第22話 名前を呼んで(7)
その夜、エリオスはほとんど眠らなかった。
女性の医務員が水と布を替えようとした時、エリオスは静かに手を伸ばす。
「私がしよう。何かあればすぐに呼ぶ」
それから、エリオスは医務官と護衛へ目を向けた。
「すまないが、今夜だけ頼む。休める者は休み、警備は通常どおりでいい」
「承知いたしました」
護衛は短く答えた。ただ、医務官たちはすぐには動かなかった。
王太子が水を替え、額の布を取る。本来なら、任せてよいことではない。そんなためらいが、わずかな沈黙になって落ちた。
けれどエリオスは、リリアナのそばを離れなかった。
結局、医務官たちは隣室に控えることになった。扉は閉めきらず、呼べばすぐに来られる距離にある。
それでも、リリアナのそばにいるのは自分だけだった。
護衛たちは、何も気づかなかったわけではない。
王太子殿下は、必要以上に人を遠ざけている。
まるで、自分以外の誰にも触れさせず、その夜だけは彼女のそばを独り占めしているかのように。
だが、誰も口にはしなかった。
命に関わる危険があるわけではない。警備上、ただちに止めるべきことでもない。扉は開いている。医務官も隣室に控えている。
ならば、それ以上は護衛が踏み込む領域ではない。
王太子が誰を案じ、誰のそばを離れたがらないのか。
それを見て、何かを察したとしても、口にしない。
そう心得ている者たちだけが、静かに部屋の外へ控えていた。
エリオスは濡らした布を絞り、リリアナの額に置く。熱が移った布を取り替え、呼吸を確かめる。少し身じろぎするだけで、眠りが浅くなったのではないかと身を乗り出した。
何度も同じことを繰り返すうち、研究棟で見たものが戻ってくる。
冷えた体。濡れた髪。リリーと呼んだ時の、あの涙。
そして、手袋の下にあった指輪。
気づけば、視線は自分の左手へ落ちていた。
エリオスは左手の指輪にそっと触れる。
同じ場所にあった。
リリアナの左手にも。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく落ち着かなくなった。
飾り気のない輪なら、珍しいものではない。形見や祈りの品として指輪を身につける者もいる。どの指にはめるかに、深い意味などないことも多い。
そう考えても、目に焼きついたものは消えなかった。
リリー。
もう一度、そう呼びたいと思った。
けれど声にはしなかった。あれは熱に浮かされた願いだった。自分が勝手に繰り返していいものではない。
明け方近く、ようやく熱が微熱まで下がる。
王宮へ戻らなければならない時刻が近づいていた。朝から、研究棟の件の報告もある。誕生祭を前に、王宮側との確認も残っている。
エリオスは立ち上がろうとして、乾いた手袋に目を留めた。
彼女は、あの指輪を隠していた。
ならば、誰かに見られたくないものなのだろう。
しばらく迷ったあと、エリオスはそっとリリアナの左手に手袋を戻した。
指輪は白い布の下に隠れる。
それから、医務官と護衛を呼んだ。
「朝の診察で問題がなければ、バルディエ家へ送り届けてくれ」
「承知いたしました」
「それから、昨夜の詳細は、彼女には必要なことだけでいい」
護衛がわずかに顔を上げる。
「昨夜の詳細は、でございますか」
「ああ」
エリオスの声は静かだった。
「誰が運んだか。誰が付き添っていたか。そういうことを聞けば、彼女は気を遣う」
護衛が、わずかに目を伏せた。
医務官も、一瞬だけエリオスを見る。何かを察したようだったが、何も言わない。
「療養に必要のないことは伝えなくていい。屋敷には、学院の管理下で救護したと伝えろ。それで足りる」
「承知いたしました」
エリオスはもう一度、眠るリリアナを見た。
手袋の下に隠れた指輪は、もう見えない。
「……あとは頼む」
そう言って、エリオスは医務室を出た。




