第18話 お茶会(2)
その夜。
定期の茶会が終わり、
自室に戻ってからも、
サラの言葉が
頭のどこかに残っていた。
――王太子でいることが、
あなたの人生なんだから。
言われるままに生きてきた。
望まれた場所に立ち、
求められた言葉を口にし、
相応しいとされた振る舞いを身につけた。
それが当然だと思っていた。
疑う理由も、
拒む理由も、
なかった。
王太子とはそういうものだと、
教えられる前から、
知っていた気がする。
逃げ場は、
最初から
用意されていない。
降りるという選択肢も、
与えられていない。
自分で何かを選んだことは、
ほとんどない。
それ以外の生き方を、
考えたこともない。
自分の好きなものは、
「好き」と思う前に決められていた。
読む本も。
身につける色も。
選ぶ言葉も。
王太子として相応しいかどうかで、
先に線が引かれる。
その外に
立ったことはない。
その中から選んできただけだ。
何が好きかと聞かれても、
困る。
考えたことがない。
欲しいと思ったことも、
ない。
……いや。
思い返してみれば、
ふたつだけあった。
百合の花。
理由は分からない。
華やかでもない。
強く主張する色でもない。
ただ、
白い花弁を見たとき、
胸の奥が少しだけ静かになる。
誰にも教えられていない。
相応しいとも、
相応しくないとも言われていない。
ただ、
好きだと思った。
それが、
不思議だった。
こんな感覚を、
他に持ったことがないから。
なぜ好きなのか、
考えたこともなかった。
ただ、
見ていると
胸の奥が静かになる。
それなのに、
なぜか
満たされない。
静かになるのに、
それで終わらない。
もっと、
欲しいと思ってしまう。
何を、とは分からない。
ただ、
足りないという感覚だけが、
強く残る。
そして――
もうひとつ。
左手の中指。
無意識に触れてしまう場所。
細い輪が、
そこにある。
外したことはない。
外す理由が、
思いつかない。
意味も、
覚えていない。
いつからつけているのかも、
はっきりしない。
ただ、
これを外せば、
何かが決定的に欠ける気がする。
王太子だからでもない。
約束でもない。
思い出でもない。
それでも、
これがなくなったら、
自分が自分じゃなくなる。
そんな感覚だけが、
残っている。
理由は、
分からない。
分からないのに、
外そうと思ったことだけは、
一度もない。
誰かに渡されたものなのかもしれない。
そう思うことはある。
だが、
誰からだったのか、
思い出せない。
触れると、
呼吸が少しだけ楽になる。
胸の奥の、
張りつめていたものが、
ほんのわずかにほどける。
理由はない。
ただ、
ここだけが、
自分の輪郭に触れている気がする。
王太子として扱われることには、
慣れている。
敬われることも、
恐れられることも、
遠ざけられることも。
それが役目なら、
それでいい。
だが、
ときどき思う。
誰かが見ているのは、
「王太子」だけで、
エリオスではないのだと。
ノアだけが、
王太子ではなく、
エリオスとして向き合ってくれる。
立場でもなく、
肩書きでもなく、
ただの自分でいられるように。
人前では「兄上」と呼び、
場を崩さない。
けれど、
二人きりになると、
何も言わずに、
呼び方が変わる。
――そうした方がいいと、
分かっているみたいに。
昔、
そんなことを言ったことがある。
「ここでは、エリオスでいい」
それだけだ。
けれど、
ノアはそれを、
変えずにいる。
その呼び方の方が、
少しだけ、
息がしやすかった。
ノアは、
踏み込みすぎない。
けれど、
離れもしない。
距離を、
間違えない。
だから、
ノアの前では、
王太子でいることを
少しだけ忘れる。
それでも、
弱音は見せられない。
――背負わせたくないからだ。
あいつは、
あいつの立場を生きている。
――孤独だと思ったことは、
ない。
立ち止まる理由も、
なかった。
そう思う選択肢さえ、
与えられていなかったのかもしれない。
そう思う暇もなく、
日々は過ぎていく。
ただ、
ときどき、
自分の人生が、
最初から誰かの手の中に置かれていて、
そこから一歩も、
外に出たことがないような、
そんな感覚だけが残る。
それでも。
左手に触れる。
細い輪。
そこだけが、
現実だった。
外さない。
外せない。
理由はない。
ただ、
ここに触れている間だけ、
少しだけ、
自分が、
自分として呼吸できる気がした。




