第25話 想いを胸に(6)
春になると、エリオスが学院へ来る日は減っていった。
卒業後に本格的に担う公務の引き継ぎが始まり、夏に控えたサラとの結婚式の準備も重なって、王宮へ戻ることが増えたためだ。
ある日の生徒会室では、久しぶりにエリオスを交えて会議が行われていた。卒業式までに終わらせなければならない引き継ぎと、新年度の役員選定。机の上には、確認を待つ書類が積まれている。
エリオスは一枚ずつ目を通し、必要な箇所へ書き込みをしていた。
「来年度の予算案は、顧問にも確認を頼んでくれ」
「承知しました」
リリアナは受け取った書類を手元へ寄せた。顔を合わせるのは、数日ぶりだった。
同じ部屋にいる。それだけで、胸の奥が少し明るくなる。けれど、以前より濃くなった目の下の影が気になった。公務の引き継ぎと婚礼の準備が重なり、休む時間も取れていないのだろう。
無理をなさらないでください。
そう言いたくても、今のリリアナが口にできるのは、生徒会役員として必要な言葉だけだった。
「殿下」
扉のそばに控えていた従者が声をかけた。
「陛下がお呼びです。公務の引き継ぎに関する打ち合わせが、予定より早まったとのことです」
「今からか」
「はい」
エリオスは手元に残った書類を見た。まだ確認を終えていないものが、何枚も残っている。
「ああ、分かった」
書類をまとめ、隣に座るエリックへ差し出した。
「すまない。残りを頼めるか」
「もちろんです。急ぎのものはこちらで確認しておきます。会長に見ていただく必要があるものだけ、分けておきますので」
「助かる」
「こちらのことはお気になさらず、王宮へお戻りください」
エリオスは頷き、席を立った。従者が扉を開ける。
その前で、エリオスはリリアナを見た。何かを言おうとしているように見えたが、結局何も言わなかった。
リリアナも、疲れの残るその顔を見つめながら、黙って見送ることしかできなかった。
扉が閉じたあと、エリックが預かった書類を何枚かに分け始めた。
「こちらは私が確認します。リリアナ嬢には、この二つをお願いしてもよろしいですか」
「はい」
受け取った一枚には、エリオスが途中まで書き込んだ文字が残っていた。つい先ほどまで、そこにいた人の筆跡だった。
けれど本人は、もういない。
以前から、二人きりで長く話すことが多かったわけではない。それでも、同じ部屋にいられる時間さえ減っていくと、これまでとは違うのだと思い知らされた。
生徒会で必要な言葉を交わす。それだけでいい。エリオスが生きて、王となる道を進んでくれるなら、それでいい。
そう思うたび、夏の結婚式が浮かんだ。
自分が隣にいなくても、エリオスの未来は続いていく。この世界へ戻って、そのためだけに生きてきたはずだった。けれど、卒業の日が近づくにつれ、学院で顔を合わせる理由までなくなることが、少しずつ現実になっていった。
引き継ぎの書類は減り、使い慣れた棚から、役員たちの私物が一つずつ消えていった。
◇
卒業式を翌日に控えたその日、ほかの役員たちが帰ったあとも、リリアナは生徒会室に残っていた。
最後の書類をそろえ、紐をかける。
「これで、すべてですね」
「ああ」
エリオスは答えたものの、席を立とうとはしなかった。
窓の外はもう薄暗い。いつもは誰かしらの声が残っている生徒会室も、今日は紙の擦れる音が聞こえるほど静かだった。
リリアナは椅子を戻し、鞄を手に取った。
「では、私はこれで失礼いたします」
「リリアナ」
呼び止められて振り返ると、エリオスはまだ机の向こうに座っていた。
「……明日で、卒業だ」
「はい」
「卒業したら、今までのようには会えなくなる」
「……そうですね」
分かっていたはずなのに、口にされると、明日が急に近づいたように思えた。
「今まで、ありがとう。生徒会のことだけじゃない。俺のために、ずっと調べてくれていたことも」
すぐには返事ができなかった。
「まだ、何も分かっていません」
「それでもだよ。ただ、卒業したあとは、調査は俺とノアで続ける。君には、もう手を引いてほしい」
鞄の持ち手を握る手に、力が入った。
「これ以上、君まで危険な目に遭わせたくないんだ」
リリアナは答えなかった。
調査をやめるつもりはない。レオニードから返事が届けば、ノアに知らせてもらうつもりでいた。けれど、自分を案じてくれているエリオスに、今ここでそれを告げることはできなかった。
「……本当に、気をつけてください。ご自分のことを、どうか大切にしてください」
調査から手を引くとも、引かないとも言わなかった。ただ、どうか無事でいてほしい。その願いだけは、隠しきれなかった。
「……分かった」
これで話は終わったはずだった。いつものように挨拶をして、部屋を出ればいい。
リリアナが鞄を持ち上げる。
「待って、リリアナ」
椅子が大きな音を立てた。
エリオスは勢いよく席を立ち、机を回って彼女の前まで来た。手を伸ばせば、すぐに触れられる。
そのまま腕の中へ引き寄せたいと思った。離したくない。ただそれだけの理由で、抱きしめてしまいたかった。
けれど、抱きしめれば、そばにいてほしいと言ってしまう。卒業しても会いたい。行かないでほしい。押し込めてきたものを、すべて口にしてしまいそうだった。
胸の奥が締めつけられ、息をすることさえ苦しくなる。それでも、上げかけた手を強く握り込んだ。
「少しだけ……肩を貸してくれないか」
リリアナは何も尋ねなかった。
「はい」
エリオスはもう一歩近づき、彼女の肩へ額を預けた。短くなった灰色の髪から、かすかに花の香りがする。
握り締めていた手から、ゆっくりと力が抜けていった。
抱きしめることはしなかった。触れているのは、肩と額だけだった。それでも、離れがたいと思うには十分だった。
リリアナも動かなかった。
肩に触れる温度が愛おしくて、胸が苦しいほど締めつけられた。腕を伸ばせば、彼の背に触れられる。抱きしめ返すこともできる。
けれど、それはしなかった。
何かを言うこともなく、ただ彼が離れるまで、その重みを受け止めていた。
やがて、エリオスが身体を離した。
「ありがとう」
「……いいえ」
肩に残った温度が、ひどく名残惜しかった。
「エリオス殿下」
「うん」
呼んだのに、その先が続かなかった。
これからもおそばにいたい。どうか、私の手の届かないところへ行かないで。
言えない言葉ばかりが胸にあふれた。
リリアナは小さく首を横へ振った。
「どうか、お元気で」
明日も会うはずなのに、ずっと先まで届かせるような別れの言葉になった。
エリオスは少し遅れて答えた。
「……君も」
それ以上のことは、どちらも言えなかった。




