第19話 君の色(6)
数日後。
あの店の前を通るつもりは、
たぶんなかった。
少なくとも、
そう思っていた。
あの石は、
もう今の自分が手にしていいものではない。
そう思って、
ちゃんと踵を返したはずだった。
なのに。
ふとした拍子に、
あの灰がかった光が胸の奥に浮かぶ。
夕方の光が差した瞬間、
内側から色を滲ませたこと。
あの揺れ方。
あの静かな輝き。
意識して遠ざけようとすると、
かえってそこだけ輪郭が濃くなる。
買うつもりではない。
ただ、
もう一度見るだけだと、
そう自分に言い聞かせた。
それだけのつもりで、
リリアナはまた同じ通りへ足を向けていた。
気づいたのは、
店先が見えてからだった。
立ち止まる。
硝子の向こうを見る。
あの場所を。
この前、
確かにあの石があった場所を。
――ない。
呼吸が、
わずかに止まる。
目を凝らす。
見間違いかと思って、
もう一度見る。
けれど、
やはりなかった。
灰白い石も、
銀の台座も、
あの静かな光も、
どこにも見当たらない。
しばらくそのまま立ち尽くしたあと、
リリアナは小さく息を吸って、
店の扉を押した。
鈴の音が鳴る。
店主はすぐに気づいて、
穏やかに一礼した。
「いらっしゃいませ」
リリアナは少し迷ってから、
ショーケースの一角を指した。
「あの……」
声が少しだけ掠れる。
「この前、あそこにあった石のブローチは」
店主はすぐに頷いた。
「ああ、あの品でしたら」
その返事の早さに、
胸の奥がひやりとした。
「昨日、王太子様がご自身でお求めになりました」
さらりとした口調だった。
「ご婚約者様へのお誕生日の贈り物にと、
お持ちになりましたよ」
時間が、
一瞬だけ静まる。
ああ。
そうなんだ。
お茶会の席で、
エリオスは言っていた。
――考えてはいます。
あれは、
このことだったのだ。
「……そうですか」
それだけ言う。
店主はにこやかに何か続けていたが、
もう耳には入らなかった。
リリアナは軽く礼をして、
そのまま店を出る。
外の空気は何も変わらない。
人の声も、
石畳を行く馬車の音も、
行き交う人の足音も。
何も変わらない。
なのに、
胸の奥だけがひどく静かだった。
歩き出す。
足は止めない。
歩幅も乱さない。
それなのに、
胸の内側のどこかが
ゆっくりと押し潰されていく。
痛い、と言ってしまえば
簡単だったのかもしれない。
けれど、
それとも少し違った。
もっと深いところを、
声もなく掴まれているような。
息をしているのに、
そこだけ息ができないような。
あのブローチは、
特別なのだと思った。
私の色を、
あんなふうに綺麗だと言ってくれるのは、
この人だけなのだと。
あの人の目には、
世間で不吉だと言われるこの色が、
あんなにも静かで綺麗なものとして映っているのだと。
それが、
嬉しかった。
嬉しくて、
それだけで生きていける気がした。
けれど。
あの石は、
あの人が選んだ贈り物だった。
誰かのために。
ちゃんと、
大切に渡されていくものだった。
ああ、と
リリアナは静かに思う。
あの人は優しい。
だから、
あのとき自分に向けてくれた眼差しも、
あの言葉も、
きっとその場かぎりのものではなかったのだろう。
ただ。
ああして誰かのために選び、
誰かへ渡していく優しさの行き先は、
本来なら自分ではなかったのかもしれない。
あのブローチも。
あの言葉も。
あの日の、やわらかな眼差しも。
そう思えば、
不思議なくらい自然だった。
筋も通っている。
納得もできる。
できる、はずなのに。
胸の奥の、
ほんの狭いところだけが、
何度も、何度も、
きゅう、と縮む。
歩くたびに、
そこだけが遅れて痛んだ。
リリアナはそっと息を吐いた。
これも、
いずれ慣れていくのだろう。
あの人との時間が多いから、
こうして何かの拍子に
胸を掠めていくだけだ。
けれど、
それにもきっと慣れていく。
慣れていかなければならない。
そうでなければ、
前には進めない。
リリアナはゆっくり顔を上げた。
立ち止まっている場合ではない。
見ておかなければならない流れがある。
確かめておくべきこともある。
あの人が、
これ以上悪いものに触れずに済むように。
そのために、
今の自分にできることをやるしかない。
胸の奥に残ったものごと、
静かに呑み込んで、
リリアナはまた歩き出した。




