第20話 蝕むものの正体(7)ノア
生徒会室でのやり取りが、
まだ頭に残っている。
――俺には、あんな顔をしない。
言ったのはエリオスだ。
言った本人が、
一番分かっていなかった。
気づいていないのか。
気づかないようにしているのか。
どちらにせよ、
あれはエリオスらしくない。
ノアは中庭脇の回廊を、
一人で歩いていた。
夕方の光が、
柱の影を長く伸ばしている。
エリオスは、
感情で言葉を間違える人間ではない。
物心ついた頃から、
そばで見てきた。
あの人は、
王太子だった。
ただ与えられた立場を着ているだけの、
王太子ではない。
逃げたい日があっても、
面倒だと思う役目があっても、
それを弟に渡そうとはしなかった。
幼い頃、
冗談めかして
「代わってあげてもいい」と言ったことがある。
その時、
エリオスは間を置かなかった。
――馬鹿言うな。
荒くはなかった。
けれど、
迷いもなかった。
――お前には、背負わせない。
その声を、
今でも覚えている。
王太子としてではなく、
兄として言った声だった。
エリオス、と呼ぶと、
ほんの少しだけ表情がゆるむことも知っている。
兄上でも、
殿下でもなく。
ただの名前で呼ばれる時だけ、
あの人は少しだけ息をしやすそうにする。
だから、
二人の時だけはエリオスと呼ぶ。
エリオスは今まで一度も、
逃げなかった。
自分を犠牲にしても、
その役目を、
誰かに渡そうとはしなかった。
そういう兄だった。
理知的で、
冷静で、
自分の感情すら制御する。
少し怖いほどに、
王太子であろうとする人だった。
だからこそ、
さっきのあれは異質だった。
苛立ち。
焦り。
そして、
たぶん、嫉妬。
自分に向けられているのか。
リリアナに向いているのか。
そこまでは分からない。
けれど、
ひとつだけは分かる。
エリオスは、
リリアナに一歩引かれることを嫌がっている。
彼女が引いた線の外側に、
自分だけが置かれているように感じることも。
その内側に、
弟である自分がいるように見えることも。
本人は気づいていない。
気づいていないまま、
傷ついている。
ノアは小さく息を吐いた。
教えてやる気はない。
もし本当にそうなら、
それはエリオス自身が気づくべきことだ。
少なくとも、
自分が口にすることではない。
それに。
今は、
誰の気持ちに名前をつける時でもない。
リリアナの方にも、
分からないことは多すぎる。
エリオスの愛馬の異変への気づき。
王立図書館で初めて会った時に見せた、
こちらを知っているような反応。
王国の歴史を調べる時の、
妙な一致。
薬師の診療所での沈黙。
リリアナは、
何かを知っている。
それが呪いと関わっているのかは、
まだ分からない。
けれど、
エリオスに関わる何かを抱えていることだけは、
ほとんど確かだった。
そしてエリオスもまた、
リリアナを意識している。
本人が気づいていないだけで。
生徒会での距離。
視線。
言葉の乱れ。
今日のあの失言。
すべてが、
同じ場所を指している気がした。
ノアは足を止めた。
リリアナを、
好ましいと思っている。
隣にいると、
心が落ち着く。
放っておけないとも思う。
けれど、
だからといって、
今ここで何かを選ぶ話ではなかった。
兄を守りたい。
リリアナにも、
一人で抱え込ませたくない。
そのどちらも、
嘘ではない。
そして何より。
呪い。
その言葉が、
頭の中で重く沈む。
まだ断定はできない。
けれど、
無視するには重なりすぎている。
王太子は、
長く生きられない。
例外はある。
だが、
少ない。
エリオスは今年で十八になる。
時間は、
多くない。
猶予はない。
一刻も。
ノアは顔を上げた。
まずは、
呪いだ。
その正体を掴む。
誰が誰を想っているのか。
自分が何を望んでいるのか。
そんなものは、
そのあとでいい。
今はただ、
エリオスを死なせない。
リリアナを、
これ以上一人にしない。
話は、
それからだった。




