第23話 動き出した運命(1)
翌朝、リリアナが目を覚ました時、しばらくは自分がどこにいるのか分からなかった。
白い天井。薬草の匂い。少し硬い寝台。薄く差し込む朝の光。
外は静かだった。
人の声も、馬車の音も遠い。どこかで水差しが置かれる、小さな音だけがした。
リリアナはゆっくり視線を巡らせた。
白い衝立。薬棚。寝台のそばに置かれた水差し。見慣れた屋敷の部屋ではない。
何度か瞬きをして、ようやく、ここが学院の医務室だと気づいた。
昨夜のことは、霧の向こうにあるようだった。
研究棟。閉じた扉。濡れた服。寒さ。誰かの声。
そこまで思い出したところで、寝台のそばに控えていた護衛が静かに頭を下げた。
「お目覚めになりましたか」
「……私は」
「昨夜、研究棟でお倒れになりました。王太子殿下が異変にお気づきになり、教師と護衛が研究棟へ向かいました。鍵のかかった小部屋にいらしたため、こちらへお運びしております」
言葉は丁寧で、余計なことは何もなかった。
「殿下が……」
「はい。殿下のご判断で、すぐに医務官も呼ばれております」
護衛はそれ以上、詳しいことを言わなかった。
閉じ込められていた途中から、記憶はほとんどなかった。
寒かったこと。
体が重かったこと。
どこかで誰かの声を聞いた気がしたこと。
思い出せるのは、それくらいだった。
扉が開いた瞬間も、誰に抱えられたのかも、医務室まで運ばれたことも、何も覚えていない。
ただ、護衛は続けた。
「熱は下がり始めていますが、まだお体が弱っておいでです。朝の診察が済みしだい、馬車でバルディエ邸へお送りします。馬車までは、私どもがお運びいたします」
「……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではございません」
短く返された声に、リリアナは目を伏せた。
その後、医務官の診察を受け、リリアナは医務室の寝台から馬車まで、護衛に運ばれて屋敷へ戻された。
熱は微熱まで下がっていたが、体力をひどく消耗していて、足元もおぼつかなかったからだ。
屋敷に戻ると、レオンが玄関先まで出てきていた。
護衛に運ばれるリリアナを見るなり、レオンの顔から血の気が引いた。
「リリアナ」
「大丈夫。少し熱が残ってるだけ」
「しゃべらなくていい。寒くないか。毛布は足りてる? 蜂蜜を入れた温かいミルクなら飲めるか」
レオンは一息にそう言って、屋敷の者へ振り向いた。
「部屋をあたためておいて。毛布をもう一枚。あと、水も冷たすぎないものを」
「レオン」
奥から叔父の声がした。
叱る響きではなかった。ただ、少し落ち着けと言うような声だった。
レオンは口をつぐみ、短く息を吐いた。
「……俺がついて行けてたらな」
「レオンのせいじゃない」
リリアナがそう言うと、レオンは何か言いかけて、やめた。
代わりに、少しだけ表情をやわらげる。
「今はいい。帰ってきたなら、それでいい」
その言葉に、胸の奥が少しだけゆるんだ。
叔父は護衛と医務官から話を聞き、必要なことだけを確認していた。それから、屋敷の者へ静かに指示を出す。
「今日は休ませろ。学院から連絡が来たら、まず私に回せ。部屋には、必要な者だけ入ればいい」
それだけで、屋敷中がリリアナを休ませる空気になった。
レオンはもう一度リリアナを見た。
「何かあったら呼べよ。ミルクでも水でも、すぐ持ってくる」
「うん」
リリアナが頷くと、レオンはようやく少しだけ笑った。
叔父は多くを言わない。レオンは少し心配しすぎる。
けれど、二人とも自分を待っていてくれたのだと分かった。
研究棟の件は、来賓や一般の生徒たちには大きく広げないことになったらしい。
交流会の最中に生徒が閉じ込められていたと知れれば、学院の管理問題になる。何より、リリアナの名まで必要以上に広まってしまう。
だから表向きには、体調を崩した生徒の救護として扱われた。
けれど、なかったことにされたわけではない。
学院と王宮、そしてバルディエ家の間では、正式な問題として扱われていた。屋敷にも事情はきちんと伝えられていた。
リリアナは、王太子の名を使って研究棟へ呼び出されたこと。鍵のかかった小部屋に閉じ込められていたこと。そして、王太子殿下が異変に気づき、教師と護衛が研究棟へ向かったこと。その後、リリアナは小部屋から助け出されたのだという。
エリオスが気づいてくれた。
そのことだけが、胸の奥に残った。
今朝、馬車まで抱えて運んでくれたのは護衛だった。だから昨夜も、きっと護衛が運んでくれたのだろうと、リリアナは自然に思っていた。
それでも、耳の奥に残っている声がある。
リリアナ。
リリー。
そう呼ばれた気がした。エリオスの声で。
けれど、そんなはずがない。エリオスが、自分をそんなふうに呼ぶはずがない。今のエリオスは、何も覚えていないのだから。
あれは熱が見せた夢だ。熱があって、弱っていたから。
助けるために、あの人のそばへ行くことは避けられない。
けれど、心まで近づいてはいけないと決めている。
それなのに、助けられて、声をかけられて、手を伸ばされて、そのたびに心が揺れる。だから、夢の中でさえ、自分はエリオスにすがっていたのだと思う。
助けたいと思っているのに。
守りたいと思っているのに。
生きていてくれれば、それでいいと思っているのに。
それでもまだ、名前を呼んでほしいと思ってしまった。
前の世界で、人生ごと救ってもらったのに。もう十分すぎるほど、もらっているのに。それでもまだ、欲しがっている。
欲深い。
リリアナは布団の端を握り、まぶたを強く閉じた。
思ってはいけない夢だった。この世界では、不要な夢だった。けれど、あれが夢だったとしても、その声に心が救われてしまったことだけは、どうしても否定できなかった。
その日は、そのまま寝台で過ごすことになった。
交流会の翌日は、後片づけと確認のため、学院の授業は休みだった。熱もまだ残っていたため、叔父もレオンも、屋敷の者たちも、今日は一日安静にしているようにと口をそろえた。




