第23話 動き出した運命(4)
数日ぶりの登校を控えた夜、リリアナは自室の机に向かった。
机の端には、エリオスからもらった輪菓子の箱がある。あれから、一つだけ食べた。蜂蜜と果実の香りは、やさしかった。割れていない、丸い菓子。それを見るたびに、胸の奥がぎゅっとなる。
生まれてきてくださって、ありがとうございます。
口にしてしまった言葉は、まだ消えない。王太子への祝辞としては、あまりに出過ぎていた。あのあと慌てて言い直したけれど、言ってしまった事実まで消えるわけではない。
それに、熱に浮かされた夢の中で聞いた声も、まだ耳の奥に残っていた。
リリー、と。
いけないと思うのに、ずっと焦がれていた呼び名で。今のエリオスが、知るはずのない距離で。
思い出してはいけない。そう思うほど、残ってしまう。
リリアナは息を整え、机の引き出しを開けた。奥から、綴じ紐のついた紙束を取り出す。
一度目の記憶にある危険を書き留めてきたものだ。最初は、エリオスに直接関わることだけを書いていた。けれど、研究棟の書架倒れにエリオスが巻き込まれてからは、関係がなさそうに見える出来事も、覚えている限り書き足している。
日付も、順番も、定かでないものは多い。けれど、忘れれば防げない。頁をめくる指が、ある行で止まった。
研究棟。
ぼや騒ぎ。
交流会の後に起きるはずの出来事だ。前の世界では、死傷者の出ない騒ぎとして片づいた。使われていなかった二階の談話室で古い暖房炉に火を入れた時、煙道の煤に火が回り、近くの油布や紙束へ燃え移ったのだと聞いている。部屋は半分ほど焼けたが、すぐに消し止められたらしい。
古い設備なら、あり得る話だ。けれど今は、ただのぼや騒ぎとは思えない。研究棟の資料区画で起きた書架倒れも、エリオスが本来、巻き込まれなかったはずの事故だった。
もし、また同じように巻き込まれたら。同じ棟の使われていない区画も、片づけておいた方がいい。
二階の暖房炉。煙道。古い薬品棚。使われていない実験室。油を含んだ布や紙束。
点検の要望は、生徒会を通して出してある。同じ形では、起こさせない。
リリアナは紙束を閉じた。
翌日、リリアナは学院へ戻った。
数日ぶりの教室は、少しだけ眩しかった。窓から入る光も、机を引く音も、講義前のざわめきも、久しぶりに感じた。
その日は、生徒会の集まりはなかった。定例の顔合わせも、急ぎの呼び出しもない。つまり、エリオスと会わずに済む。
ほっとした。その半面、苦しくなった。
会えば、またこの気持ちに蓋をすることを忘れそうになる。リリアナは目を伏せ、教本を開いた。
午後の最後の講義は、合同授業だった。ノアはすぐ後ろの席にいた。講義中はほとんど口を開かず、必要なところだけ筆を動かしている。
講義が終わり、生徒たちが席を立つ。リリアナも教本を閉じた。ノアに声をかけようとしたところで、先に後ろから声がした。
「リリアナ」
「ノア殿下」
リリアナは小さく礼を取った。ノアは講義室の中を一度だけ見た。まだ人が残っている。
「このあと、少し時間はあるか」
「はい」
ノアは少し声を落とした。
「大事な話がある」
「承知いたしました」
「資料置き場の空き教室を使おう」
そう言うと、ノアはリリアナと並んで廊下へ出た。
「閉じ込められたと聞いた」
歩きながら、ノアが言った。
「ご心配をおかけしました」
「イザベラ・レイヴンハルトのことも聞いている」
リリアナは小さく息をのんだ。
「交流会の時、そばにいられなくて悪かった」
「いえ。私もうかつでした」
「君は何も悪くない」
ノアは短く言った。
「体調は戻った?」
「はい。もう大丈夫です。ノアも、視察が長引いたのですか」
「ああ。その話も、あとでする」
資料置き場の空き教室は、研究棟の手前にある古い小講義室だった。研究棟の資料区画で書架倒れの件があって以来、一部の記録や外された棚板が、そこへ運び込まれている。
廊下の先から、木の車輪が軋む音が聞こえた。研究棟の周辺には、以前より職人の姿が増えている。
「君が改修時に提案していた、研究棟の古い空き部屋の片づけも進んでいる」
ノアが前を向いたまま言った。
「二階の談話室は?」
「そこはすでに片づけが終わったらしい。古い布や紙束はもう運び出されたと聞いた。今は古い薬品棚や、使っていない実験室を片づけている。談話室は、一時的に搬出品や道具の仮置きに使うそうだ」
「そうですか」
よかった。少なくとも、火元になるはずだったものは取り除けた。同じ形では、きっと起こらない。
そう思った時だった。
曲がり角の向こうから、荷車を引いた職人が早足で姿を現した。荷台には、いくつもの木箱が積んである。
職人はノアとリリアナに気づき、慌てて荷車を壁側へ寄せようとした。
「あっ」
車輪が床板の継ぎ目に引っかかる。積まれた木箱が、かたりと音を立てた。
リリアナが一歩下がるより早く、ノアの手が腕を引いた。体勢を崩した職人の袖口が、リリアナの肩先と頬をかすめた。
「す、すみません!」
職人は青ざめて頭を下げた。
「急いでいて、その、前を見ておりませんでした」
「大丈夫です。軽く触れただけですから」
リリアナが答えるより早く、ノアの声が低く落ちた。
「人の通る廊下だ。怪我があってからでは遅い」
「はい。申し訳ございません」
「次からは速度を落とせ」
職人は何度も頭を下げ、荷車を引いて廊下の奥へ進んでいった。
ノアはリリアナへ視線を戻す。
「怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「本当に」
ノアはリリアナの顔を見た。
「頬についている」
「頬、ですか」
リリアナは反射的に右手の指先でそっと触れた。
「あ」
ノアが小さく言う。
「広がった」
リリアナは指先を見る。黒い汚れが、薄くついていた。職人の袖についた埃だろうか。指で払っても、思ったより落ちにくい。
リリアナは慌てて自分のハンカチを取り出し、頬を拭った。けれど、見えないまま触れたせいで、汚れはかえって広がってしまったらしい。
ノアがわずかに目を細める。
「余計に広がってしまった」
「え」
「貸して」
リリアナは、おずおずとハンカチを差し出した。
「そういえば、以前、資料区画で似たことがあった」
ノアが、ふっと笑う。
「あの時は逆だった。君が、俺の頬を拭いてくれた」
リリアナも少しだけ笑った。
「あの時は、ノアがご自分で触って、広げていましたね」
「そういう君も、ひどいことになってる」
「そんなにですか」
「うん」
ノアはハンカチをリリアナの顔へ近づけた。
「顔を上げて」
リリアナはおとなしく顔を上げる。
ノアはハンカチ越しに、リリアナの頬へ触れた。汚れを広げないように、慎重に拭っていく。手つきはとてもやさしかった。触れる場所を確かめるように、ゆっくりと。
「痛くない?」
「はい」
最後に頬の端を軽く拭い、ノアは手を止めた。ほんの一瞬、そのまま離れなかった。
瞳が合う。
ノアは先に視線を外し、何事もなかったようにハンカチを下ろした。
「指も」
そう言って、リリアナの指先を、ハンカチでそっと包んだ。黒い汚れを拭い取る。
「取れた」
「ありがとうございます」
ノアはハンカチを返した。白い布の端には、黒い汚れが残っている。リリアナはそれを畳み、手の中に収めた。
資料置き場の空き教室には、束ねられた記録と、外された棚板が並んでいた。窓は小さく、廊下の声も遠い。
ノアは扉を閉めると、すぐに本題へ入った。
「視察の帰り際、気になる話を聞いた」
リリアナは背筋を伸ばす。
「それが、交流会にいらっしゃらなかった理由ですか」
「ああ」
ノアは頷いた。
「視察先の治療院に、昔、王宮で働いていた者たちの急患や外傷を診ていた医師がいた」
「元宮廷医の方ですか」
「そう。その医師を、妙な男が訪ねてきたらしい」
「妙な男?」
「王宮から外へ出された患者や、古い傷の記録について聞いていたそうだ。塞がっているのに痛む傷。黒く残る傷。原因の分からない熱。王宮勤めだった者や、護衛、職人、下働きの診療記録」
それから、とノアは続けた。
「灰色の髪と薄い瞳の者についても尋ねたらしい」
リリアナは息を止めた。
「灰色の髪と、薄い瞳……」
ノアが、リリアナを見る。
「王太子の近くで怪我をしたことはないか。そう聞いたそうだ」
部屋の空気が冷える。背中の古傷が、ひどく疼き出した。
「その男は、古い診療録の扱いに慣れていた。紙の傷み方や、写しが作られた時期を気にしていたらしい。医師ではなく、古い本や記録を扱う者に見えたそうだ」
リリアナの頭に、ひとつの名が浮かぶ。
「レオニード・ヴェルナー」
ノアが先に、その名を口にした。
リリアナは、すぐには声を出せなかった。
「断定はできない」
「レオニード・ヴェルナーが、元宮廷医を訪ねていたかもしれない、ということですね」
「その可能性はある」
ノアの声は低かった。
「手がかりを逃したくなかった。だから視察の日を少しだけ延ばした」
「それで……」
「結局、確かなことは分からなかった」
ノアは言った。
「元宮廷医は、その場ですぐ古い控えを出せなかった。探しておくと言ったらしい。男は、また来るか、誰かを寄越すかもしれない。その男が再び現れたら知らせてほしいと、治療院には頼んである。古い控えの受け取りに誰かが来た場合も同じだ」
リリアナは膝の上で手を握った。
「王太子に近い災厄、という言葉も使ったらしい」
ノアの声が、さらに低くなる。
「兄に、このまま黙っておくことはさすがにできない。だが、今のままでは曖昧すぎる。もう少しこの手がかりを確かめてから、話そうと思う」
ノアはリリアナを見た。
「どう思う?」
リリアナは少し考えた。時が戻ったことも、エリオスが一度死んだことも、言えない。けれど、エリオスの近くに呪いのような何かがあるのだとしたら。
エリオスには、危険を知っていてほしい。何も知らないままではいてほしくなかった。
「私も、その方がいいと思います」
リリアナは頷いた。
「この手がかりがはっきりしたら、エリオス殿下にもお知らせした方がよいと思います」
「ああ」
ノアは短く頷いた。
「灰色の髪と薄い瞳を探しているという。君も気をつけて」
そこで一度、言葉を切る。
「それと、これだけは間違えないで」
リリアナは顔を上げた。
ノアは続ける。
「君の色が災いを呼んでいる、という話ではない」
その言葉は、胸の奥の、ずっと誰かに触れてほしかった場所に届いた。
時が戻った時から、ずっと恐れていた。
自分の灰色の髪が、薄い瞳が、ただそばにいるだけでエリオスを不幸にしてしまうのではないかと。
最近になって、もしかしたら違うのかもしれないと思い始めていた。けれど、誰かに違うと言ってもらえたのは、初めてだった。
胸の奥で、固くなっていたものがほどけていく。
思っていたよりも深く息ができて、リリアナはそこで初めて、自分が何年もずっと息を詰めていたことに気づいた。
それでも。自分はもう、エリオスの隣に立つ場所を降りている。
それに、彼を危険にさらしているものの正体は、まだ分かっていない。
「話してくださって、ありがとうございます」
部屋の中には、古い紙と乾いた木の匂いが漂っていた。
手がかりはできた。まだ遠い。けれど、何も見えないままではない。
レオニード・ヴェルナー。
その名だけが、しばらく耳から離れなかった。




