第20話 蝕むものの正体(5)エリオス
生徒会室の扉を開けた瞬間、
エリオスは足を止めかけた。
リリアナがいた。
机の横に立っている。
一瞬、
目が合った。
その顔が、
ひどくやわらかかった。
まるで、
大事なものを胸の奥で
そっと抱いているような顔。
甘いものを思い出しているような、
どこかほどけた顔。
エリオスの胸が、
不意にどきりとした。
けれど、
リリアナの表情は
次の瞬間にはすっと消えた。
距離を置いた、
いつもの顔になった。
……なんだ、今の顔は。
誰に向ける顔だ。
誰かに見せていい顔じゃないだろ。
そう思った瞬間、
胸の奥がざらついた。
ノアが来たとでも思ったのか。
エリオスは何も言わず、
机へ向かった。
必要な書類を取る。
それだけのつもりだった。
そのまま出ていけばいい。
それで終わる話だ。
だが、
指先が書類の端で止まる。
「先日」
低い声が落ちた。
リリアナの指先が、
わずかに動く。
「南地区の宿屋街へ、
ノアと行ったと聞いた」
リリアナが顔を上げる。
「本当か」
「……はい」
短い返事だった。
それ以上は言わない。
その沈黙に、
また胸の奥がざらついた。
言えないのか。
言いたくないのか。
どちらでも、
面白くなかった。
「ノアと学院内で本を読むのも、
研究棟で調べ物をするのも構わない」
言葉は落ち着いている。
そう聞こえるようにした。
だが、
声の奥が硬くなるのを
自分でも止められない。
「だが」
わずかに言葉を切る。
「学生の男女が二人で
ああいう場所へ出向けば、
余計な誤解を招く」
リリアナは黙っている。
その黙り方まで、
また距離を感じさせた。
腹立たしい。
何に腹を立てているのかも、
分からないまま。
「君だって、
変な噂が立つのは困るだろう」
少し間があいた。
「今後の縁談に、
差し障りが出ることもある」
言った瞬間、
胸の奥を何かが刺した。
縁談。
リリアナの。
誰か別の男の隣に立つ、
未来の話。
なぜそんな言葉を選んだのか、
自分でも分からない。
それでも、
口に出してしまった以上、
もう戻せなかった。
エリオスは続けた。
「……君が誰に心を向けようと、
本来、俺が口を出すべきことではない」
一瞬、
空気が止まった気がした。
「それは分かっている」
自分に言い聞かせるような声だった。
「誰と親しくするかも、
君の自由だ」
そこまで言って、
ほんのわずかに言葉が詰まる。
違う。
そう言いたいわけではない。
けれど、
では何を言いたいのかも分からない。
ただ、
あの顔が頭に残っている。
甘く、
やわらかくほどけた顔。
それが、
自分を見た途端に変わった。
自分に向けられたのは、
線を引いた顔だった。
ノアには向けない顔。
「ただ」
低く続ける。
「相手がノアなら話は別だ」
「ノアは俺の弟で、
王子でもある」
声が、
もう一度だけ硬くなる。
「軽率な噂に巻き込まないでほしい」
言い終えた瞬間、
リリアナの顔から
血の気がわずかに引いた。
ほんのわずかだった。
けれど、
見えた。
怒ったのでも、
泣き出しそうになったのでもない。
ただ、
何かを静かに閉じたような顔だった。
エリオスの指先が止まる。
――あ。
遅れて、
自分が何を言ったのかに気づく。
言い過ぎた。
そう思った。
確かに思った。
けれど、
すぐには言葉にならなかった。
リリアナは
ゆっくりと頭を下げた。
「……申し訳ありません」
静かな声だった。
「以後、気をつけます」
怒りも、
言い訳も、
何も返ってこない。
その静けさが、
かえって胸に刺さった。
違う。
そんなふうに
謝らせたかったわけじゃない。
「……言い過ぎた」
低くこぼれた声は、
謝罪と呼ぶにはあまりに遅かった。
リリアナは顔を上げなかった。
「今日は、
先に失礼いたします」
エリオスは、
もう一度何かを言おうとした。
けれど、
喉の奥で止まる。
リリアナは軽く礼をして、
扉へ向かった。




