第20話 蝕むものの正体(3)エリオス
休日の昼下がりだった。
王宮の回廊は、
平日よりいくらか静かで、
窓から差し込む光だけが
長く床を滑っていた。
その廊下の向こうから、
ノアが歩いてくるのが見えた。
エリオスは、
何となく足を止める。
いつもの宮中での装いとは、
少し違っていた。
目立たない色の上着。
王族らしい華やかさを薄めた、
外向きの軽い格好。
外出するのだろうと、
ひと目で分かる。
ノアはもともと、
休日にふらりと図書館へ出かけることもある。
けれど。
「出かけるのか」
何気なく問うと、
ノアはほんの一瞬だけ間を置いた。
「ああ、少し」
短い返事だった。
それだけ言って、
それ以上は話さない。
エリオスは
わずかに眉を動かす。
「どこへ」
軽く重ねる。
ノアは
わずかに視線を逸らした。
「大した用じゃない」
その言い方が、
妙に引っかかった。
ノアが
こんなふうに誤魔化すのは珍しい。
たいていは面倒そうにしながらも、
聞かれたことにはそのまま答える。
なのに今日は、
最初から線を引くような答え方をした。
エリオスは少しだけ黙る。
「そうか」
結局、
それだけ返した。
ノアもそれ以上は何も言わず、
そのまま横を通り過ぎていく。
すれ違う一瞬、
風が動いた。
どこへ行くのか。
なぜ隠すのか。
問いは喉元まで来たが、
口にはしなかった。
兄だからといって、
何でも聞く権利があるわけではない。
子どもの頃のように、
何でもそのまま話す年でも、
もうなかった。
まして休日の外出に、
いちいち口を出すのも違う。
ただ――
最近、
ノアの様子が少し変わった気がしていた。
思春期に入って距離ができた、
それだけかもしれない。
けれど、
今日のあの短い返答は、
それだけでは片づかないものを残した。
その違和感だけが、
胸の奥に残った。
その夜。
執務机に向かっていたエリオスのもとへ、
護衛長が報告を上げに来た。
昼のやりとりが
思ったより引っかかっていたのだ。
だから、
昼のあの様子が何だったのか、
危ないことに関わっていないかだけ
見ておいてくれと伝えてあった。
それだけのつもりだった。
「ノア殿下は本日、
南地区へ向かわれました」
そこで、
エリオスの手が止まる。
南地区か。
その名を聞くと、
どうしてもあの時のことを思い出す。
十歳の誕生祭の日。
刃。
血。
そして、
自分の前に飛び込んだ
名も知らぬ子どものことを。
「……どこだ」
護衛長は淡々と続けた。
「宿屋街の一角です」
低い声が、
部屋の空気を少しだけ重くした。
「途中で、
殿下ご自身が護衛に待機を命じられました」
「同行されていたのは、
灰色の髪のご令嬢です」
一瞬、
思考が止まる。
ノアの、昼間の様子。
宿屋街。
灰色の髪。
リリアナ。
――ああ。
妙に、
腑に落ちた。
彼女と一緒なら、
昼のあの言い方にも説明はつく。
行き先を濁したのも、
言いにくかっただけかもしれない。
「……そうか」
声は、
思ったより平坦だった。
護衛長はそれ以上余計なことは言わず、
一礼して下がっていく。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
エリオスは
手元の書類へ視線を落としたまま、
しばらく動かなかった。
納得したはずだった。
それなのに。
胸の奥に落ちたものが、
消えない。
むしろ、
時間が経つほど
じわじわと広がっていく。
ただの用事かもしれない。
宿屋街だからといって、
何もかも同じ意味になるわけではない。
宿もあれば、
表に出しにくい話をする場所もある。
人目を避けるには、
ああいう場所の方が都合がいいこともある。
分かっている。
頭では。
それでも、
引っかかった。
誤魔化したこと。
リリアナと一緒だったこと。
護衛を外したこと。
男女二人でああいう場所へ向かうのが
不自然ではない関係なのかと、
一瞬だけ思った。
すぐに打ち消す。
何を考えている。
考えすぎだ。
そう言い聞かせても、
胸の奥のざらつきは消えなかった。
ノアが誰と出かけようと、
何をしようと、
本来口を出す話ではない。
リリアナだって、
自分の意思で動いているだけだ。
そう切り分けようとしても、
引っかかりだけが残る。
リリアナの顔が浮かぶ。
自分には、
いつもきちんと距離を取った顔を向ける。
静かに、
丁寧に、
一歩引いたままの顔。
なのに。
ノアの前では、
やわらいだ顔をする。
少なくとも、
自分に向けるあの
整えられた顔ではない。
彼女に、
線を引かれている気がした。
これ以上は踏み込ませないと、
言葉より先に示されているような気がした。
拒まれている、
とまでは違うのだろう。
あれはたぶん、
誰にどこまで近づかせるかを
きちんと決めている顔だ。
やわらかく見せる相手と、
そうでない相手。
踏み込ませる相手と、
一歩手前で止める相手。
それを、
静かに分けているだけだ。
本来なら、
気にするようなことではない。
人が自分に向ける目なんて、
立場が変わればいくらでも変わるものだと思っていた。
かしずかれることもある。
警戒されることもある。
距離を置かれることもある。
けれど、
それはそういうものだと受け流してきた。
相手が自分をどう扱いたいのか、
それが分かれば十分だった。
なのに。
リリアナにそうされると、
なぜか胸の奥がざらつく。
意味が分からない。
分からないのに、
引っかかる。
エリオスは
書類から手を離し、
椅子の背に深く体を預けた。
天井を見上げる。
自分でも、
何にこんなに引っかかっているのか
うまく言葉にできない。
ノアが誤魔化したことか。
宿屋街へ行ったことか。
リリアナが一緒だったことか。
そこまで考えかけて、
思考を止める。
考えたくなかった。
これ以上、
はっきりさせたくなかった。
エリオスは片手で目元を覆い、
長く息を吐いた。
「……何を気にしているんだ」
掠れた独り言だけが、
静かな部屋に落ちた。




