第27話 交わりあう運命(1)
レオニードに会った日の言い合い以来、ノアとリリアナが二人で調べものをすることはなくなった。
学院で顔を合わせれば挨拶はするし、必要なことがあれば話もする。ただ、以前のように、そのまま話し込むことはなくなっていた。
ちょうど、二人が使っていた資料庫の搬出時期とも重なった。研究棟の修繕が終わりに近づき、一時的に移されていた記録が少しずつ元へ戻され始める。職員の出入りも増え、これまでのように長く資料を広げていられる場所ではなくなった。
これまでなら、ノアが次に調べる場所を決めていた。けれど、今回は何も言わなかった。リリアナも聞かなかった。
そうして、二人で古い記録をめくる時間は途切れた。
レオニードから聞いた、三人の王太子と三人の灰色の女。契りを結んだあとに、災いが止まったという記録。
ノアは別の方法を探すと言ったし、リリアナも自分にできることを探していた。けれど、答えはまだ見つからないままだった。
九月も半ばを過ぎる頃、学院では秋季交流会の準備が始まった。
前年は、交流会のわずか二日後にエリオスの誕生祭が控えていた。王都へ集まる貴族や地方領主まで来賓として迎えることになり、王宮外郭の迎賓館を借りるほどの規模になった。
今年は例年どおり、学院の大広間で行われる。来賓の数も去年ほど多くなく、準備もずっと簡単だった。
リリアナとノアが受け持つ仕事も別だった。必要な確認で言葉を交わすことはあっても、二人で一つの机を囲むことはない。
今は、それでよかった。
十月に入ってまもなく、秋季交流会の日を迎えた。
大広間には正装した生徒や卒業生、若い官僚や来賓たちが集まっていた。
エリオスにも学院から招待状が出されていたが、公務の都合で欠席すると聞いていた。去年まで生徒会長として準備の中心にいた人が、今年はいない。卒業したのだから、何もおかしなことではない。
それでも、去年のことを思い出した。
あの時、リリアナは交流会へ行くことさえできなかった。研究棟に閉じ込められ、濡れたまま熱を出し、動けなくなった自分を見つけてくれたのはエリオスだった。
もう一年も前のことだ。
リリアナは目の前の仕事へ戻った。
夜も更け、大広間の中央では踊る者が増えていた。
リリアナは手元に残っていた最後の書類を学院職員へ渡した。
「リリアナさん、最後までお仕事ばかりしているでしょう」
生徒会の上級生が声をかけてきた。
「少しくらい楽しんできたらいかがですか。まだ一度も踊っていないでしょう?」
「ですが……」
「もうお仕事はありませんよ。それに、踊れるのもあと一曲か二曲くらいです」
上級生は少し声を和らげた。
「去年は参加できませんでしたし。今年は少しくらい、楽しんできてもいいと思いますよ」
気遣って言ってくれているのは分かる。
「……ありがとうございます」
そこまで言われて断るのも悪い気がして、リリアナは大広間へ目を向けた。一曲くらいなら踊ってもいいのかもしれない。
問題は、誰と踊るかだった。
そんなことを考えながら、少しだけ中央へ寄る。
リリアナが気づいていないだけで、その姿を目で追う男子生徒が何人かいた。一年前なら、灰色の髪だけを見て距離を取る者もいたが、学院で過ごすうちに、リリアナがどんな人間なのかを知る者は増えた。
バルディエ家の令嬢で、成績もよく、生徒会の仕事もきちんとこなす。華奢でおとなしく見えるのに、話せば意外なほど芯が強い。無駄のない美しい所作と整った顔立ちに、つい目で追ってしまう男子も少なくなかった。
以前は肩にかかる程度だった灰色の髪も、今では肩甲骨のあたりまで伸び、動くたびに背中で揺れる。
今では、その色だけを理由に彼女を避ける者の方が少なくなっていた。
本人は、そんな視線にはほとんど気づいていない。
ノアは気づいていた。
さっきから、リリアナの周りに男が増えている。声をかけるでもなく近くを通るふりをする者や、友人と話しながら何度もそちらを見る者もいる。
普段なら、自分が近くにいるだけで、もう少し遠巻きだった気がする。ここしばらく距離を取っていたせいかもしれない。
そう思うと、余計に面白くなかった。
リリアナが誰と踊ろうと、ノアが決めることではない。今夜だって、自分から近づくつもりはなかった。
あの日、あんなふうに感情をぶつけてしまった。リリアナが何としてでもエリオスを生かそうとしていることも、そのためなら自分の身さえ差し出すつもりでいることも分かっている。
だからこそ、自分の気持ちにはまだ折り合いがつかなかった。
その時、リリアナが顔を上げた。
目が合う。
二人とも、すぐには逸らさなかった。
その向こうで、友人に背中を押された男子生徒が一人、リリアナの方へ歩き出した。
ノアはそれを横目で見る。
別に止める理由はない。リリアナが誰と踊ろうと、彼女の自由だ。
そう思った時には、もう手を差し出していた。
「……踊る?」
リリアナが少し驚いたようにノアを見る。
「はい」
その手を取る。
ノアはリリアナを見たまま、視線だけを少し横へ向けた。こちらへ来ていた男子生徒と目が合う。
男子生徒は二人の手を見て、もう一度ノアを見る。
察したらしい。
くるりと踵を返し、来た時より少し速い足取りで友人のところへ戻っていった。
リリアナは最後まで気づかなかった。
ノアは何も言わず、彼女を踊る人の輪へ連れていく。
少なくとも、あの男と踊っているところを見なくて済む。
それだけで少し気が楽になった。
我ながら勝手だと思う。
リリアナにとって、この世界でノアと踊るのは初めてだった。けれど、彼の歩幅は知っている。
前の世界では何度も一緒に踊った。エリオスが学院を卒業してからは、エリオスが不在の時の夜会や学院の行事でノアがエスコートをしてくれることがよくあった。
だから最初の数歩から迷うことなくついていくと、ノアが少し不思議そうにこちらを見る。
「踊り慣れてるな」
「……そうでしょうか」
「俺と初めてだろ」
「はい」
それ以上は答えなかった。
曲に合わせて向きを変えるたび、リリアナの頭には馬車の中で交わした言葉が浮かぶ。
――俺が嫌なんだ。
あんなふうに言われるとは思っていなかった。どう受け止めればいいのか、今も分からない。
謝ることでもないし、ノアが嫌だと言ったからといって、自分の考えを変えることもできない。
レオニードが見つけた記録が正しく、それで本当にエリオスを救えるのなら。
リリアナは、その方法を選ぶ。
そう思っている以上、あの日の話を自分から持ち出すこともできなかった。
ノアも、ほとんど話さなかった。
片手にはリリアナの手があり、もう片方の手を添えた先で、華奢な身体が自分の動きに合わせている。
こんな時でなければ、ただ嬉しかったのかもしれない。
馬車の中では勢いのまま口にした。
俺が嫌なんだ。
けれど、あれは本心だった。
同じように、エリオスには生きていてほしい。それも揺らがない。
もしリリアナ自身が、そんなことはしたくないと言ったなら、ノアは迷わず別の方法を探しただろう。期限ぎりぎりまで、何としてでも。
けれど、リリアナは嫌ではないと言った。エリオスが生きるなら、それでいいとも。
兄の命と、リリアナ自身の意思。
その二つの前では、自分が嫌だという気持ちなど後回しにするしかない。
分かっているから、苦しかった。
曲に合わせて向きを変えた時、さっきとは別の男子生徒と目が合った。相手は一瞬こちらを見て、すぐに視線を逸らす。
ノアは何も言わず、リリアナの腰に添えた手の位置をほんの少しだけ直した。
その直後、次に出す足を逆にしてしまった。
「ノア」
「ん?」
「逆です」
「……あ」
すぐに立て直すと、リリアナが少し目を見開いていた。
「珍しいですね」
ノアは困ったように笑う。
「……今のは忘れて」
「はい」
数歩進んだところで、ノアが横目でリリアナを見る。
「忘れてくれる顔じゃないな」
リリアナは少し考えた。
「……難しいかもしれません」
「ほらね」
「ノアが踊りを間違えるところなんて、なかなか見られませんから」
「そんなに珍しいなら、記念にしておけば」
投げやりな返事がおかしかったのか、リリアナが笑う。ノアもつられて笑った。
そのあとは、また言葉が少なくなった。あの日のことにも、調査のことにも触れないまま、一曲の終わりまで踊った。
最後の音が止まり、二人の足も止まる。
「ありがとうございました」
「ああ」
ノアは手を離しかけて、ふと聞いた。
「まだ踊る?」
「いいえ。今日はもう十分です」
「そう」
今度こそ手を離す。
リリアナは生徒会の者たちがいる壁際へ戻っていった。
その途中で、さっきから彼女を見ていた別の男子が一歩動く。ノアと目が合うと、その足が止まり、結局リリアナへ近づくことはなかった。
リリアナが生徒会の者たちのところへ戻るのを見届けてから、ノアもようやく視線を外す。
自分には、彼女を誰かから遠ざける権利などない。それくらい分かっている。
それでも、もう踊らないと聞いてほっとした自分には、少し呆れた。
少なくとも今夜は、自分のあとに誰かと踊っているところを見なくて済む。
二人の間にあるものは、何一つ片づいていない。
それでも、一曲だけは一緒に踊った。
交流会から十日ほどして、エリオスは十九歳の誕生日を迎えた。
その日、王宮前の広場には、王太子を一目見ようと朝から多くの人が集まっていた。
やがて王宮の正面にエリオスが姿を見せる。
人垣のずっと後ろに、リリアナもいた。
交流会にも、エリオスはいなかった。卒業してから、直接その姿を見ていない。
ノアに近況を聞くたび、元気にしていることは分かっていた。怪我もしていない。病気にもなっていない。
それでも、この日だけは、自分の目で確かめたかった。
十九歳になったエリオスが、ちゃんとそこに立っていることを。
遠くても、すぐに分かった。
淡い金の髪が秋の日差しを受け、人々の声に応えるように手を上げる。隣の者に何か言われ、少し笑った。
リリアナは唇を強く結んだ。
前の世界でも、エリオスは十九歳の誕生日を迎えた。
そして、二十歳の誕生日が来る前に死んだ。
寝台の上で呼吸が止まり、握っていた手は二度と握り返してくれなかった。棺の中で触れた頬は、もう冷たかった。
広場の向こうでは、そのエリオスが笑っている。
二十歳まで、もう一年もない。
握り込んだ手に力が入った。
レオニードが見つけた三人の王太子は、灰色の髪の女と契りを結んだあと、災いが止まった。
同じことがエリオスにも当てはまるのなら、自分がその相手になれば助かるかもしれない。
確かな方法ではない。それでも、今見つかっているのはそれだけだった。
エリオスにはサラがいる。
そして、本当の理由は言えない。
命を救うためなのだと知れば、エリオスはきっと受け入れない。
なら、なんと言えばいいのだろう。
好きだから、一度だけ私を選んでくださいとでも言うのか。
そんなことを言われても、エリオスは困るだけだろう。
婚約者がいるのに、突然そんなことを頼まれて、どうすればいいというのか。
けれど、本当の理由を話せないのなら、ほかに何を言えばいいのか分からなかった。
エリオスは、リリアナにとってずっと特別だった。
生きていてほしい。笑っていてほしい。
彼がいなくなった世界で、自分だけが生きていくことなど、もう考えたくもない。
叶うことなら、その隣で同じ時間を生きたい。
だからこそ、本当はこんな形で求めたくなかった。
救うためではなく、エリオス自身が自分を望んでくれたなら。その先も一緒に生きられたなら。
けれど、ほかに方法が見つからなければ、頼むしかない。
あの時、ノアに言われた。
お情けをくださいとでも頼むのか、と。
そんなことはしないと思っていた。
それでも、エリオスの命がそれにかかっているなら、恥ずかしくても、惨めでも、断られても、もう一度頼む。
十九歳になった。
時間は、もう一年もない。
別の方法を探す。
それでも見つからなければ。
どうすれば、エリオスに選ばれてもいない自分が、その腕の中へ入れるのか。
それだけは、考えなければならなかった。
今度こそ、エリオスを死なせるわけにはいかなかった。
やがてエリオスが人々へもう一度手を上げ、王宮へ戻っていく。
その姿が扉の向こうへ消えるまで、リリアナは見ていた。




