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第22話 名前を呼んで(6)

同じ場所に。


 同じように。


 まるで、初めからそこにあるのが当然だったみたいに。


 エリオスは、息を忘れた。


 なぜ。


 問いかけが喉まで上がる。


 けれど、リリアナは答えない。涙の跡を残したまま、意識を失っている。


 今は、考えている場合ではなかった。


 エリオスは濡れた手袋を握りしめ、リリアナの身体を外套で包み直した。


 抱き上げたところで、廊下の向こうから複数の足音が近づいてくる。遅れて駆けつけた護衛と教師だった。


「殿下!」


「医務室を開けろ。湯と毛布を用意してくれ」


 エリオスはリリアナを抱えたまま、短く告げた。


 教師が青ざめ、すぐに人を走らせる。


 護衛が手を伸ばした。


「お預かりします」


 だが、エリオスはリリアナを渡さなかった。


 護衛は一瞬だけ言葉を失ったが、それ以上は何も言わなかった。


 エリオスはそのまま医務室へ向かった。


 医務室に運び込まれたリリアナは、女性の医務官と侍女たちの手で濡れた服を替えられた。


 エリオスは廊下で待っていた。


 濡れた手袋が、まだ手の中にある。


 リリー。涙。左手の中指。自分のものとよく似た指輪。


 何一つ分からない。


 分からないはずなのに、気づけばそのことばかり考えている。


 胸の奥に引っかかったまま、どれも離れてくれなかった。


 やがて医務官が出てきた。


「熱が高いです。冷えた場所に長くいたせいでしょう。ですが、命に関わるものではありません」


 その言葉を聞いて、ようやく息ができた。


 大丈夫。


 そう聞いて初めて、自分がどれほど怖がっていたのか分かった。


「ただ、かなり体力を消耗しています。今夜は無理に動かさず、このまま休ませた方がよろしいでしょう。馬車で帰すのは明日の朝以降がよいかと」


「分かった」


 エリオスは短く頷いた。


「バルディエ家へ使いを出せ。熱が出たため今夜は学院の医務室で休ませる。こちらで責任を持って見ているから、無理に迎えに来る必要はない。明朝、容体を見て送り届けると伝えろ」


「承知しました」


「殿下。一度王宮へお戻りください。こちらは我々が見ておりますので」


「いや」


 エリオスは首を振った。


「今日はここにいる」


 王太子が学院の医務室に残るなど、本来ならあり得ない。


 だが、誰も何も言わなかった。


 部屋へ戻ると、リリアナは白い寝具の中で眠っていた。


 濡れていた髪は拭かれ、呼吸も少し落ち着いている。


 エリオスは椅子に腰を下ろし、そっとリリアナの手を取った。


 さっきより温かい。


 もう氷のようではない。


 そのことだけで胸の奥が少し緩む。


 生きている。


 それを確かめてから、ようやく自分のしたことが追いついてきた。


 交流会を抜けた。護衛を待たなかった。教師に任せる前に研究棟へ走った。扉を壊した。護衛に渡さず、自分でここまで運んだ。王宮へ戻るよう言われても断った。


 いつもの自分なら、決してしない。


 令嬢たちを問いただし、教師を呼び、護衛を待ち、状況を確認してから動いていただろう。


 だが、あの時は違った。


 濡れて、閉じ込められているかもしれない。


 そう思った瞬間、身体が先に動いていた。


 エリオスは眠るリリアナを見下ろした。


 リリー。


 その名には覚えがあった。以前、サラが百合の花束を見て言った。リリアナさんはリリーね、と。ただそれだけの会話だった。なのにその言葉は耳から離れなかった。


 そして今夜、リリアナ自身が、その名で呼んでほしいと言った。呼んだ瞬間、胸の奥にあった何かが、すとんと収まった気がした。


 やっと呼べた。


 なぜか、そう思った。


 馬鹿げている。今日初めて呼んだ名だ。呼び慣れているはずもない。それなのに、胸の奥だけが頑固にそう言っていた。


 呼びたい。もう一度。あの名前で。


 理由は分からない。分からないのに、その衝動だけが消えなかった。


 けれど呼べなかった。あれは熱に浮かされた願いだった。自分が勝手に繰り返していいものではない。


 呼んでくれた。そう言って、リリアナは泣いた。呼ばれると、ちゃんといると思えるのだと。


 なぜだ。なぜ、あんな顔をした。なぜ、あの名前だった。あれは、誰に向けての言葉だったのか。


 自分には覚えがない。何一つ心当たりがない。それなのに、あの涙だけが胸を締めつける。


 視線が布団の上の左手へ落ちた。手袋は外されている。細い指輪がそこにあった。


 自分のものとよく似ている。だが、珍しいものではない。宝石もない。似たような指輪なら、どこにでもあるだろう。


 それなのに目が離せなかった。


 左手の中指。自分と同じ場所。そして彼女は、それを隠していた。


 なぜ、その指輪をしているのか。なぜ、リリーと呼ばれたかったのか。あの時、誰を見ていたのか。その人は、君にとって何なのか。


 聞きたいことは、いくつもあった。けれど今は聞けない。眠るリリアナの顔は、まだ苦しげだった。

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