第26話 王太子と灰色の女の伝承(4)
日が沈む前に古書店を出ると、二人は待たせていた馬車へ乗り込んだ。馬車は王都へ向けて、ゆっくりと進み始める。
ノアは窓の外を見たまま言った。
「今回も、はっきりした収穫はなかった」
リリアナは思わず顔を上げた。
「……いいえ。ありました」
「どこに」
ノアはまだ窓の外を見ていた。問いながら、リリアナが何を言うつもりなのかは分かっている。古書店で聞いたあの方法を、収穫だと認めたくなかった。
「エリオス殿下を救えるかもしれない方法が分かりました」
そこでようやく、ノアがリリアナを見た。
「分かっていない」
「ですが、三人の王太子は、灰色の髪の女性と契りを結んだあとも長く生きています」
「そう書かれているだけだ。原本もない。身体を重ねたことが理由だったという証拠もない」
「けれど三人とも、契りを結んだ夜を境に、それまで続いていた病や事故が止まっています」
「三人しかいないとも言える」
「それでも、これまで私たちは、その三人すら見つけられませんでした」
ノアの眉間に皺が寄った。
「そもそも、俺たちが呪いだと思ってるものが、本当にそうなのかも分からない」
リリアナは一瞬、言葉を失った。
「ノアは、ここまで調べてきたことを、今になってすべて偶然だったことにするのですか」
ノアは答えなかった。
「若くして亡くなった王太子たちも、本人が助かった代わりに周囲で犠牲が出ていることも、灰色の髪を持つ女性の記録が何度も現れることも。爆発の直前、男の人の声に女の人の声が重なって聞こえたことも。それらを全部、偶然で片づけるのですか」
「……」
「そうではないから、これまで私と一緒に調べてくださったのでしょう」
「分かってる」
低い声だった。
「俺だって、全部が偶然だとは思ってない。何かがあると思ってる。そうじゃなきゃ、ここまで調べてない」
「でしたら――」
「でも、俺たちは最初から、エリオスは二十歳までに死ぬかもしれない、その前提に合うものばかり拾って、違う可能性を見落としてるかもしれない」
その言葉に、リリアナの目の前で動かなくなったエリオスの姿がよみがえった。
「それでも、今回の記録を無視することはできません!」
「無視しろとは言ってない。もっと確かめる」
「その間に何か起きたら、どうするのですか!」
「リリアナ」
「これまでどれだけ探しても見つからなかったものが、ようやく出てきたのです。それなのに、まだ確かめると言っている間にエリオス殿下に何かあったら――」
「リリアナ」
今度は、言葉を止めるような声だった。
リリアナは口を閉じた。
膝の上で握った手に、爪が食い込んでいる。
また間に合わなかったら。
それでもノアから目は逸らさず、もう一度口を開いた。
「私は、試す価値があると思っています」
ノアの表情が険しくなった
「何を試すつもりだ」
「私にできることなら、試します」
「確かな方法でもないのに?」
「確かではなくても、可能性はあります。それに、何もしないまま殿下を失うよりはいいです」
ノアはしばらくリリアナを見つめた。
「エリオスにはサラがいる。婚約者だ」
「はい」
「エリオスは、婚約者がいるのにほかの女性を抱くような人じゃない」
そこまで口にしたところで、古書店でリリアナの横顔を見た時のことが頭をよぎった。
兄には生きていてほしい。リリアナがエリオスと契りを結べば助かるかもしれないと、真っ先に考えたのも本心だった。
それなのに、後になって兄がリリアナに触れるところを思い浮かべると、どうしてもその先を考えられなかった。
「分かっています」
「事情を話せば、なおさらだ。君と契りを結べば自分が助かるかもしれないなんて聞かされて、エリオスが受け入れると思う?」
「思いません」
「なら、どうするつもりだ」
「エリオス殿下が、ご自身の意思で私を受け入れてくださる方法を探します」
「事情を隠して?」
「はい」
ノアの眉間の皺が深くなる。
「エリオスに、一度だけ私にお情けをください、とでも頼むつもりか」
リリアナの顔が強張った。
「そのようなことを申し上げるつもりはありません」
「じゃあ、どうする。理由も話さず、エリオスが君を抱きたいと思うように仕向けるのか」
「……方法は考えます」
「君だって――」
そこまで言って、ノアは止まった。
去年のエリオスの誕生日の頃から、第二王子の縁談候補としてバルディエ家の名が挙がっているという噂は、ノアの耳にも入っていた。
「私が、何ですか」
「いや。君にだって、いずれ縁談が出る」
「それは、そうかもしれませんが」
「その時、何もなかった顔で縁談を受けるのか」
「はい」
「そんな簡単な話じゃないだろ」
「簡単だとは思っていません」
「あとでエリオスが知ったらどうする」
「その時は、お詫びします」
「謝れば済む話じゃない!」
ノアの声が跳ね上がった。
「エリオスは、自分が生きるために君を利用したと思う。何も知らなかったとしても、自分を責める」
「それでも、生きていてくださる方がいいです」
「知られればエリオスだけじゃない。サラも、アルヴェイン家も、バルディエ家も巻き込む。王太子が婚約者のいる身で、バルディエ家の令嬢と関係を持ったとなれば、ただの男女の話では済まない」
「知られないようにします」
「絶対に知られない保証なんてない」
「⋯⋯」
「それでもやるの?」
「はい」
ノアの声には、余裕がなくなっていた。
「それに、エリオスとサラの婚約はなくなってない。婚礼が延びただけだ」
「分かっています」
「あの方法が本当に効いても、そのあとエリオスはサラと結婚する。その予定は何も変わらない」
「はい」
「エリオスとのことは、一度きりで終わるんだぞ」
「それで構いません」
「君には何も残らない」
「残ります」
「何が」
「エリオス殿下が生きてくださいます」
ノアの顔が歪んだ。
「それだけで、自分には何もいらないって言うのか」
「私が望んでいるのは、殿下が生きてくださることです」
「子どもができる可能性だってある」
リリアナは一瞬、言葉を止めた。
「分かっています」
「そこまで分かってて、それでも?」
「はい」
「そこまでして、自分の身体を差し出すのか」
「私の身体です。どうするかは、私が決めます」
「だからって――」
「それに、私は嫌ではありません」
ノアの言葉が止まった。
リリアナは目を逸らさない。
「エリオス殿下と契りを結ぶことを、嫌だとは思いません」
「……」
「殿下のお心をいただけなくても構いません。妻になれなくてもいい。それでエリオス殿下が生きてくださるのなら、私は――」
「俺が嫌なんだ!」
声が馬車の中に響いた。リリアナが目を見開き、ノアも言ってから口を閉ざした。
ノアは、彼女を止める理由を一つずつ並べた。リリアナは、それでも答えを変えなかった。
最後に残ったのは、ノア自身の答えだった
「……ノア」
ノアはリリアナを見なかった。
長い沈黙が続いた。馬車の揺れる音だけが、二人の間を埋めている。
やがて、リリアナが口を開いた。
「今日聞いたことは、まだエリオス殿下にはお話しにならないでください」
「話さない。今は」
「ありがとうございます」
兄に、何をどう話せというのか。
灰色の髪を持つ女と契りを結べば、命が助かるかもしれない。その相手がリリアナで、本人もそれを選ぶつもりでいる。
そんな話を、今すぐ兄に突きつけられるはずがなかった。
「でも、別の方法は探す」
その言葉を、リリアナは以前にも聞いたことがあった。
もうノアの記憶にはない世界で、二人で一冊の物語を読んだ時にも。病に倒れた婚約者を救うため、声を差し出そうとした娘を前に、ノアは同じ答えを選んだ。
ほかの方法を探す、と。
「私も探します」
それきり、二人とも何も言わなかった。
別の方法が見つからなかった時の答えだけは、もう互いに分かっていた。
馬車は夕暮れの王都へ入っていった。




