第20話 蝕むものの正体(4)
放課後。
今日は生徒会の予定はなかったが、
リリアナは確認したい記録があって、
一人で生徒会室を訪れていた。
薬師の診療所を出てから、
頭の奥にずっと残っている言葉がある。
――呪い。
そう呼ぶ者もいた、と
薬師は言った。
王太子の周りでだけ、
似たことが起きている。
本人に落ちることもある。
周りへずれることもある。
近くにいた者が、
代わりに受けることもある。
けれど、
過去の記録に多かったのは、
王太子本人の急死だった。
二十まで届かない。
エリオスも、
今年で十八になる。
二十まで、
あと二年。
その数字だけで、
胸の奥が冷えた。
考えないようにしても、
その言葉は消えない。
学院にも、
呪いや禁忌を研究している者がいるらしい。
薬師が言っていたその話も、
ずっと引っかかっていた。
なら、
学院側の記録に何か残っているかもしれない。
研究棟で扱われた論文。
教授の研究補助に入った学生の申請記録。
禁忌に近い研究として、
一度差し止められた書類。
生徒会を通して確認される書類の中に、
手がかりがないとは言い切れなかった。
ノアも後から来る予定だった。
だから、
その前に少しだけ確かめておこうと思った。
扉を開けた先は、
ひっそりとしていた。
窓から差し込む光はやわらかく、
机も椅子も整ったまま。
――けれど。
エリオスの机だけが、
少し違っていた。
読みかけの書類が、
机の上に広げられている。
椅子の背には、
上着がかけられたまま。
エリオスは、
先ほどまでここにいたのだろう。
そう思った視線の先に、
小さな箱が置かれていた。
王宮の包み紙だった。
その折り方を、
リリアナはよく知っている。
時が戻る前、
エリオスと宮廷で過ごしていた頃、
料理長が甘いものを持たせる時は
いつもこの包み方だった。
思わず目が行く。
そっと近づく。
蓋は完全には閉じられておらず、
中が少しだけ見えた。
黄金色の焼き色をつけた
小さなフィナンシェ。
上には
ふわりとハニークリーム。
その上から
とろりと蜂蜜が細く垂れている。
光を受けて
甘く艶めいていた。
蜂蜜の濃い甘い香りが
ふわりと広がる。
――あ。
胸の奥が、
小さく揺れる。
あの午後を思い出した。
午後の光が、
生徒会室に落ちていた。
書類を片づけ終えたエリオスが、
机の端に小さな箱を置く。
「料理長が持たせてくれた」
そう言って蓋を開ける。
中には
はちみつのフィナンシェ。
上には
やわらかなハニークリーム。
甘い匂いがふわりと広がる。
「リリーの好きなやつ」
そう言うエリオスの顔は、
どこか甘やかすようだった。
思わず笑う。
「うん。大好き」
エリオスは
意外と甘いものが好きだった。
とくに
疲れている時や
少し張りつめている時は、
こうして甘いものを持ってきてくれることがある。
一緒に食べる時間を、
大事にしてくれていたのだと思う。
私も、
このはちみつの焼き菓子が好きだった。
ひとつ手に取る。
ひとくち食べる。
甘さが広がる。
「……おいしい」
思わずこぼす。
視線を感じて顔を上げると、
エリオスが見ていた。
甘いものを食べているのは
私の方なのに、
彼の方が、
ずっと幸せそうな顔をしていた。
「その顔、好きだ」
宝物みたいに、
大事そうに言う。
指先にクリームがつく。
それに気づいたのか、
エリオスの視線が落ちた。
上着の内側から
白いハンカチを取り出す。
「手」
短く言われて、
そっと手を取られた。
指先を支え、
ハンカチをあてる。
ゆっくりと
クリームを拭い取る。
指をなぞる動きが
驚くほど静かだった。
丁寧で、
やさしくて、
触れられているだけで
胸の奥が落ち着かなくなる。
指先が動くたび、
ハンカチ越しに
彼の温度が伝わる。
触れられたところから、
じんわりと
熱が広がる気がした。
自分の体温なのか、
彼のものなのか
分からないまま、
指先だけが
妙に熱を帯びていく。
拭き終えても、
エリオスの指は
すぐには離れなかった。
近い。
目が合う。
エリオスが
ほんの少し目を細める。
視線の奥が、
静かに熱を帯びる。
まだ、
指先が触れている。
「リリー」
声が落ちる。
甘かった。
さっき食べた
蜂蜜みたいに。
耳の奥に
静かに残る声だった。
「その顔――」
ほんの少し
口元がゆるむ。
そして、
甘やかな声で言う。
「俺の前だけにして」
その声が、
甘すぎて、
一瞬、
何も考えられなくなる。
距離が、
近い。
逃げる間もなく、
意識ごと、
引き寄せられるみたいに、
動けない。
言葉が出ないまま、
ただ、
その場に縫い止められた。
エリオスは
名残惜しそうに、
ゆっくりと指を離した。
指先から熱が引いても、
胸の奥だけはまだ熱いままだった。
あの時間は、
たしかにあった。
扉が開く音がした。
リリアナは顔を上げる。
生徒会室の扉から、
エリオスが戻ってくる。
一瞬、
目が合う。
思い出の中のエリオスと、
同じ顔だった。
けれど、
こちらを甘やかすように見ていた表情は、
そこにはなかった。
さっきまで思い出していた甘さが、
まだ胸いっぱいに残ったままだった。
胸が、
きゅっと詰まる。
――いけない。
次の瞬間には、
その熱を
奥へ押し込めた。
触れたままにしてはいけない。
あの距離のまま、
今の彼に向き合ってはいけない。
軽く会釈する。
エリオスも
ほんのわずかに頷いた。
それだけ。
それ以上は、
何もない。
リリアナの表情は
すっと整う。
何もなかったように、
距離を置いたいつもの顔に戻った。




