第20話 蝕むものの正体(2)
薬師の診療所は、
大通りから少し外れた細い路地の奥にあった。
エリオスが襲われた、
あの大通りの近くだ。
宿屋街の一角にある、
古い建物だった。
一階が診療所。
二階は宿屋になっている。
表から見れば、
どこにでもあるような建物だ。
だが、
軒先には干した薬草が吊られ、
風が吹くたび、
青く苦い匂いがかすかに混じった。
休日だった。
二人とも、
学園の制服ではなく
目立たない格好をしていた。
通りの手前で、
リリアナは足を止めた。
その横で、
ノアがついてきていた護衛に
短く言う。
「ここで待て」
護衛が一瞬ためらう。
「ですが」
「心配ない」
それ以上は言わせない声だった。
護衛は一礼し、
少し離れた場所へ下がる。
外から見れば、
年頃の男女が二人で
宿屋街の建物へ入っていくようにしか見えない。
けれど、
今さら引き返すわけにもいかなかった。
扉の前で、
リリアナは
一瞬だけ足を止めた。
ノアが
横目で見る。
「ここか」
リリアナは
小さく頷く。
「はい」
扉を叩く。
しばらくして、
中から
低い声が返った。
「……入れ」
扉を開ける。
室内は
薄暗かった。
棚には、
乾いた薬草。
小瓶。
古い器具。
紙束。
窓際の机に、
薬師が座っていた。
深く刻まれた皺。
日に焼けた肌。
節くれ立った手。
あの日と同じ顔だった。
薬師の視線が、
最初に
リリアナへ向く。
「……久しいな」
ほんの短く、
それだけ言う。
それから、
ノアへ移る。
「……珍しい取り合わせですね」
ノアは短く礼を取った。
「話を聞きに来た」
薬師は
何も言わない。
それでも、
相手が誰かを承知しているのは
その態度で分かった。
ただ、
続きを促すように
顎をわずかに引く。
ノアは
研究棟で見つけた記録の話をした。
王太子事故記録。
祖父の代。
側近死亡記録。
三名。
王太子本人に異常なし。
そこまで聞いて、
薬師は
ゆっくり息を吐いた。
「……あれですか」
小さな声だった。
ノアが目を細める。
「ご存じか」
薬師は
首を横に振る。
「詳しい中身までは存じません」
「私が王宮に上がったのは、
先代王が
すでに王になった後です」
「ですから、
王太子時代の細かな経緯までは
直接は見ておりません」
少し間を置く。
「ですが」
「側近が立て続けに死んだこと自体は、
知っています」
沈黙。
薬師は
机の端を指で軽く叩いた。
「王宮では、
そういう話は
表に出さない」
「事故で片づく」
「病で片づく」
「記録も、
必要なところだけ残る」
低い声だった。
「まことしやかな噂は、
噂のままにしておいた方がいいこともあります」
「半端に知れば、
その考えに囚われる」
「疑いは、
一度形を持つと離れない」
「だから以前、
お前には控えを見せても、
それ以上は話さなかった」
リリアナの指先が
わずかに動く。
薬師は
それを見ても、
何も言わない。
「だが、
王宮勤めの者の間じゃ
昔から噂があった」
ノアが問う。
「どんな」
薬師は
少しだけ目を伏せた。
「王太子の周りには、
まがまがしいものがいるんじゃないか、と」
部屋の空気が
わずかに沈む。
「呪い」
ノアが
静かに言う。
薬師は
即座には答えない。
「……そう呼ぶ者もいた」
「王宮の繁栄に関わる話だ。
誰も表では口にしない」
「口にしたところで
狂言扱いでは済まない」
「下手をすれば、
そのまま消される」
棚の奥へ目をやる。
「あの記録も本来、
持ち出しは許されない類のものだった」
「だが、
王宮の中に置いておけば
いずれ消えると思った」
「だから、
せめて自分の手元の記録だけはと思って
控えを残した」
ノアが
さらに問う。
「祖父の代の後は」
薬師は
頷く。
「現王の兄」
「……王太子だった」
「十七で病死した」
ノアの目が
わずかに細くなる。
「父上の兄か」
「そうです」
薬師は
机の上の紙束を
一つ引き寄せる。
「その頃からだ」
「私が、
妙な傷を
よく見るようになったのは」
紙をめくる。
「庭師」
「剪定中に落ちた枝から
王太子を庇って肩を裂いた」
「大した深さでは
なかったはずだ」
「だが、
治らない」
「膿みもしないのに
塞がらない」
「皮膚の縁が
黒ずんでいく」
「熱も長引く」
ノアは
黙って聞いている。
薬師は
続けた。
「別の者もいた」
「王太子の馬が暴れた時、
手綱を取って腕を割いた厩番だ」
「これも、
妙な残り方をした」
「肉の奥に、
何かが居座るみたいにな」
低く。
「普通の傷じゃない」
「刃や石の傷というより――」
「何かを肩代わりしたような傷だ」
静寂。
その言葉が、
ゆっくりと空気に沈む。
ノアの思考が
そこで止まる。
肩代わり。
身代わり。
研究棟で見た記録。
祖父の側近。
王太子本人に異常なし。
そして。
ふと、
別の光景が浮かぶ。
「……兄上が十歳の、誕生日の祝祭で」
薬師が
視線を向ける。
ノアは続けた。
「襲撃があった」
「この近くだ」
「兄上の前に、
子どもが飛び込んだ」
リリアナの呼吸が
わずかに止まる。
「背中に刃を受けた」
「でも」
「その子は、
結局見つからなかった」
部屋の空気が
ぴたりと止まる。
ノアの視線は
机の上の紙に落ちたままだった。
「……もし」
「その子が生きているなら」
「そんな傷になっていたんだろうか」
静かな声だった。
問いというより、
独り言に近い。
薬師は
答えなかった。
ただ、
ゆっくりと
リリアナを見る。
話していないのか。
問わずとも、
そう見えた。
リリアナは
何も言わない。
目も上げない。
沈黙。
それで、
十分だった。
薬師は
視線を戻す。
「……あり得ます」
短く言う。
「生きているなら、
傷は残っているかもしれない」
「見た目は塞がっても、
奥に妙な違和が残ることがあります」
リリアナの指先が
膝の上で
静かに握られる。
背中の傷が、
じわりと疼いた。
ノアは気づかない。
薬師は
さらに続けた。
「王太子の周りで起きるものは、
いつも同じ形とは限らない」
「本人に落ちることもある」
「周りへずれることもある」
「近くにいた者が
代わりに受けることもある」
「……だから、
事故とも病とも
断じきれない」
ノアが低く言う。
「やはり、
呪いみたいなものがあるのか…」
薬師は
少しだけ考えてから答えた。
「あるとまでは、
まだ言えません」
「ですが、
昔から王太子の周りでだけ
似たことが起きている」
「それは事実です」
「調べるなら、
呪いとして調べる方が早いかもしれませんね」
薬師は
棚の奥へ目をやった。
「私のところにあるのは、
ここまでです」
「だが、
そういう類いを好んで掘る者はいる」
「学びの場には」
ノアが
わずかに目を上げる。
薬師は続けた。
「学院にも、
呪いや禁忌を
研究している者がいると聞きます」
「表立ってではありませんが」
「古い記録の写しや、
外へ流れた断片を
集めている者です」
「探すなら、
そういう筋でしょう」
ノアは
その言葉を
黙って受け止める。
「……分かった」
短く言う。
立ち上がる。
リリアナも
後に続く。
扉の前で、
薬師が言った。
「お待ちを」
ノアが振り返る。
薬師は
しばらく黙ったあと、
低く続けた。
「これ以上は、
何かを失うかもしれません」
「それでも進むなら、
戻れなくなる覚悟を」
ノアは
わずかに眉を寄せる。
だが、
何も言わずに
頷いた。
その横で、
リリアナは
一度も顔を上げなかった。
外へ出る。
夕方の光が
石畳に長く落ちていた。
しばらく、
二人とも黙って歩く。
先に口を開いたのは
ノアだった。
「……呪い、か」
独り言のように
こぼす。
リリアナは
答えない。
ノアは
それ以上は聞かなかった。
ただ、
胸の奥に
一つの形だけが残る。
王太子に向かうはずのものを、
誰かが代わりに受けることがある。
その形だけが。
そして、
その子どものことも。
けれど。
今はまだ、
口にするべきではない気がした。
だから、
何も言わないまま
二人は
王都の通りを
静かに歩き続けた。




