から一緒に調べていたわけじゃない。俺もリリアナも、それぞれ王立図書館で古い記録を読んでいて、同じことに気づいた。それから一緒に調べるようになった」
「何に気づいたんだ」
ノアは一覧の途中へ指を置いた。
「詳しい記録が残っている第十代以降、王太子となった第一王子が七人、王位を継ぐ前に亡くなっている」
「七人……」
「三人に一人を超える」
病で亡くなった者。事故に遭った者。負った傷が悪化した者。原因のはっきりしない急死もある。
エリオスは一覧へ目を落とした。
一つ一つを見れば、どれも起こり得る出来事だった。何代もの年月に散らばっているため、これまで同じものとして扱われなかったのだろう。
「死因は違っても、何かつながりがあると考えているのか」
「分からない。偶然かもしれないし、俺たちが無関係なものを結びつけているだけかもしれない」
ノアは紙から手を離した。
「ただ、死んだ者は全員、第一王子として王太子になったあと、二十歳を迎える前に亡くなっている。しかも、病名も事故の経緯も、ほとんど残されていない」
「意図的に記録が消されたと?」
「そこまでは言えない。ただ、結果だけが残っていて、原因がない」
ノアは少し言葉を選んだ。
「同じ立場の者に、時代を越えて、形の違う死や事故が繰り返されている。もし本当に何かがあるのなら……呪いと呼ぶしかないものかもしれない」
「呪い……」
口にしてみても、すぐには現実のものと思えなかった。
ノアもそれは分かっているらしい。
「俺も、今の段階で信じろとは言わない。ただ、エリオスの周りでも危険なことが続いている。書架が倒れたあとに、今度は学院へ火薬が持ち込まれた」
どちらにも、起きた理由はある。
書架が倒れたのは、古びた設備が引き起こした事故だった。爆破事件も、父親を失った男が火薬を盗み、自ら学院へ持ち込んだものだ。
それでも、火をつける直前の男の姿が、エリオスの脳裏に浮かんだ。
「最後は、男の様子がおかしかった」
ノアが顔を上げる。
「エリオスもそう思った? リリアナも、似たようなことを話していた」
「ああ。こちらの話を聞きかけていたのに、急に目の焦点が合わなくなった。それまでとは違うことを言い始めた」
「リリアナには、男の声に、女の声が重なって聞こえたらしい」
「女の声?」
「聞き間違いかもしれないとは言っていた。でも、犯人自身とは関係のない言葉を口にした。忘れる、ほかの女を選ぶ、お前だけ幸せになることは許さない、と」
エリオスにも、あの時に聞いた声をうまく説明することはできなかった。
男自身の怒りには違いなかったはずなのに、その途中から、別の何かが口を借りて話しているように感じられた。
「それで、王太子の早世を調べていた男に連絡を取ろうとしている」
「その男が、何か知っているかもしれないのか」
「まだ分からない。各地の古い記録を追っているらしい。今は、返事を待っている」
エリオスは、卓上に並んだ名を見つめた。
ノアとリリアナが、二人で何かを調べている。
そのことを知ってから、二人の間にだけ通じるものがあるように思えていた。自分には話せない何かを共有し、自分の知らないところで言葉を交わしている。そこには、踏み込んではいけない線が引かれているような気がした。
それが、ずっと胸に引っかかっていた。
だが、二人が追っていたのは、エリオスの身に起こるかもしれない危険だった。
ずっと前から古い記録を読み、図書館だけでは足りず、研究棟の資料まで調べて。
自分が何も知らずにいる間も、二人は自分を案じて動いていた。
呪いなど、にわかには信じがたい。
古い記録に偶然似た死が並んでいるだけかもしれない。書架の事故も、今回の爆破事件も、目に見える原因はあった。
それでも、二人が長い時間をかけて調べてくれたことまで、思い込みだと退けることはできなかった。
「ありがとう」
ノアがわずかに目を見開く。
「まだ、何も分かっていない」
「それでもだ。俺のために、ここまで調べてくれた」
ノアは少しだけ視線を逸らした。
「可能性の一つを調べているだけだ。杞憂なら、それが一番いい」
「そうだな」
エリオスはもう一度、紙に並ぶ名を見た。
「すぐに呪いだと信じることはできない。でも、二人が俺のために調べてくれたことは信じる。これからは、気をつけるよ」
「うん」
ノアとリリアナが自分を案じてくれていたことは、嬉しかった。
それと同時に、二人の間に勝手に線を見つけ、疎外されたような気になっていた自分を、エリオスはひどく恥じた。
二人が過ごしていた時間さえ気にしていた。
その時間が、自分を守るためのものだったとも知らずに。
「本当は、もう少し分かってから話すつもりだった」
「今回の事件があったからか」
「確かなことが分かるまで黙っていて、また何か起きたら遅い」
ノアはエリオスを見た。
「だから、妙なことがあったら俺に話して。体調でも、周りで起きたことでもいい。一人で確かめようとしないで」
「分かった」
その返事を聞き、向かいに座るノアの肩から、わずかに力が抜けた。
「何か分かったら、また話す」
卓上の紙をまとめ、そのまま立ち上がる。
「頼む」
扉が閉まったあとも、エリオスはしばらくそちらを見ていた。
王太子となった者たちの死。
焦点の合わなくなった男。
許さない。幸せにはさせない。
今回の男が口にした言葉を思い返した時、八年前の記憶がかすかに引っかかった。
自分を襲った男も、王家に恨みを持っていた。
捕らえられたあと、問いかけに答えなくなり、同じような言葉を繰り返していたと聞いた覚えがある。
何と言っていたのかまでは、思い出せない。
当時のエリオスはまだ幼く、詳しいことを知らされていなかった。
王家を憎んでいた男なのだから、似た言葉を口にしても不思議ではない。今回のことと関係があるとも限らなかった。
それでも、今夜の話を聞いたあとでは、そのままにしておく気にはなれなかった。
エリオスは机へ向かい、紙を一枚引き寄せた。
八年前の襲撃事件について残っている記録を閲覧したいと、短く書きつける。明日、当時の記録を管理している者へ届けさせればいい。
自分に関わる過去なら、自分でも確かめられる。何か分かればノアに伝えよう。
書き終えてペンを置いた時、閉じた引き出しが目に入った。
その中には、レインボームーンストーンのブローチと、返せなかった白いハンカチが並んでいる。
二人だけで何をしているのかと、勝手に気にしていた。
その二人が、自分の知らないところで自分を守ろうとしていたことも知らずに。




