第22話 名前を呼んで(5)
その頃、迎賓館の大広間では、秋季交流会が始まっていた。
高い天井から吊るされた灯りが、広間全体を明るく照らしている。楽団の演奏が響き、来賓たちの声が重なり、色とりどりの衣装がゆるやかに行き交っていた。
エリオスは、生徒会長として学院長のそばに立ち、来賓への挨拶を済ませていた。王太子としての挨拶。生徒会長としての礼。サラと並び、幾人もの貴族や関係者と言葉を交わす。
すべて、滞りなく進んでいる。
交流会は、もう大きな山を越えていた。案内係は持ち場につき、迎賓館側との連携も問題なく回っている。生徒会の役員たちも、担当を終えた者から少しずつ会場の中に混じり始めていた。
その中で、エリオスはふと視線を巡らせた。
灰色の髪が見えない。
人が多いせいかと思った。けれど、もう一度探しても、やはり見つからない。
「エリック」
近くにいたエリックが振り返る。
「はい、会長」
「バルディエ嬢は?」
エリックはすぐに表情を曇らせた。
「体調が優れず、本日は欠席されると聞いております」
「誰から聞いた」
「下級生の案内係が、令嬢方から伝言を受けたそうです。バルディエ様は具合が悪くなったので、迎賓館へは来られないと」
具合が悪い。
エリオスは一瞬、言葉を止めた。
そういえば、今日の昼前に見かけた時、どこか顔色が冴えなかった気がする。いつもより、少しだけ目元に力がなかった。あの時、声をかけるべきだったのかもしれない。
「そうか」
そう答えたものの、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
交流会も終盤に差しかかった頃。
エリオスが前に立つ場面はひと通り終わり、歓談もひと区切りついていた。
大広間から少し離れた廊下へ出ると、音楽も人の声も遠くなる。壁越しに漏れる灯りだけが、足元に淡く落ちていた。
その時、曲がり角の向こうから、ひそめた声が聞こえた。
「……本当に、大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ」
イザベラの声だった。
「生徒会の方には、体調が悪くて欠席すると伝えてあるのでしょう?」
「はい。でも、まだ研究棟に……」
「王太子殿下のお名前を出しただけで、あんなに素直について行くなんて。よほど、ご自分が特別だと思っていらしたのね」
くすりと笑う声。
「帰りに出してあげればいいわ。水をかぶって、少しは目も覚めたでしょう。次からは、王子殿下方に近づく前によく考えるでしょうし」
エリオスの足が止まった。
胸の奥が、一瞬で冷える。
「今の話は、どういう意味だ」
低い声が廊下に落ちた。
令嬢たちは、凍りついたように振り向いた。イザベラの顔からも、笑みが消える。
「殿下……」
「研究棟に、誰がいる」
誰も答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
エリオスは踵を返した。
廊下の先にいたエリックが、ただならぬ様子に気づいて駆け寄る。
「会長、どうされました」
「悪い、エリック。急用だ」
「急用、ですか」
「研究棟へ行く。教師と護衛に知らせろ」
「殿下、護衛を――」
「後から来させろ」
エリオスはそれだけ告げた。
普段の彼なら、ここで令嬢たちを問いただし、教師を呼び、護衛を待ち、状況を確認したうえで動いただろう。
だが、その時のエリオスは、すでに走り出していた。
「後は任せる」
「承知しました。こちらはお任せください」
エリックの返事を最後まで聞く余裕もなく、エリオスは外へ向かった。
馬車を呼ぶ声が、硬く響いた。
研究棟。水。閉じ込めたような会話。
頭の中で、嫌な形に繋がっていく。
学院へ着く頃には、夜はすっかり深くなっていた。
研究棟は、闇の中に沈んでいる。
エリオスは廊下の照明を点け、迷わず中へ入った。古い石壁が薄い光に浮かび上がる。昼間よりも冷えた空気が、廊下に沈んでいた。
「バルディエ!」
返事はない。
資料区画へ近づくにつれ、床の一部が濡れているのが見えた。石床に、水の跡が残っている。乾ききらない筋が、小部屋の扉の前まで続いていた。
ここだ。
「バルディエ! いるのか!」
扉を叩く。
返事はない。
押しても、開かなかった。扉の外側には、錠が下ろされている。
エリオスの背筋が冷えた。
「リリアナ!」
呼んだ瞬間、自分の声が乱れた。
「リリアナ、聞こえるなら返事をしろ!」
扉の向こうで、かすかな音がした気がした。
部屋の中で、リリアナは遠くから響く声を聞いていた。
リリアナ。
自分の名前を呼んでいる。
エリオスの声で。
夢だ、と思った。
交流会の時間だ。エリオスが、こんなところに来るはずがない。
それなのに、声がする。
もう一度。
「リリアナ!」
胸の奥が震えた。
呼んでくれた。
名前を。
都合のいい夢だ。それでもいい。夢なら、まだ覚めないでほしかった。
扉の向こうで、鈍い音が響いた。
一度。二度。金具が歪む音。三度目で、鍵受けが外れた。
扉が開く。
冷えた空気と一緒に、灯りが揺れた。
エリオスが飛び込んでくる。
床に倒れ込んだままのリリアナを見た瞬間、エリオスの息が止まった。
濡れた髪。閉じられた目。荒い呼吸。服はまだ水を含み、肩にも袖にも重く張りついている。
「リリアナ!」
エリオスは駆け寄り、その場に膝をついた。
リリアナの身体を抱き起こす。
濡れた服はひどく冷たい。それなのに、身体は熱を持っていた。反対に、指先だけが氷のように冷えている。
「しっかりしろ。聞こえるか」
リリアナの睫毛が、かすかに震えた。焦点の合わない瞳が、ゆっくりとエリオスを映す。
「……夢」
かすれた声だった。
エリオスの胸が締めつけられる。
「大丈夫だ。もう大丈夫だから」
抱き上げようとした時、冷えきった指が、弱くエリオスの袖を掴んだ。
「呼んでくれた……」
「何?」
「名前」
涙が、熱い頬をすっと伝った。
「呼んでくれた」
リリアナは、夢を見ているように笑っていた。
助けられたことよりも、寒さよりも、濡れた服よりも、ただ名前を呼ばれたことだけを抱きしめるような顔だった。
「……リリアナ」
そう呼ぶと、リリアナはほんの少し眉を寄せた。
違う、と言いたげに。
けれど声にならない。その唇が、かすかに動いた。
「リリーって」
エリオスの呼吸が止まる。
「……何?」
「リリーって、呼んで」
小さな声だった。
熱に浮かされている。夢と現実の境が分からないのだろう。それでも、その願いはあまりにも切実だった。
エリオスの喉の奥に、ずっと沈んでいたような音があった。
呼んだことなどない。呼んだはずなどない。それなのに、なぜか。
その名は、最初からそこにあったように思えた。
「……リリー」
呼んだ瞬間、リリアナの目から涙がこぼれた。
「うれしい」
声にならないほどの声だった。
エリオスは動けなくなる。
リリアナは、確かに自分を見ていた。今ここにいるエリオスを。
それなのに、その瞳の奥には、ほんの一筋、触れられない遠さがあった。
懐かしむような。
待ち続けていた誰かに、ようやく見つけてもらったような。
そんな目だった。
エリオスは、その瞳から目を離せなかった。
「もっと……」
かすれた声が落ちる。
「もう一回、呼んで」
エリオスの喉が詰まる。
「リリー」
リリアナの表情が、ふっとほどけた。泣いているのに、幸せそうだった。
「呼ばれると……」
声が途切れる。
「私、ちゃんといるって……思えるの」
その言葉を最後に、リリアナの身体から力が抜けた。
「リリー!」
エリオスは反射的に抱き寄せた。
返事はない。ただ、熱だけが腕の中に残っている。
どういうことだ。
なぜ、名前を呼ばれただけで、あんなふうに泣いた。
なぜ、自分はその名を呼びたかった。
分からない。分からないのに、胸の奥だけがひどくざわつく。
けれど、考えている時間はなかった。
エリオスは外套を脱ぎ、濡れた身体ごとリリアナを包んだ。
抱き上げようとして、ふと手元に目が止まる。
手袋まで、完全に濡れていた。指先があまりにも冷たい。
「手袋を外すぞ」
返事はない。
エリオスは慎重に、冷えきった指を傷つけないよう手袋を外した。
その瞬間、動きが止まった。
左手の中指。
そこに、細い指輪があった。
飾り気のない、小さな輪。
けれど。
自分の指にあるものと、よく似ている。
同じ場所に。
同じように。
まるで、初めからそこにあるのが当然だったみたいに。
エリオスは、息を忘れた。




