第20話 蝕むものの正体(6)
廊下の角を曲がったところで、
ノアは足を止めた。
リリアナが、
生徒会室の方から歩いてくる。
「リリアナ」
声をかけると、
彼女は顔を上げた。
一見、
いつも通りだった。
背筋は伸びている。
歩き方も乱れていない。
けれど、
何かが違う。
いつもと同じ表情。
それなのに、
どこか、
ひどく傷ついたように見えた。
「ノア」
リリアナは小さく礼をする。
「申し訳ありません。
今日は先に失礼いたします」
「……何かあったのか」
リリアナは、
すぐには答えなかった。
それから、
静かに首を振る。
「いいえ」
その答え方で、
何かあったのだと分かった。
だが、
ここで無理に聞くことではない。
「分かった」
リリアナはもう一度礼をして、
そのまま通り過ぎていった。
歩幅は乱れていない。
ただ、
いつもの静けさとは少し違う。
何かを押し込めているような、
そんな後ろ姿だった。
ノアはその背を見送ってから、
生徒会室の扉へ向かった。
扉を開けると、
エリオスは机の前に立っていた。
書類を手にしたまま、
こちらを見る。
その顔を見ただけで、
だいたい察した。
二人の間に、
何かあったのだろう。
「……エリオス」
扉を閉める。
「さっきリリアナとすれ違った」
エリオスの表情が、
ほんのわずかに強ばった。
「様子が違った。
何かあったのか?」
エリオスは、
閉じた扉へ一度だけ視線を向けた。
「……少し、
言い過ぎた」
後悔しているような声だった。
「何を」
「この前の休みの日だ」
エリオスは手元の書類を机に置いた。
「お前とバルディエ嬢が
南地区の宿屋街へ行ったと、
護衛から報告が上がった」
ノアの表情がわずかに変わる。
「それで?」
「噂になれば面倒だ」
エリオスは続ける。
「お前は王子だ。
彼女にも、今後の立場がある」
「だから、
気をつけた方がいいと伝えた」
ノアは黙ってきいていた。
「ただ」
エリオスの声が、
少しだけ沈む。
「……言い方を間違えた」
「なんて言った」
エリオスは一度だけ口を閉ざす。
それから、
短く言った。
「軽率な噂に、
ノアを巻き込まないでほしい、と」
その瞬間、
ノアの顔つきが変わった。
「……それを」
押さえた声だった。
「リリアナに言ったのか」
「ああ」
「何を言ってるんだ」
一歩、足が前に出る。
「やましいことなんか何もない」
「分かっている」
エリオスも返す。
「だが、
周りはそう見ない」
「だからって、
リリアナにそんな言い方をする必要があったのか」
エリオスは答えない。
ノアの声が、
鋭くなる。
「俺たちがどんな思いで――」
そこで、
言葉が止まった。
言えない。
まだ言えない。
呪いのことも。
薬師のことも。
エリオス自身に関わるかもしれないことも。
確かなことじゃない。
今ここで口にすれば、
エリオスはそれを背負う。
何も分からないまま、
ただ不安だけを。
それだけは、
させたくなかった。
ノアは奥歯を噛んだ。
その続きを飲み込まれたことに、
エリオスの胸の奥で
何かが嫌な音を立てる。
「どんな思いだ」
エリオスが問う。
「今、言いかけただろ」
ノアは視線を外す。
「今は言えない」
「お前たちは、
二人で何をしている」
「エリオスが考えているようなことじゃない」
「なら言え」
「言えない」
その答えで、
決定的に外側へ押し出された気がした。
自分だけが、
何も知らない。
昔は、
こんなふうではなかったのに。
昔はよく三人で――
そこまで考えて、
エリオスは眉を寄せた。
三人?
俺と、
ノアと、
リリアナ?
違う。
そこにいたのは、
サラだったはずだ。
リリアナではない。
何を考えている。
そんなこと、
あるはずがない。
そう打ち消しても、
妙な引っかかりだけは消えなかった。
それどころか、
目の前のノアまで遠く見えた。
ノアとリリアナが
二人だけで抱えているもの。
自分に向けられる、
一歩手前で線を引いた顔。
それから、
先ほど扉を開けた瞬間に見た、
あの柔らかい顔。
ばらばらだったはずのものが、
嫌な形でつながっていく。
「……あいつは」
ノアが顔を上げる。
エリオスは止まれなかった。
「お前には、
いつもあんな顔をするのか」
ノアの表情が止まる。
「図書館でも、
研究棟でも」
「今日だって」
「俺には、
あんな顔をしない」
言い終えたあと、
先に固まったのはエリオスの方だった。
何を言っている。
ノアはしばらく兄を見ていた。
怒るより先に、
何かに気づいたような顔だった。
それから、
短く息を吐く。
「……は」
呆れたような、
けれど責めきれないような声だった。
「そういうことか」
エリオスの眉が寄る。
「何がだ」
ノアはすぐには答えない。
何に苛立っているのか、
ようやく分かったような目で、
兄を見ていた。
やがて、
ゆっくり口を開く。
「自分で何を言ってるか、
分かってないのか」
「何の話だ」
「分かってないなら、
なおさら悪い」
ノアの声は、
静かだった。
「リリアナのことを心配してるんじゃない。
俺の評判を心配してるんでもない」
エリオスの目が冷える。
「……それ以外に何がある」
「自分で考えろ」
ノアはそこで一度だけ息を吐いた。
「少なくとも、
リリアナにあんな顔をさせる必要はなかった」
その言葉に、
エリオスは詰まった。
返す言葉が見つからない。
ノアもそれ以上は責めなかった。
少しだけ表情を緩める。
「……もう少し待ってくれ」
エリオスが顔を上げる。
「何を」
「調べていることがある」
少しだけ言葉を選ぶ。
「リリアナと」
エリオスの目がわずかに動く。
「大事なことだ」
「それが一段落したら、
ちゃんと話す」
エリオスは何も言わなかった。
言いたいことはある。
聞きたいこともある。
だが、
ノアの目がそれ以上は言えないと告げていた。
しばらくして、
エリオスはようやく言う。
「……分かった」
ノアは頷いた。
それ以上は何も言わず、
扉へ向かう。
扉に手をかけて、
一度だけ振り返る。
「エリオス」
エリオスが顔を上げる。
ノアは何かを言いかけた。
けれど、
やめた。
その眼差しだけが、
少しやわらかかった。
責めるでもなく、
突き放すでもなく。
どこか、
兄を守ろうとするような目だった。
「……いや」
「なんでもない」
ノアはそのまま生徒会室を出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
エリオスはしばらく動けなかった。
やがて、
力が抜けたように
椅子へ沈み込む。
背もたれに身体を預け、
顔を上へ向ける。
天井を見上げても、
何も考えられなかった。
片手で目元を覆う。
もう片方の手は、
机の端を掴んだまま、
少しずつ力を失っていく。
弟と、
あんなふうに言い合ったのは
いつ以来だろう。
いや。
あそこまで言ったのは、
初めてだったかもしれない。
何をしているんだ。
何を言った。
何に腹を立てた。
分からない。
分からないのに、
胸の奥だけが騒がしい。
リリアナは、
俺にはあんな顔をしない。
その言葉だけが、
どうしようもなく残っていた。
エリオスは目元を覆ったまま、
長く息を吐く。
「……何なんだ」
誰に向けたのかも分からない声が、
静かな生徒会室に落ちた。




