第23話 動き出した運命(6)
翌朝、身支度の終わりに、侍女が控えめに声をかけてきた。
「お嬢様、昨日お預かりしたハンカチなのですが、丁寧に洗いましたが、こちらの汚れが落ちませんでした」
侍女は、白い薄絹のハンカチを広げる。無地に近い、飾りの少ないハンカチだった。端に細いレースが少しあるだけで、刺繍は入っていない。かつて途絶えかけていた産地の絹で、バルディエ商会が扱うようになってから、王都にも届くようになったものだ。端のあたりに、黒い汚れが残っている。
昨日、資料置き場へ向かう途中の廊下で、荷車を引いた職人の袖が頬をかすめた。ノアがこのハンカチで拭ってくれた時についた汚れだった。
リリアナは、広げられたハンカチに目を落とす。表面についただけの汚れではない。薄い絹の目に、沈むように黒が残っている。
「強くこすれば、もう少し落ちるかもしれませんが」
侍女は申し訳なさそうに言う。
「布が傷むかもしれません」
「そう」
同じ絹で作ったハンカチなら、ほかにも数枚ある。欲しければ、また新しく仕立てることもできる。あの産地の絹は、もう細々と守られているだけのものではない。王都でも、手に入れたいと望む者が増えていた。
公爵夫人も、その絹を気に入っている。サラの婚礼衣装に。エリオスの装いにも、同じ絹を使えたら美しいでしょう、と。そう言われた時、リリアナはただ頷いた。
あの産地の絹が、王太子の婚礼衣装に選ばれる。本当なら、喜ぶべきことだった。商会にとっても、職人たちにとっても、誇らしいことだ。途絶えかけていた絹が、王都へ届き、王宮へ届き、誰もが目を留める場所へ上がっていく。リリアナが守りたいと思ったものが、ちゃんと認められている。
だから、何も言わなかった。何も言うことなどなかった。
リリアナは、手元のハンカチをそっと撫でる。さらりとした感触が指先に残る。同じ絹だった。婚礼の衣装にもなる絹。王太子と、その隣に立つ人を飾る絹。そして今、リリアナの手の中にあるのは、端に黒い汚れを残した小さなハンカチだった。
代わりはある。
けれど、汚れたからといって、すぐに捨てようとは思えなかった。
ふと、夕方の光を受けた白いドレスを思い出す。袖に触れたエリオスの指。いい絹だな、と落ちた声。この絹には、土地も、職人の手もある。こういうものを守るのが、自分の仕事なのだろう。あの人は、そう言っていた。
その言葉が、リリアナの中に残った。そのあとで、エリオスは絹をまとったリリアナを見た。ドレスだけではなく、そこに立つリリアナごと、まっすぐに見た。
綺麗だ、と。
だからリリアナは、その絹を守りたいと思った。あの人が守るべきものだと言った絹を、自分も守りたかった。同じ布でまた新しく仕立てられるとしても、汚れたから捨てればいいとは思えない。このハンカチを捨てることは、あの夕暮れの言葉まで捨てるような気がした。
「無理にこすらなくていいわ」
リリアナは、汚れた端をそっと押さえる。
「取っておいて。あとで、私が刺繍を入れるから」
「刺繍で、汚れを隠すのですか」
「ええ。少し模様を足せば、目立たなくなるでしょう」
「かしこまりました」
侍女が下がったあとも、リリアナはハンカチを手元に残す。白い薄絹。細いレース。消えなかった黒い汚れ。
エリオスは知らない。
あの日、彼がくれたドレスを。袖に触れて、絹を褒めたことを。その言葉をきっかけに、リリアナがこの絹を守りたいと思うようになったことを。その絹が、いつか別の人の婚礼衣装になると聞いても、リリアナが笑って頷いたことを。
何気ない一言を、今も大切に抱えていることも。ハンカチ一枚さえ、捨てられなくなっていることも。
けれど、それは今のエリオスには何の関係もない。
彼は覚えていない。あの白いドレスも、夕方の光も、隠しておきたいと抱き寄せてくれた腕も。
だからリリアナは、何も言わない。ただ、汚れたハンカチを捨てられなかった。それだけだった。
その日の放課後、生徒会室には、交流会の残務が残っていた。大きな仕事は、もうほとんど終わっている。残っているのは、学院会計へ回す前の支払い控えの確認、迎賓館で当日変更になった装花や楽師たちへの謝礼の控え、生徒や案内係から上がった反省点を来年用にまとめることくらいだ。
華やかな交流会が終わったあと、生徒会に残るのは、紙をめくり、控えを合わせ、足りない記録を拾う地味な作業ばかりだった。
エリオスは机の前で、支払い控えを順に分けている。
「装花の追加分は、迎賓館側の控えと合わせる。楽師たちへの追加謝礼は、当日の進行記録を確認してから学院会計へ回す。案内係から出た反省点は、来年用の申し送りにまとめてくれ」
「はい」
ノアは窓際の机で、当日の反省点を読んでいる。エリックは迎賓館から戻った控えを確認している。会計担当の生徒は、支払いの控えを何枚か抱え、リリアナのそばに立っていた。
エリオスは、いつも通りのはずだった。指示は出せる。必要な確認も分けられる。けれど、意識のどこかが、ずっとリリアナへ向いている。
リリアナは、少し離れた場所で会計担当の生徒と話していた。白い手袋に包まれた指が、資料の端を押さえている。伏せられた睫毛の下で、薄い色の瞳が紙面を追う。灰色の髪が、肩のあたりでかすかに揺れる。
その色を見た瞬間、エリオスの頭に、小さな箱の中で眠っているブローチが浮かんだ。あの日以来、開けていない箱だった。捨てることなどできない。誰かに渡すこともできない。けれど、もう以前のように、ただ綺麗なものとして眺めることもできない。
だから、引き出しの奥にしまった。
しまったはずだった。
月明かりを受けた石の奥に揺れていた、淡い青と紫。綺麗だと思った色。好きだと思った色。誰にも渡したくないと思った色。
それが、彼女の色だった。
分かってしまった今となっては、ただ眺めることさえ苦しい色だった。
エリオスは、思わず視線を外す。
見てはいけないわけではない。けれど、見れば思い知らされる。何も知らないまま、自分はあの石を何度も手に取っていた。疲れた夜に。落ち着かない夜に。ただ綺麗だと思って、好きだと思って、手放したくないと思っていた。その色がリリアナのものだと知った時、胸の奥にあったものは輪郭を持ってしまった。
だから今、彼女を見ることは苦しかった。
ただの生徒として見ているのではない。生徒会の一員として見ているのでもない。王太子として、見ているのでもない。
そう分かってしまうことが、ひどく後ろめたかった。
「リリアナさん、ここまでお願いしてもよろしいのですか」
会計担当の生徒が、少し申し訳なさそうに言う。
「当日は途中で大変なことがありましたし、無理はなさらなくても」
「いえ。当日の流れをすべて把握しているわけではありませんが、支払いの控えを確認することはできます」
リリアナは静かに答える。その声が耳に入る。落ち着いていて、乱れがない。
エリオスは、手元の紙を一枚取り落とした。薄い紙が、ひらりと床へ落ちる。
「会長?」
近くにいた生徒が顔を上げた。
「いや、何でもない」
言葉だけなら、いつも通りだった。けれど拾い上げた紙の端が、わずかに揺れている。ただ、リリアナの声が聞こえただけだ。ただ、彼女が資料を見ているだけだ。それなのに、胸の奥で心臓がどっどっと音を立てた。
落ち着け、と心の中で言う。
会計担当の生徒が、確認の終わった控えを持ってきた。
「会長、支払いの照合ですが、リリアナさんにも控えを見ていただいてよろしいでしょうか」
「ああ。助かる」
「最後の確認だけ、会長にお願いすることになります」
「分かった」
会計担当の生徒はほっとしたように頷くと、別の机へ戻っていった。誰かが部屋から出ていったわけではない。けれど、それぞれが自分の仕事に戻ると、エリオスの机の前だけが不意に静かになった。
リリアナが、控えを持ってそばへ来る。
「会長」
呼ばれて、エリオスは顔を上げた。
「こちらの確認をお願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
リリアナは、資料をエリオスから見やすい位置へ置く。指先で向きを整え、紙の端を押さえる。自然に距離が近くなる。
近い。
書類を見るために近づいただけだ。そんなことは分かっている。けれど、その近さに胸の奥がまた苦しくなった。
「花飾りの代金です」
リリアナは、白い手袋の指で一行を示す。
「控えでは三十七束となっていますが、請求書では四十束になっています。追加で頼んだのか、控えが間違っているのか、確認が必要です」
「そうだな」
エリオスは資料を覗き込む。文字は見える。行も追える。けれど、目の前の仕事が妙に遠い。
リリアナの指先。落ち着いた声。近くにある体温。そして、引き出しの奥にしまったはずの色。
自分が美しいと思っていた色。
それが、彼女の色だった。
エリオスは、反射的に視線を逸らす。リリアナの指が、紙の上で一度止まった。
「……いかがでしょうか」
リリアナの声も、ほんの少しだけ硬かった。
目が合う。薄い色の瞳。胸の奥で、ふたたび心臓が早鐘を打つ。
まずいと思った。
彼女を見てはいけないわけではない。そうではない。けれど、今の自分がどんな思いで彼女を見ているのかを、知られてはいけない気がした。
サラがいる。自分には、王家が定めた婚約者がいる。そしてリリアナは、父王の目にはノアの隣に置くべき娘として映っている。ノアの婚約者候補。その言葉を、あの夜の王の声とともに思い出す。
王太子として考えれば、父王の言葉は間違っていない。リリアナは有能だ。ノアとも話が合う。バルディエ家と王家が縁を持つ意味も分かる。ノアの隣に立てば、きっと役に立つ。誰にとっても、悪い話ではない。
分かる。
分かるのに。
リリアナがノアの隣に立つ姿を思い浮かべた瞬間、胸の奥が苦く軋んだ。
祝福すべきなのだろう。王太子としては。兄としては。王家の者としては。
それなのに、できる気がしなかった。
その理由を考えようとして、エリオスは息を止める。考えてはいけないところまで、手が届きかけていた。
欲しい。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
エリオスは、指先が冷えるのを感じる。
何を。
誰を。
その先を考えてはいけなかった。まだ形にしてはいけない。名前をつけてはいけない。認めれば、もう戻れなくなる。けれど、否定しようとするほど、胸の奥が熱を持った。
「すまない。もう一度、頼む」
「はい」
リリアナは目を伏せ、同じ行を指した。
「こちらです。三束分の差があります。追加分なら、どこかに承認の控えがあるはずです」
「ああ。花飾りの担当に確認を回す」
「それから、こちらも」
彼女は次の紙を重ねる。
「楽師たちへの謝礼が一組分多くなっています。予定になかった追加演奏があったのなら問題ありませんが、記録には残っていません」
「……分かった」
返事はできる。けれど、少し遅れる。エリオスは、自分の手元にある紙を見下ろした。
いつもなら、それだけのことだ。何か問題が起きても、順番に分ければいい。何を確認し、誰に聞き、どの書類を直せばいいのか決めればいい。そうすれば、たいていのことは処理できた。
けれど今は、それがうまくいかない。
リリアナの声が耳に入る。手袋の指が紙を押さえる。少し身を寄せられると息が詰まる。彼女が一歩下がると、ほっとする。けれど、その距離に胸が痛む。
近いと苦しい。
離れられても苦しい。
どうしようもなかった。
「会長」
また呼ばれて、エリオスは顔を上げる。
「こちらで合っていますか」
リリアナは、照合を終えた紙を揃えていた。いつの間にか、彼女は作業を進めている。
自分は何をしていたのか。
エリオスは資料を受け取り、目を通した。支払い控えと請求書の差も、確認すべき箇所も、必要なものだけがきれいに書き出されている。
「問題ない。助かった」
「いえ」
リリアナは小さく頭を下げる。礼儀正しい距離。必要以上に近づかない顔。いつもの彼女だった。
倒れかけた棚の前で、自分の名を呼び、泣きそうな顔で怪我を案じたリリアナではない。閉じ込められた部屋で、熱に浮かされたような瞳のまま、名前を呼んでほしいと言ったリリアナでもない。生まれてきてくれてありがとうございます、と言ったリリアナでもない。
今のリリアナは、いつもの距離に戻っていた。まるで、二人の間には何もなかったように。
エリオスだけが、戻れていない。
「では、私はこれを会計係の方へ渡してまいります」
「ああ」
短く返すのが精一杯だった。
リリアナは資料を抱え、静かに礼をする。少し離れた会計担当の机へ向かうその背を、エリオスは見送った。止める理由はない。呼び止める言葉もない。それなのに、彼女の一歩一歩が、妙に遠く感じる。
エリオスは、しばらくその場を動けなかった。
机の上には、まだ資料が残っている。やるべきこともある。会長として処理しなければならないものは、まだ残っている。それなのに、頭に残っているのは、目の前の書類ではなかった。
机の引き出しの奥にしまったままの箱。
あれ以来、開けていない。
開ければ、また思い知らされる。自分が何を綺麗だと思い、何を好きだと思い、何を手放したくないと思っていたのかを。
だから、しまった。
しまったはずだった。
それなのに、リリアナがそこにいるだけで、あの色は何度でも目の前に戻ってくる。
エリオスは片手で額を押さえた。
どうにかしなければならない。
そう思う。
けれど、どうにかするとは何だ。見ないことか。遠ざけることか。気づかなかったふりをすることか。それで、この胸の奥にあるものが消えるのか。
消えるはずがない。
そう思ってしまった自分に、エリオスはひどく苦しくなった。
いつもなら、迷った時には立ち返る場所があった。エリオスは、王太子として生きてきた。皆が望むように。そうあるべき姿を外さないように。
幼い頃から、何かを選ぶ時には、まず王太子として正しいかを考えた。したいことがあっても、すべきことを先に置いた。不安があっても、国のために必要なことなら飲み込んだ。そうしているうちに、悩み方も、迷い方も、決まっていった。
この国のためになるか。王家のためになるか。民のためになるか。そこへ当てはめれば、たいていの答えは出た。
自分が何を望むのかなど、深く考えたことはない。
望みならある。国が安らかであること。民が飢えずに暮らせること。王家が揺らがず、この先も続いていくこと。それを望みと呼ぶのなら、たしかに望みはあった。けれど、それは王太子として持つべきものだった。自分だけのものではなかった。
だから分からない。
リリアナを見て、胸が騒ぐこと。彼女が近づくと息が詰まり、離れると胸が痛むこと。ノアの隣に立つかもしれないと考えただけで、胸の奥が冷えること。
これは、どこへ置けばいい。
国のためでもない。王家のためでもない。誰に命じられたものでもない。それどころか、王太子としては持ってはいけないものかもしれない。
それなのに、消えない。
いつもなら、王太子としての道に当てはめれば、答えが出るはずだった。
出るはずなのに。
リリアナだけが、そこに収まらない。
リリアナは、きっと気づいていない。自分が彼女の存在に、どれほどかき乱されているか。彼女がただそこにいるだけで、どれほど自分の中の順序が崩れていくか。
欲しいと思ってはいけない。
そう思うほど、胸の奥が苦しくなった。
エリオスは目を閉じる。
引き出しの奥にしまったはずの色は、まだ胸の奥で消えなかった。




